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「平権懇」☆関係書籍☆残部僅少☆

  • ●大内要三(窓社・2010年): 『日米安保を読み解く 東アジアの平和のために考えるべきこと』
  • ●小林秀之・西沢優(日本評論社・1999刊): 『超明快訳で読み解く日米新ガイドライン』
  • ●(昭和出版・1989刊): 『釣船轟沈 検証・潜水艦「なだしお」衝突事件』
  • ●西沢優(港の人・2005刊・5000円+税): 『派兵国家への道』
  • ●大内要三(窓社・2006刊・2000円+税): 『一日五厘の学校再建物語 御宿小学校の誇り』
  • ●松尾高志(日本評論社・2008刊・2700円+税): 『同盟変革 日米軍事体制の近未来』
  • ●西沢優・松尾高志・大内要三(日本評論社・2003刊・1900円+税): 『軍の論理と有事法制』

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2008年9月

2008/09/30

2008.9.6 平権懇学習会「裁判員制度を考える  西野喜一」⑦

    引き受けてくれる弁護士がいるのか

また、果たして弁護士がこの制度に対応できるのかという問題があります。今の刑事裁判は、かなりの大事件でも公判はせいぜい月2回です。弁護士さんは民事事件で収入を得ているわけで、刑事事件は、特別のスポンサーがついているような例外的なものを除いて、まず金にはならない。金に困ってコンビニを襲うような人を弁護しても収入にはならないわけです。民事事件で収入を得ながら、月2回程度の公判なら刑事事件にも対応できるというのが現実です。しかしこれからは、月2回の公判では、裁判員に、この前の公判ではこんなことをやりましたね、などといってもすぐに忘れますから、連日やることになります。月から金まで毎日やる。そうすると弁護人には、それに対応するだけの力がいります。東京では弁護士数100人を超える大事務所がありますね。いちばん多いところでは今385人いるそうですが、そういう事務所はビジネス関係の事件しか扱いません。刑事事件などはやらない。また地方ですと個人事務所が多いのですが、そういうところは民事で収入を得て、その合間に刑事もやっているというのが現実です。準備を含めて1月も2月もその事件だけに専念しなければならないような事件に対応できるのかどうか、私は疑問に思いますし、弁護士さんも無理だと言うのではないでしょうか。

4番目の問題は、裁判員制度では費用がかかりすぎることです。この国家財政の窮迫のおりに、法廷の増築・改修やら裁判員の旅費・日当やらでものすごい費用がかかることをやろうとしているわけです。

5番目の問題は、この制度では国民に多大な迷惑、負担がかかることです。憲法改正も国民投票もなしに、新しい国民の義務を作りだそうというわけです。

今は全労働者のうち実に3分の1以上が非正規労働者、パートとか派遣とかだといわれます。審議会ではそういう非正規労働者に対する目配りはまったくありませんでした。審議会でも1人だけ労働者の代表というべき人がおりました。しかし審議会でその全国的な労働団体の役員は何をしておったのか。陪審制の議論をしていたころには、熱心に陪審制を推奨する議論をしておりました。陪審制の話が参審制である裁判員制に切り替わったときには、裁判員制は一見憲法違反に見えるかもしれないが、決して憲法違反ではないという議論を熱心に展開している始末でした。

多少に嫌みになるかも知れませんが、いまやわが国の労働組合の組織率は2割ないわけですね。労働者のうちで労働組合に加入している者はわずか18パーセントぐらいです。全国的な労働団体のトップレベルの人が、労働者の利益をいかに守るかということよりも、刑事司法を己がやりたいようにするためにはどうしたらいいか、ということに熱中していた。これでは労働者に見放されても当然ではないか、というのが私の意見です。

6番目の問題点として、裁判員制度は国家主義的な、あるいは全体主義的な思想を醸成するということが挙げられます。この制度は、国民は司法に協力せよ、どんな事情があろうとも司法に協力することを優先せよ、というわけですから、個人の事情よりも国家の利益を優先するという思想の上に成り立っています。陪審制・参審制をやっている国はすでにそうです。アメリカなどは典型的にそうだと思います。国民は国家に協力すべきだという考えがたいへん強い。国家が求めるのであれば鉄砲をかついで戦場に行くのと同様に、陪審員の呼出状が来ればそれに答えるのは当然であるという観念が強いわけです。また参審制を採っているドイツ、フランスでは、現在でも徴兵制を持っております。そういう思想のうえにできた制度が、わが国にも適用されようとしている。

すでに報道規制が現実化していることは先ほど申しました。都合が悪いことは書いてくれるなと最高裁から申し入れがあったわけですね。のみならず、裁判員制度の広報が新聞に載りますと、当然国民もこれは政府の公報だという目で見ますから、多少割り引きして見る。そこで、記事の中で広報してくれという申し入れまであるのだそうです。したがって国民としては、見かけは記事であっても中身は広報ではないのかと注意しなければなりません。現在表れているところでは、マスコミはすでに御用報道一色であると言っていいだろうと思います。大新聞が大々的に裁判員制度批判の論陣をはることはあり得ないわけですね。アリバイ証明のような形で小さな反対論を載せることはありますが、ある程度以上大きな記事だと、必ず制度讃美の内容です。

2008/09/29

2008.9.6 平権懇学習会「裁判員制度を考える  西野喜一」⑥

○クジで選んだ国民に任せて大丈夫か

裁判員は義務教育修了だけを条件として、国民の中からクジで選ぶわけですが、きちんとした判断ができる人がどれぐらいいるのか、というのが大きな問題だと思います。確かに国民のうちには数パーセント位は、並みの裁判官以上に立派な洞察力、判断力を持った方がいるかもしれません。しかしその次の2割、3割は、並みの裁判官とそう変わらないだろうと思います。その次の3割、4割は、あんな人にやらせるよりは裁判官に任せたほうがまだしもマシであるという人だと思います。そして最後の1割ほどにどういう人がいるのか。明らかにこんな人にはとてもやらせられないという人が必ず混じってきます。明日は秋葉原に行って人を殺してくれようと思ったけれども、たまたま裁判所から呼出状が来たから裁判員をしようか、なんていう人までいるかもしれません。クジで選ぶということは、そういう人が混じっても構わないということです。

陪審が徹底しているアメリカの例を見ますと、誤判や冤罪が無茶苦茶に多いんですね。昨年の8月下旬と記憶しますが、NHKの「クローズアップ現代」という番組でアメリカの誤判の多さを取り上げておりました。それによりますと、死刑を宣告されたけれども無実と分かった者が124名発見されたということです。アメリカですと被告人は陪審を辞退することができますから、124件全部が陪審ではないでしょうけれども、半分としても大変な数字です。日本の4件の比ではありません。  

また、これは有名な調査ですが、アメリカで1980年代にある学者が犯罪類型をある程度絞ったうえで、死刑を宣告された者のうち本当は無実だという者がどれぐらいいるかを調べたら、何と300人以上も発見された、そのうち20名余はすでに死刑執行済みであった、という調査結果があります。陪審は有罪か無罪かという結論だけを聞く制度なので、たいへん誤判が多いわけですね。そういう無作為抽出の国民を裁判員にして大丈夫なのだろうか、ということを、私などはたいへん不安に思いますし、少なくない国民もそう思うだろうと思います。

昨年の7月か8月でしたが、北陸の福井市でマスコミに関する全国的な会議があったときに、最高裁が係官を派遣して、裁判員制度が始まったらその事件の被告人の前科・前歴やら自白しているかどうかなどということを報道してくれるな、と言ったということがニュースに出ていました。このことは、最高裁は、くじで選んだ国民は、法廷に現れた証拠だけで冷静な事実判断ができるとは思っていないことを示しています。新聞やテレビで、この被告人はすでに自白しているとか、前科があると報道されると、それに当然影響されるであろうと考えているわけですね。だからこそマスコミに圧力をかけようとしているわけです。このように、最高裁は国民を信用していない、ということは頭にとどめておくべきでしょう。

また、裁判官とそのようにくじで集めた国民との間で評議がどれぐらい成り立つのかという点も、私は不安に思っております。現在の制度ですと裁判官3人はいつも同じ裁判官室におりますので、ちょっとでも疑問があればそのつど問題にして、いつでも評議をすることができます。いったん評議ができて判決を書き出していても、どうしてもうまく筆が進まない、頭の中では判決理由が完成していても、具体的に文章にしてみますとどうもうまく進まないのでまた評議、ということもあるわけですね。これは誤判防止に大変大きな役割を果たしています。

しかし、裁判員制ではそうはいかないでしょう。どこまで深い議論ができるかが問題ですし、いったん評議成立で解散してしまえば、問題があることが分かってももういっぺん集まることは、まあ無理でしょう。したがってこれからは、評議といっても簡単なものでよろしいと裁判所関係者がはっきりと認めております。判決も、今までは重大事件で、とくに争われている場合には、こういう証拠があるけれども、こういう理由でこの証拠は信用できないなどと、延々と解説、判断したわけですが、これからはそんなことは書けない、そもそもそこまでの評議はできない。これからはもう骨だけの判決になるがそれでよいと、すでに裁判所関係者が証言しております。重大でない事件はそうはいかないかもしれませんから、重大事件のほうが審理も評議も判決も粗雑になる可能性が大きい。これが来年からの現実であると思います。

また裁判員制ですと、検察の業務にも影響するだろうと思います。重大事件での司法取引も十分考えられます。つまり、検察官と弁護人が取引をするわけですね。たとえば弁護人は被告人をなるべく軽い刑にしてやろうと思って、殺人未遂で起訴されたら殺す気はなかったと徹底的に争うけれども、傷害で起訴するなら最初から認めるがどうか、と検察官にもちかけるわけです。検察官のほうも、傷害で起訴しておけば、裁判員の審理にはなりませんから、審理は簡単に済む、そこで、もう傷害で起訴しておこうということになる。こういうことは、陪審制のアメリカではすでに行われています。これからはわが国でもそうなるかもしれません。真実はどうであったのかということよりも、面倒さを避けたいというのは生身の人間であれば当然のことですから、今後はそうなる恐れがあると思います。いま挙げた殺人未遂と傷害の例は、フランスではすでに行われていることです。フランスでは一定以上の重大事件だけを参審制にしているからです。つまり殺人未遂なら参審制になりますが、傷害ならばそうならないわけでして、日本の裁判員制度と同じですね。

2008/09/28

2008.9.6 平権懇学習会「裁判員制度を考える  西野喜一」⑤  

○こんな粗雑な裁判でいいのか

公判を3日程度で終えることにしますと、今度はどんな証拠をどんな順番で調べるのか、事前に決めておかなければなりません。それが今度導入された公判前整理手続です。今までは起訴状一本主義と申しまして、裁判官は法廷が始まるまでは検察官の起訴状しか見ていない。被告人は何の容疑で起訴されたかということだけは分かるけれども、それを被告人が認めるのか認めないのか、そして認めない場合にはどんな証拠調べが必要になるのか、背後の状況はどうなのか、そういうことは全然分からず、虚心坦懐に法廷に臨むとされていました。

それを今後は公判前整理手続で、どんな証拠をどんな順番でどの程度調べるか、あらかじめ決めておくというわけです。証人Aを検察側が1時間程度尋問する、弁護側が1時間程度反対尋問する、と決めておくわけですね。実際に証拠調べを始めたところ意外な証言、意外な事実が出てきて、もっと聞きたいとなったらどうするのか。公判期日を延ばすのは裁判所は危険だと思うでしょう。裁判員が出てこなくなる恐れがあるわけですから。そうすると途中で中途半端なまま証拠調べは打ち切りになる恐れがあります。これからは場合によっては、中途半端なままに終わった証拠調べの結果に基いて判決を出せというわけです。

それからまた公判前整理手続で検察官と弁護人が、それぞれのやりとりをします。検察官は事前に証拠を承知しております。弁護人の証拠も事前に出ております。それに基づいて整理をするのですから、当然、その雰囲気は裁判官にも伝わります。したがってこれからは公判前整理手続で裁判官に予断を与える技術がどんどん発達すると思います。私が弁護人なら当然そうしますね。これは冤罪であると裁判官がもしかしたら信じてくれるかもしれない、というような雰囲気を作り出そうとするわけです。言い換えますと、検察官も逆の立場で当然そうするだろうということです。今後はそのへんから裁判の実体が始まるわけです。

それから、今回の裁判員制度では非常に乱暴な点がいくつもあります。

そのひとつは公判の更新手続というものです。裁判員も生身の人間ですから、突然急病になって公判に来れなくなるということはあるでしょうね。事故があって来れないということもあるでしょう。そういう場合に備えて予備の補充裁判員も一緒に公判に立ち合わせておきます。誰か正規の裁判員が欠けたら補充の裁判員を繰り上げて公判を続けるわけですが、その補充の裁判員も使い切ってなお足りなくなったらどうするのか。その場合は裁判員をあらためて選びなおすんですね。新たに選びなおして公判に参加してもらいます。公判の途中から参加させるという、たいへん乱暴な制度です。

欧米諸国では陪審でも参審でも、途中で陪審員なり参審員なりが欠けて、途中で選びなおした場合は当然、手続は全部最初からやり直します。そうでないと途中から証拠調べに加わった人、先週はどんな証拠調べをやっていたのか知りません、という人が入ってくるわけです。ですからそういうことがないように、足りなくなって人を選びなおしたら、手続をいちばん最初からやり直します。

しかしわが国ではそうはしない。途中から入ってきても構わないというのです。その人に今までどんなことをやってきたのかということを、どうやって伝えるのか。法廷での証拠調べの様子をビデオかDVDで撮っておくのかもしれませんけれども、それはまた1週間分を見るだけでも1週間かかりますから、どんなことになるのか、私などはたいへん不安に思います。

また、部分判決制度というこれまたたいへん乱暴な制度が、昨年の法改正で取り入れられました。たとえば連続殺人事件のように、大きな事件が2つも3つもある場合には、これはどうがんばっても3日では終わらないので、事件ごとに裁判員のチームを作って判断しようというわけです。AチームはA事件だけの証拠調べをやって、A事件の有罪か無罪かだけを判断する。BチームはB事件の審理だけをやってB事件だけ有罪か無罪かだけを判断する。最後のCチームはC事件の証拠調べをやって、C事件が有罪か無罪かを決めたうえで、A事件、B事件を含めた全体の量刑を決める。

ということは、全体の量刑を決めるCチームは、A事件、B事件の証拠を見ておりません。証拠を見ずに量刑をさせるという、とんでもなく乱暴な制度です。のみならず、A事件は有罪の結論が出た、B事件も有罪となった、しかしC事件は無罪となった場合でも、Cチームは、A事件、B事件の証拠を見ずに全体の量刑をしなければなりません。そんな乱暴な制度をやっている国はひとつもないわけでして、被告人としてはたまったものではないだろうと思います。

それからまた一審で判決が出ますと、検察官も弁護側も、不服があれば控訴ができます。そして高裁が何らかの理由で原判決を破棄し、審理をやり直せと言って一審に差し戻す。まあ、ときどきあることですね。この場合、すべての陪審国・参審国では審理は最初から完全にやり直しです。陪審員を選びなおすことから始めて、証拠調べを全部やり直す。そういう国では同じ証人が何回も呼ばれることがあるわけですね。それはもう仕方がない、国民が裁判に協力するということにはそういうことも含まれると割り切っている、そういう国柄です。ところがわが国の裁判員制度では、高裁で破棄されて戻ってきた場合、一審の審理はどうするかというと、証拠調べは何と前の続きだけをやるのです。裁判員は選びなおします。そうすると、前の証拠調べの様子を知らなければなりません。ビデオを見てくれ、DVDを見てくれということになるのだと思いますが、1週間審理をした事件ならば再生するのにやはり1週間はかかるでしょう。その後で、また新しい証拠があればそれだけを付け加えて、新たに判断する。

しかしながら一審と高裁の判断が分かれて、高裁から差し戻されてきたという、裁判官でも難しいような事件を、抽選で当たった国民にやらせようというのでは、いったいどんな判断になるのか、私はたいへん不安に思いますし、被告人も不安に思うでしょう。

2008/09/27

2008.9.6 平権懇学習会「裁判員制度を考える  西野喜一」④  

4

3日間で真実が分かるのか

3番目の問題点は、裁判員制度のもとでは審理も判決も非常に粗雑になって、真実の探究がおぼつかなくなるのではないかということです。

これまでの裁判では実体的真実主義のもとに行われてきました。実体的真実主義というのは、裁判の外に真実がある、それはいったいどんなものであるかを追求するのが裁判であるという考え方です。国によっては、そんなものはない、裁判所の言うところが真実だという考え方もあるわけですね。そういう国では裁判所が決めたことがすべて正しいわけですから、この判決は誤判だ、間違いだということはない。しかし、わが国ではそうはいきません。わが国では裁判に真実の発見を期待するのが国民性だろうと思います。本当はどうだったのか、それが知りたいから裁判の傍聴に行く。また、重要事件の判決の後には、真実が明らかになったかどうかということが必ず注目されます。

ところが問題は、裁判員制度のもとでこれが果たしてどうなるかということです。今のところ最高裁が出している資料によりますと、公判は3日程度になるようです。1日目の午前中に裁判員の選任をやる。午後から公判に入る。2日目はまる1日審理に充てる。3日目の午前中は審理をし、午後は評決をして結論を出す。そういうものを予定しているようです。問題は、裁判員制度の対象となる「重大事件」が、3回程度の公判で正しい審理ができるのか、真実が追究できるのかということです。

今までの統計を見ますと、自白事件、被告人が確かに私がやりましたと言っている事件でも、公判は平均4回かかっております。刑事の公判の1回はまる1日です。午前10時から始めて、午前中に証拠調べをやり、昼休みはとりますが、1時からまた証拠調べを再開して、3時ごろには休憩をとるけれども、4時過ぎまでずっと証人尋問をやるのが普通ですね。現在では、確かに私がやりましたという事件でさえ、平均で4回はかかる。まして被告人が、私は知らないと言っている事件なら平均して10回位はかかっております。人を場合によっては、死刑台に送るか、長期間刑務所に送るか、という重大な判断なのですから、時間がかかっても慎重に審理をすべきことは当然でしょう。

数年前、仙台で看護師による「筋弛緩剤殺人事件」と呼ばれるものがありました。これは1審では有罪でしたが、公判は126回やったそうです。裁判所はそれだけの審理が必要だと思ったからそうしたのでしょう。今年判決があった秋田県藤里町の児童連続殺傷事件では、公判前整理手続を延々と実に12ヶ月もやりました。争点を絞り込んで、どんな証拠をどんな順番で調べるか、ということをさんざん話し合って効率化を図ったはずですが、それでも公判は13回かかりました。13回ということは、連日やっても2週間では終わりません。公判はウイークデーだけですからね。しかも事前に12ヶ月も延々と公判前整理をやっている間、被告人は法廷に出て取りあえず自分の訴えをするということもできず、拘留されっぱなしです。

わが国ではどうしてこんなに公判に時間がかかるのか。ひとつは法定刑の幅がたいへん広いためです。わが国の刑法で殺人を例に取りますと、上はもちろん死刑です。しかし下は懲役2年半で執行猶予が可能です。被告人にとって死刑と執行猶予では天地の差がありまから、量刑、つまりどれくらいの刑が適切かということを決めることがたいへん重要なんですね。被告人が確かに私がやりましたと言っている場合でも、その人はどういう人生をたどってきて、どうしてこういう犯罪をやったのか、犯行に及んだ時の状況はどうであったのか、ということを非常に詳細に調べてきました。その結果として、殺人の場合でも執行猶予が付いた例があります。

たとえば老老介護で疲れ切って、心中するつもりで配偶者を殺し、自分も死のうとしたけれども死にきれなかった、という例がときどき新聞に出たりしますが、これも相手を殺しているわけですから殺人ですね。しかしそういう例ですと執行猶予もあり得ます。あるいは昭和40年代に娘が実の父親を殺して執行猶予になった例がありますが、これは被害者になった父親というのがとんでもない奴でして、娘を中学時代から強姦し続けて5人も子どもを産ませたというものです。

ことほど左様に量刑が重要なのです。だからこそ当然、公判での審理に時間がかかります。故意の殺人に対しては死刑しかない、という国もあります。そういうところでは何も詳しい背後事情を調べる必要はありません。裁判は、やったかどうかの問題だけです。わが国ではそうではない。きめ細かく調べて、きめ細かい対応をすることが求められてきました。

しかし裁判員制度で、国民から抽選で呼び出して裁判に参加させるということになったときに、国民からは、そんなことはやりたくない、忙しいのにそんなことはやっていられない、裁判官に任せておきたいという声が多数出ることは明らかですから、このことを予期して、最高裁判所は、重大事件の刑事裁判といってもたいしたことはないのだ、せいぜい数日のことなのだ、と言い続けてきました。その結果、たいていの事件では、3日ほどで裁判を終えなければならなくなったわけです。

その際もうひとつの路線としては、国民の皆様にはたいへん迷惑をかけるけれども、  これは国民の義務である、いざとなったら鉄砲をかついで戦場にいってもらうかもしれないけれども、それと同様のつもりで裁判に協力してもらいたい、10日かかるか20日かかるか1月かかるか分からないけれども、それも国民の義務である。そういう行きかたを採る可能性もあったでしょう。現に陪審制、参審制をとっている諸国はこういう路線をとっております。しかしこれはいまのわが国ではとうてい無理な考え方でしょう。

あらかじめ3日で終えますよと決めておいて審理をする、そんな乱暴な刑事裁判は他の国に例がないと思います。陪審制のアメリカですと、重大事件は始まる段階では何日かかるか分かりません。当事者が調べてくれという証人は皆調べるからです。現に1月かかった例もあります。毎日開廷です。9ヶ月もかかった特別な例もあります。陪審員は皆疲れ果て、頭がおかしくなりかけた人が何人も出たと聞きました。しかしアメリカでは陪審は市民の義務であるという考えがたいへん強いので、それでやって行けるのです。

2008/09/26

2008.9.6 平権懇学習会「裁判員制度を考える  西野喜一」③  

3

    憲法違反の制度を実施するのか

                                                            

 2番目の問題点は、この制度は憲法に違反するということです。言うまでもなく憲法はわが国の骨格を定めた法でして、これに反するようなことがあってはならないものです。どうしてもどこか具合の悪いところがあるならば、正式に憲法を改正して、新しい体制作りをしていくのが本道で、憲法改正をせずに、それをかいくぐってやるわけにはいかないものです。しかしながら私の意見では、裁判員制度は完全に憲法違反です。これを「違憲のデパート」と呼んだのは私ですけれども、この言葉は幸いにも使ってくれる人が多くなりました。こんなことを本当にやっていいのかと思うほど憲法違反が多いのです。憲法の具体的な解釈論、法律論については今日はカットしますが、近く刊行される『裁判員制度批判』(西神田編集室)という専門家向けに書いた論文集のなかで、どこがどのように憲法に違反しているのかということを、ていねいに書いたつもりですので、もし興味があればこれを見てください。

 ただし、推進論者の超強引な合憲論について、ちょっと述べておきたいと思います。裁判員制度をやりたい人は、これを是が非でも憲法違反ではないということにしなければなりません。そこで御用学者は、これは憲法違反ではないとさまざまな理窟を唱えているわけです。その中には、本当に無茶苦茶としか思えないようなものがあります。

たとえば、最高裁と高裁は憲法が定めた裁判所であるが、いちばん下の地裁には憲法の規制は及ばないのではないか、と真顔で言った人もあります。地裁には憲法の保障が及ばない、好き勝手にやればよいと言うわけですね。これはとんでもないことで、いやしくも憲法論者を名乗っている人、大学で憲法を講じている人がそういうことを言う時代になったということを恐れるべきだと思います。

 それからまた、実際に裁判員制度で問題になるのは、その人が有罪か無罪かということが中心だと思いますが、これは事実の問題ですね。その有罪か無罪かを判定する事実の問題は裁判の本質的な要素ではない、裁判所の仕事から外してもかまわない、とこれまた堂々と唱える人がおりました。事実認定は裁判所以外で担当しても構わないとなると、県庁や市役所で判断しても構わないことになりますが、さすがにそういう人でもそこまでは言わないと思います。

 それからまた、憲法で被告人にはこういう権利があるという条文がいくつかあるわけですが、条文によって「裁判所」という言葉の意味が違うと言う人がおります。つまり憲法は第6章で「司法」という章を設けまして、裁判所についていろいろ規定しておりますが、30条台の人権にかかわる規定の中にも裁判所という言葉が出てきます。37条には「すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な裁判を受ける権利を有する」と書いてあるのですけれども、第6章に出てくる「裁判所」と37条に出てくる「裁判所」では意味が違う、と堂々と主張する人があります。こうまでしてでも、裁判所に裁判官でない者が加わっても構わない、という結論を導き出したいわけです。

 結局、一部の推進論者の唱える憲法論はこのように乱暴で危険なものでして、こういう論理が通るのであるならば、憲法はなんとでもなります。例えばわが憲法第9条は戦力の保持を禁じているわけですが、先のような議論が通るのであれば、どんな解釈でも可能になります。例えば、核兵器以外は戦力でないとか。こういう憲法論議をしているのが、現在の危機的な状況です。

 現在の主流と思われる憲法学者の合憲論はそれほどひどくはなく、もうちょっと洗練されておりまして、一見するとそういう議論がなり立つのかなあと思われるような巧みなレトリックを使っております。しかし、私の意見では、それも細かく見ていきますと、やはり裁判員制度合憲論はとうてい無理です。先ほどご紹介いたしました『裁判員制度批判』では、一見洗練された合憲論でも、それが本当はいかに粗雑なものであるかということを、私としては十分に論証したつもりでおります。

2008/09/25

2008.9.6 平権懇学習会「裁判員制度を考える  西野喜一」②  

2

○国民の8割が反対している

 まず総論ですが、これからその問題点を6点挙げてみます。事柄の性質上、楽しい話にはなりませんし、血湧き肉躍るという話にもなりません。地味な話になりますが、大事なことですので、そこは我慢して聞いて下さい。

 最初の大きな問題点は、この制度にはなんら必然性、必要性がないということです。国民が刑事裁判を是非これでやりたいと言ったことはないし、そういう声が盛り上がったこともないわけですね。それどころか逆に、周知が進めば進むほど反対意見が増えております。最初内容がよく分からなかった頃には、はっきり反対と言う人は少なかったけれども、だんだんその詳細が分かってくるにつれて、今ははっきり反対という人という人が増えてきて、今ではこんな制度はいらないという人が、世論調査によれば国民の8割を超えております。

世論調査も曲者でして、政府系の機関がやる世論調査では、こんな制度はいらないという結果が出ては困る。だから、いらないと思うかという選択肢は最初からないわけですね。裁判員制度はこれこれこういう制度ですが、あなたはどこまで協力できますか、というような問題が作ってある。あれはもう世論調査という名前の政府の広報です。政府の息のかかっていない世論調査ですと、率直な調査ができるので、いま反対は国民の8割を超えていることがわかります。

 そもそも立法や行政は多数決でよろしいと思いますし、多数を反映するのが立法や行政だろうと思いますが、司法がそれでいいのかというのが問題ですね。少数者を保護するところが司法の機能ですから、みんながそう言うからそれでよい、というわけにはいかない。ましてこの制度には圧倒的多数の国民が反対しているのです。

 制度を作ってしまった以上、なぜやるのかという理屈を立てなければなりません。やる方はどういう理屈を立てようとしているのか。審議会の途中では、推進派は、冤罪を防止するため、誤判を防止するために国民参加が必要なのだと唱えました。しかし審議会の最終答申では、まったくそれに触れておりません。審議会は政府の機関ですから、答申に、これまで誤判があった、冤罪があったと書くはずがないわけですね。そこで「司法の国民的基盤を強化するため」にこういう制度が必要なのだと書いてあります。しかし審議会で、司法の国民的基盤とはいったい何か、ということを議論したことはありません。司法の国民的基盤は今はどの程度のものなのかという議論をしたこともありません。これはもう明らかにとってつけたような理屈です。

 訳の分からない理屈では具合が悪いので、裁判員法の1条では、「司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上」のためにこういう制度を作ったと書いてあります。しかし司法に対する国民の理解を増進する、信頼を向上させるというためには、穏当で着実なやりかたがいろいろあるでしょう。被告人の運命を教材としてそれをやろうというのは何とも乱暴です。

 推進派の論者は、「裁判に健全な社会常識を反映させるため」にこういう制度が必要なのだと言います。しかしこれもずいぶんおかしな議論でして、それでは裁判官には健全な社会常識はないのか、いっぽう義務教育の終了だけを条件としてクジで選んだ人間に「健全な社会常識」があるのか、となると、まったく疑問と言わざるを得ないでしょう。率直に言ってしまえば、被告人にとって運が良ければ健全な社会常識を持った裁判員に当たる、というだけのことだろうと思います。

また、裁判員制度の対象となっているのは重大な刑事事件だけですから、重大な刑事事件以外の刑事事件や一般の民事事件では「健全な社会常識」は反映しなくてよいのか。あるいは、裁判員制度でやるのは一審だけ、地裁だけで、高裁に行ったら今度は裁判官だけの判断になりますから、そこには「健全な社会常識」が働かなくともよいのか。そう聞かれたら、おそらく答えられないでしょう。これもまた、とってつけた議論にすぎません。

 それからこの制度では、被告人は裁判員審理を辞退することはできません。そういう危なっかしい裁判では自分は心配だから、従来通り裁判官の審理で願いたい、と言ってもダメなんですね。なぜ辞退が認められないのか。それは国会でもある議員が質問していました。それに対する政府の参考人の答弁は、「辞退を認めると、この制度が利用されなくなる」というものでした。つまりこれを作った政府側といえども、この制度を選択制にすればもたない、誰も選択しない、ということがよく分かっているわけです。

2008/09/24

2008.9.6 平権懇学習会「裁判員制度を考える  西野喜一」①  

5    裁判員制度は審議会での妥協の産物

 これから裁判員制度の話をさせていただくわけですが、私はこの制度の反対論者でありますので、どういう問題点があるのかをぜひご承知いただきたい、という話になります。いまのマスコミは御用報道一色でして、全然信用できません。要するに、マスコミが最高裁の広報予算に群がっているわけで、これでは裁判員制度批判は出てこない状況ですね。それだからこそ裁判員制度の問題点を知っていただくことに充分な意味があるわけです。

 まず、裁判員制度とはいかなるものか、これはだいたいご存じだと思います。一定以上の重大刑事事件につきましては、すべて3人の裁判官と、有権者から抽選で選ばれた6人の裁判員で、事実の認定、法の適用、量刑を行うという制度、つまり一種の参審制です。細かいことは別として、原則としてこういうことだとご理解いただけばよいと思います。

なぜこのような制度ができたのか。要するに、司法制度改革審議会がこういう制度を作れと言ったからです。司法制度改革審議会は内閣直属の審議会として1999年にできまして、2年間審議をいたしました。最後に答申を出して解散したわけですが、その答申でわが国の司法制度についてさまざまな提言をしました。そのなかのひとつが、この裁判員制度でした。

その司法制度改革審議会では、裁判に国民の参加を求めるかどうか、一種の陪審制なり参審制を求めるかどうかが最大の論点になりまして、そこでは陪審派と反陪審派が文字通り激突いたしました。陪審派は、裁判官だけで審理をすると誤判が起こるから陪審制を導入すべきだと主張し、反陪審派は、陪審制こそ誤判を生む、たいへん危険な制度だと言った。激突、激論があったわけです。ある時の会議では、陪審派の急先鋒の論者が、陪審批判論に興奮して反陪審派に罵声を浴びせるということまでありました。そこで審議会の会長が、まあまあと双方を抑えて、何らかの形での国民参加を採り入れる、その代わり陪審制ではないことにする、という形で双方をなだめたわけですね。それが裁判員制度になったわけです。

したがってこの裁判員制度はまったく妥協の産物でして、審議会でも裁判員制度がいいと思っていた人はほとんどいない。陪審派は、陪審は通らなかったけれども、一種の国民参加は実現したから我慢しようと考え、反陪審派は、陪審だけはともかくも防いだから我慢しようと考えたのです。つまり裁判員制度はこういうメリットがあるから、というので実現したわけではありません。仕方なく両方が折れ合ったのが裁判員制であったわけです。

審議会の最終意見をまとめるところまでさんざん両者はもめまして、両者ともこれ以上は表現でも一歩も妥協はできないというぎりぎりのところでまとまったのが、最終意見書だったのです。もうこれ以上は「てにをは」ひとつも動かせないという、苦心の、文字通りの妥協の産物でした。

 そもそも何のために裁判員制度をやるのか、現行方式にはどんな問題があるのか、裁判員制度でやればどこがどうよくなるのか、ということを、驚くべきことに審議会ではまったく議論しておりません。昭和50年代にわが国でも、死刑が確定していたにもかかわらず、再審で無罪になったという重大な事件が4件ありました。これは確かにとんでもないことです。そこで、そういう事件がなぜ起こったのか、何が原因で起こったのか、二度と起こさないようにするためにはどうしなければならないのか、ということこそ議論しなければならなかったはずです。しかし、審議会ではそういうことはまったく議論しておりません。要するに陪審派の主張は、こういう誤判があるから陪審制を導入すべきだという、ただ1点だけだったんですね。

そもそも国民は司法参加を求めているのか。国民が司法参加をすれば誤判・冤罪はなくなるのか。また、なぜ重大刑事事件だけが対象なのか。裁判員制度での審理はいったいどういうことになるのか。粗雑なものにならないだろうか。弁護士がそもそもそういう制度に対応できるのか。そしてまた裁判員制度はわが国の刑法、刑事訴訟法の体系に調和するのか。そういうことを、審議会では驚くべきことにまったく議論しておりません。憑かれたような熱気の産物、それが裁判員制度であったわけです。

 審議会の答申が出たときに、いくらなんでもこんなに無茶な制度が実行されることはないだろうと思っていたのですけれども、実際に法案が国会に出ますと、あれよあれよという間に通過いたしました。これほど重要な法案、わが国の重大刑事裁判のありかたを根本的に変えようという法案を通すのに、国会での審議はまさに拙速としか言えないものでした。実際に審議をしたのは、衆議院で3週間、参議院で1週間です。衆議院では全員賛成、参議院でも賛成多数、2人反対者があったようですが、圧倒的多数です。

その後、準備期間が過ぎていくうちに、これにはとんでもない問題があるということがだんだん明らかになってきました。つい先日は社民党が、実施は凍結して再検討すべきだという決議をしたという報道を見ました。共産党も、「前から再検討すべきだと言ってきた」と言っているそうです。また、つい数日前に見たある新聞では、民主党の党首が、「われわれが政権を取ったら裁判員制度は考え直す」と言ったとありました。詳細に検討してみると問題が多すぎるという法案を、国会ではよく検討もせずに、賛成、賛成で通したわけですね。

2008/09/20

イージス艦衝突事故の海難審判 見聞録

(「イージス艦の漁船衝突事件、海難審判始まる」9月18日付ブログ記事参照)

元神戸商船大学教授  照井 敬

今年219日に発生したイージス艦あたごと漁船清徳丸の衝突事故(清徳丸の船長吉清治夫と長男吉清丈が死亡)に関する海の裁判である海難審判の公判が9月4、11日、横浜地方海難審判庁で行われたのであるが、いくつかの問題点がある。

当事者として「受審人」となるべき漁船の船長が死亡したため、これが不存在のまま「指定海難関係人(事故原因に影響したもの)としてイージス艦の艦長のみが出頭することになった。現行の海難審判法上止むなしと言えるが、それでも衝突しなかった他の漁船の船長等を「利害関係人」として当事者とする方法もあったのではないか。今後の課題である。

(「平権懇」) 第4回海難審判が17日、横浜地方海難審判庁であり、清徳丸とともに漁に出ていた僚船「金平丸」の市原義次船長が証人として出廷し、「相手(あたご)が速すぎた」などと証言した。

審判の方は、織戸孝治審判長の開廷宣言の後、喜多保理事官(検察官)から申立書(起訴状)の陳述があり、その後、渡健前艦長以下5人の「指定海難関係人」に対する審判長等の尋問が行われたのであるが、理事官の申立てに対する認否の点で船渡艦長等が一斉に衝突時の清徳丸の針路方位がもっと右に向いていたとして、漁船の方位変化が衝突の原因となったと言うのである。そこで海上交通安全対策の本質と言う観点から整理してみることにした。

(1)漁船清徳丸の方位角度

この問題は、事故当時の海上保安部の操作による双方の観戦の位置関係の海図に対し自衛隊が異議申し立てをし、漁船関係者の激しい抗議と反発を招いたことの繰り返しである。今回の理事官の提出した申立書の海図を見ても基本的に海上保安部による海図と同じもので、これは当時の漁船関係者とあたご乗組員の双方の関係者から事情聴取の上描かれたものであり、海上衝突予防法の横切り船における「イージス艦あたご」が避航船(針路を右転するかストップするかにより相手船を回避する義務がある。)であることに変わりはないのである。

 しかし、渡前艦長が描いた清徳丸の「修正針路」はまるで「自爆テロ船」のように「あたご」の後を追いかけるような針路で衝突したことになるが、先ず、船乗りの常識として、こんなことは絶対にあり得ない。このように故意に衝突原因を清徳」丸に転嫁していることは許しがたいと言うべきである。

(2)イージス艦の航海計画・艦長の管理責任

そもそも今回の事故の本質的原因と言うべき問題として、イージス艦の航海計画と艦長の管理責任がある。ハワイにおける日米共同ミサイル防衛の訓練を終えて帰路に就いたのが26日、それから約2週間で日本の母港に着くのであるが、この間、12ノットの速力と自動操舵により航海してきた。これが太平洋の度真中であれば、当然というかごく普通の航海形式であろう。しかし、日本の近海に接近すると、漁船、貨物船、その他大型、小型の船舶が多数存在することを当然の事態として「予見可能性」の範囲に置かなければならないはずである。そういう事態はまさに衝突の危険と言う「戦闘状態に入れり」というべきであるから艦長自らが「陣頭指揮をとる」のが当然ではないのか。それなのに艦長は当直交替の関係で艦室で仮眠中であったと言う。法律以前の問題として余りにも無責任ではないか。それに「あたご」は7700トンある巨大艦船であることから、回避動作が鈍くなる。多数の艦船と接近することを想定すれば安全対策の第一が先ず速力を半分の5~6ノットに落とし、自動操舵から手動操舵に切り替えるべきである。

(3)イージス艦の艦橋見張り体制、レーダーなどの機器管理

安全対策の基本が欠けているからCICと艦橋見張員との連係にしてもいろいろなミスが出てくるのであり、「航行指針」のマニュアルにしても、艦長のリーダーシップがしっかりしておれば「指針」に反することはなく衝突の危険などは起こり得ないのであるが、海上自衛隊は「なだしお事件」と同様に安全保障の何たるかを忘れたようである。特に「証拠」として提出されたという渡前艦長による「修正海図」なるものは第二の「航海に日誌の改ざん」(なだしお事件)になりそうである。(2008.9.13記)

(「平権懇」) 

「『あたごが速すぎた』イージス艦海難審判で証言」(神奈川新聞 2008.9.18)http://www.kanaloco.jp/localnews/entry/entryxiiisep0809463/

「イージス艦事故海難審判 『反省とは受け取れず』」(東京新聞 2008.9.5)http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/20080905/CK2008090502000138.htm

2008/09/18

イージス艦の漁船衝突事件、海難審判始まる

219日に起こった事件に対し、「平和に生きる権利の確立をめざす懇談会」は225日付で声明を発し、注目してきたが、94日、横浜地方海難審判庁でこの事件の海難審判が始まった。

事件番号20-29、事件名は「護衛艦あたご漁船清徳丸衝突事件」。以後、第2回を911日、第3回を12日、第4回を17日と早いペースで審判が進み、第5回が25日に予定されている。マスコミの注目度も高く(その割には新聞記事の扱いも小さいが)、くじ引きによる傍聴券入手の競争率も高かったため、平権懇会員は誰も傍聴できなかった。

幸いにかつて「なだしお事件」でお世話になった照井敬・元神戸商船大学教授が、仙台のご自宅から前夜東京泊の気迫で第1回、第2回の傍聴券を獲得されたので、海難審判の「見どころ」解説を兼ねた傍聴記の執筆をお願いした。

2008/09/14

読む・読もう・読めば 39

三島由紀夫の原爆論

作家の三島由紀夫は、一度だけ原爆に関して発言したことがある。『週刊朝日』1967811日号に寄稿した短文だが、没後の71年に刊行された『蘭陵王』に「私の中のヒロシマ」と改題して自衛隊体験入隊の記録などとともに収録されているから、遺稿のひとつと言えるかもしれない。三島は日本核武装論者であり、その基調は「民族的憤激」である。

三島はいう。「核大国は、多かれ少なかれ、良心の痛みをおさへながら核を作つてゐる。彼らは言ひわけなしに、それを作ることができない。良心の呵責なしに作りうるのは、唯一の被爆国、日本以外にない。われわれは新しい核時代に、輝かしい特権をもつて対処すべきではないのか。そのための新しい政治的論理を確立すべきではないのか。日本人は、ここで民族的憤激を思ひ起すべきではないのか。」

ここでは、核時代がすでに逃れられない現実であることの認識と、敗戦と米国による占領が「最大の屈辱」であったという認識が前提になっている。そのうえで「米ソの核均衡」に換わる「弱者が優位に立つといふ“逆勢力均衡”」の先端を切るのが、「被害者の極、ヒロシマ」だと結論するのである。実際には三島が「おのれの傷口を誇りにする」と罵倒する「ヒロシマ平和運動」の中からは、日本も核武装して米国に復讐すべきだという論理は現れず、核廃絶への努力だけが続けられてきたことは幸いだった。

三島は平和運動を罵倒はするが、「ヒロシマ」と「広島」を書き分けながら、正面から見ているようにも思われる。先の引用のすぐ後に、次のような文章がある。「広島で原爆が使はれたという事実、たくさんの人が死に、今も肉体的、精神的に苦しんでゐる人がゐるという事実がなかつたとしたら、観念的にいくら原爆の悲惨さがわかつてゐても、必ず使はれたらう。人間とは本来、さういふものである。その意味でヒロシマこそが、最大の『核抑止戦略』であつた。」核時代を逃れられない運命として受け入れるか、核廃絶への人々の善意の力を信じるか。「人間とは本来」というあたりが分かれ目であるようだ。

2008914日)

2008/09/08

「イラク派兵違憲判決(名古屋高裁)を学ぶ会(仮称)」準備会 ご報告

「イラク派兵違憲判決(名古屋高裁)を学ぶ会」(仮称)の第1回準備会直後に、「勝ち取ったイラク派兵違憲判決 市民の出番だ!! ~名古屋高裁判決を活かす 東京集会~」のチラシを入手しました。また、9月13日に、東京・星陵会館で、9条の会の「名古屋高裁判決と派兵恒久法」の集会が行なわれることも判明しました。

このような中で「イラク派兵違憲判決(名古屋高裁)を学ぶ会(仮称)」を予定通りに行なうことが妥当かどうか検討した結果、10月1日に東京で行われる「勝ち取ったイラク派兵違憲判決  市民の出番だ!! ~名古屋高裁判決を活かす 東京集会~」に合流できないか、名古屋訴訟の会に申し入れました。

第2回準備会は、912日(金)1820分、地下鉄東西線竹橋駅、毎日新聞社1階受付前集合です。

なお、10月1日の「イラクから自衛隊の撤兵を求める署名提行動」についての詳細は「イラク派兵違憲訴訟の会・東京」のホームページのトップに貼り付けました。
http://comcom.jca.apc.org/iken_tokyo/

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