追悼・松尾高志さん
お別れのことば
松尾高志さん。急なお別れになりました。
あなたが日本の平和運動のなかでどれほど貴重な存在であったか、その評価を過去形で語るには、いかにも早すぎます。
ジャーナリストとして松尾さんは、私にとっては山田昭門下の兄弟子でした。松尾さんは一九七〇年にジャパンプレスサービスという通信社に入社して、山田昭さんのもとで「ジャパンプレス・ウィークリーブレティン」や「現代史の記録」の取材・執筆・編集をされていましたね。私はその翌年に朝日新聞社に入り、たびたび山田さんの教えを受けてきました。
一九七二年、世界の平和を求め、社会の進歩を求める運動の中で、松尾さんは会社の内外で起こった政治的な事件に巻き込まれて、何人かの人々とともに会社を離れ、フリーのジャーナリストとして独立されました。この経験は松尾さんのなかに深く陰を落として、物事をより慎重に考える習慣と、権力的なものに対する反骨精神を、よりいっそう強めることになったと思います。そして私は企業に属したまま、書籍編集者としての道を歩みました。そのように、一九七〇年前後を原点として、松尾さんはジャーナリストとして私の一歩前を歩き続けてきました。
松尾さんが軍事問題を深く研究されて、この分野に限れば師匠の山田さんの跡を継ぐばかりか、それをさらに超えるだけの仕事をされたのは、誰もが認めることです。文献や情報を深く読み込み、詳細に分析する松尾さんの仕事は、何よりも信頼性の高いものでした。学究肌、と表現しても良いかもしれません。平和憲法のもと、軍事知識が求められることの少ない日本で、松尾さんのように、戦争評論家として活躍することを望まず、民衆の側から戦争を防ぐためにこそ軍事知識を活かそうとする人に、陽の当たることが少なかったのを残念に思います。
そして松尾さんは、研究室にこもる人ではなく、行動する市民運動者でした。呼ばれればどこにでも出かけて講演をする、あるいは研究会に出席して持論を述べる、フットワークの軽い運動者でした。日本平和委員会の理事として活躍されたことはよく知られています。一九八五年に私も入れていただいて「平和に生きる権利の確立をめざす懇談会」を創立してからは、その中心的なメンバーとして活動してこられました。松尾さんの、よく考えぬかれた短い発言が、議論の流れを変えた場面を、いくつも思いだします。議論のあと、酒場に場を移してからのくだけた会話では、真剣なまなざしとは打って変わって目を細めた笑顔の松尾さんの、民衆の歴史に対する深い信頼感、楽観的とも思える未来像に、いつも頭の下がる思いでした。
さて、松尾さんがこの間取り組んでこられた、有事法制研究、日米同盟分析の成果が、いまほど活用されなければならない時はありません。私は編集者として松尾さんに、近年の講演録をまとめて、今年中には本を出さなければいけませんよ、と言っていました。そうだよなあ、と答えながら、松尾さんはこの仕事にとりかかることができませんでした。
私たちが松尾さんの何をどう引き継ぐのか。たいへん重い課題ですが、松尾さんなら、まあ何とかなるさ、あとはよろしくな、と言ってくれそうな気もします。そうですよね、松尾さん。
二〇〇七年六月一九日 大内 要三
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