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「平権懇」☆関係書籍☆残部僅少☆

  • ●大内要三(窓社・2010年): 『日米安保を読み解く 東アジアの平和のために考えるべきこと』
  • ●小林秀之・西沢優(日本評論社・1999刊): 『超明快訳で読み解く日米新ガイドライン』
  • ●(昭和出版・1989刊): 『釣船轟沈 検証・潜水艦「なだしお」衝突事件』
  • ●西沢優(港の人・2005刊・5000円+税): 『派兵国家への道』
  • ●大内要三(窓社・2006刊・2000円+税): 『一日五厘の学校再建物語 御宿小学校の誇り』
  • ●松尾高志(日本評論社・2008刊・2700円+税): 『同盟変革 日米軍事体制の近未来』
  • ●西沢優・松尾高志・大内要三(日本評論社・2003刊・1900円+税): 『軍の論理と有事法制』

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2008年10月

2008/10/29

読む・読もう・読めば 42

シリーズ「福祉に生きる」のこと

『レーニン全集』を見て、「これ全部、ひとりで書いたの?」と言った人がいたそうだが、ひとりで1冊ずつ書いても50冊のシリーズを完成させるのは容易ではない。商業的に失敗すれば、即、出版社の倒産につながる。ところが、大空社は10年かかって「シリーズ『福祉に生きる』」50冊の刊行を実現し、続いて11月にはさらに5冊を刊行するという。快挙と言うべきだろう。ジャンルを問わない評伝シリーズなら吉川弘文館もミネルヴァ書房も出している。しかし本シリーズは福祉関係者に限った評伝を、ひとりの人物についてひとりの著者が1冊で書きおろし、各冊定価は本体2000円という設定だから、普通の出版人なら「とても商売になりません」と二の足を踏む企画だ。

『週刊読書人』1031日号に、一番ケ瀬康子さんとともに編集者をつとめる津曲裕次さん(長崎純心大学教授)が「編集にあたって」を書いている。当初の候補者・執筆予定者は93名、うち実現したのは15人分とのこと。既刊の50人+11月刊の5人を見ても、私が無知なせいもあるだろうが、知っている名前のほうが少ない。全容は大空社(おおぞらしゃ)ホームページで見てください。一般的には無名に近くても、福祉史のうえで大きな働きをした人はたくさんいるのだ。

すごいのは、「本伝記シリーズでは、執筆を依頼するに当たって、締切を設定していない。研究の成果が纏まり、それを伝記として書き下ろしていただくことが大前提だからである。」という編集方針だ。決して完成することのないシリーズということになり、出版人としては夢のような企画でもある。大空社は1983年創業の学術出版社で、主に復刻の揃えものシリーズをいくつも刊行しているが、なかには中途で別の出版社に譲渡せざるを得なかったものもある。本シリーズの刊行が継続されることを願い、まだ出版界というのも捨てたものではないな、とも思う。 (20081029

2008/10/14

読む・読もう・読めば 41

ジュリーさんゑ

もとザ・タイガースのジュリー、沢田研二さんが自ら作詞した日本国憲法第九条賛歌、「我が窮状」を歌っている(作曲は元スパイダースの大野克夫さん)。「老いたるは無力を気骨に変えて 礎石となろうぜ」「この窮状救いたいよ 声に集め歌おう」という歌詞は、スターとしての浮き沈みと何度もの変身を経て還暦を迎えた彼の新しい「決意」を示しているのか。結構なことだ。

少しばかりの危惧が2点ある。九条が「英霊の涙に変えて 授かった宝だ」という、その「英霊」という言葉が気にかかる。というのも、かつて早川タケジさんの派手派手しい舞台衣装で歌っていたころ、「サムライ」という曲で袖にナチスのハーケンクロイツのマークを付けていた(のち抗議を受けて×マークに変更)のは、確信犯だったのか、という疑問があるからだ。もうひとつは、タイガース解散後にもとテンプターズのショーケン(萩原健一)らとPYGを結成してロック?に転向して「花・太陽・雨」などを歌ったものの、日比谷野音や京大講堂で「こんなんロックじゃねえ!」と野次られまくった経験をどう生かしているのか、ということだ。本来、ロックは体制批判の音楽であって、単にこれからはもうグループサウンズの時代ではない、という渡辺プロの都合で結成されたチームには困難な世界だった。もっともPYGにはたしか井上堯之さん、大野克夫さんもいたから、その後のジュリーの方向性を決める重要な結節点だったと思う。

さらにさまざまな曲折を経て、いま沢田さんは九条賛歌を歌う。幸いにスローで比較的単純な曲だから、今年の忘年会で団塊オヤジが歌えるかもしれない。「我が窮状守りきりたい 許し合い信じよう」とオヤジたちが照れながら歌うのは悪くない。かつて「僕は担いでもらう御輿になっているのがいちばんいいんだ」(玉村豊男編『我が名はジュリー』、1985年)と言っていた沢田さんが、いま自分の方から発信し始めたのだとしたら、もっといい。たとえそれが護憲運動への参加というようなものでなく、護憲運動と響き会うものがある、というだけのものであるとしても。  20081014日)

2008/10/08

11月6日 DVD上映会「自衛隊イラク派兵とは何だったのか」

9月6日は、私どもの学習会西野喜一氏による「裁判員制度を考える」に多数ご参加いただき、ありがとうございます。

学習会での報告・討論の記録は、こちらの「へいけんこんブログ」
http://heikenkon.cocolog-nifty.com/blog/ に全11回にわたり掲載しております。

さらに各政党の裁判員制度に対する対応や、「裁判員制度はい
らない! 大運動」など資料6点を加えた「平権懇」特製パンフレット(B5判、32頁)も作成しました(送料込500円)。ご入用の方は、℡090-5341-1169 杉山までお申し込み下さい。

次回の「平権懇」の集会は、11月6日の「自衛隊イラク派兵とは何だったのか」です。ロバート・グリーンウォルド監督・制作「IRAQ for SALE  戦争成金たち」、西谷文和(イラクの子どもを救う会)制作「イラク 戦場からの告発」2本のDVDを上映いたします。

11月6日18時20分 毎日新聞社受付前集合

会場  毎日新聞社内

裁判員制度きちきちばつたかな  吉田悦花

「編集者との対話 『死刑』で人間の存在を考える」
(月刊「ジャーナリスト」2008年9月25日 第606号より)

2008/10/05

読む・読もう・読めば 40

『黄金郷(エルドラド)伝説』を読む

時代の空気を読んだ読み物だけがベストセラーになれる。では、刊行当時に熱狂的に迎えられ、今なお読み継がれる、『コロンブス航海日誌』とデフォーの『ロビンソン・クルーソー』とドイルの『失われた世界』の共通点は何か。それは「探険帝国主義」だ、というのが本書、山田篤美著『黄金郷(エルドラド)伝説』(中公新書、089月刊)の主旨だ。

なるほど、そうだったのか、とあらためて思う。ロビンソン・クルーソーは絶海の孤島にひとり暮らしたのではなく、ベネズエラのオリノコ河口でサバイバル生活を送ったのだった。ロビンソンは原住民フライデーだけでなくスペイン人たちまでも従えて、島をイギリス植民地にすることに成功する。オリノコ川は後の英領ギアナへの入口であり、上流には金鉱地帯がある。

4人のイギリス人が「アマゾン川の上流」、周囲から隔絶されたテーブルマウンテンの頂部で、恐竜と猿人に出会うという物語『失われた世界』の舞台も、じつはギアナ(グアヤナ)のロライマ山だという。ロライマ山探険の記録が情景描写の種本になっていることを、著者は綿密な調査で確認した。この小説もまた、金鉱地帯をイギリス植民地に併合する動きのなかで受容されたのだった。

米国の介入でイギリスの野望は破れ、宝石と金銀略奪が主だった「探険帝国主義」の時代は終わった。いまや石油・天然ガスとウラン・レアメタルのために傀儡政権を樹てることが「帝国」の手口となった。しかし史書・地誌・小説を併せて読み解くという著者の方法は、いまも通用するはずだ。500年のドラマを一気に読ませる軽妙な語り口が、『蟹工船』が『源氏物語』と同じぐらい難しいというイマドキの学生に通用すればうれしい。2008928日)

2008/10/04

2008.9.6 平権懇学習会「裁判員制度を考える  西野喜一」⑪

○質問に答えて

質問 裁判所からの呼出状を受け取ってしまったとき、無視しても大丈夫でしょうか。

回答 期日に裁判所へ行かないことで充分だと思いますが、無視しても大丈夫だという保障はいたしかねるわけです。法律上は10万円以下の過料と書いてありますけれども、最初は発動しないであろうということだけですので。しかし呼出状を受け取らなければ大丈夫です。

細かい話になりますが、裁判所からの書留が来たときに、民事裁判関係の呼出状ですと、無視すると欠席のまま審理が進んでしまう恐れがありますので、裁判所からの書類を全部受け取らないというのは、また別の危険があるわけです。そこが難しいのですが、封筒の表に裁判員選任に関するものだと書いてあれば、受け取らないのがいちばん確実でしょう。

期日に行かないと、裁判所から電話がかかって来るかもしれません。じっさいには面倒ですから最初のうちは裁判所もそんなことはやらないし、やれないと思うのですが、行きたくない場合にどう答えるか。電話をかけてくるのは裁判長ではなくて、書記官、事務官ですから、向こうが「そういう理由ならもう仕方がない」と思うような返事をすれば、向こうとしてもやりやすいわけです。したがって「行きたくなかった」と言うより、「どうしても休めない用事があった」と言うほうが宜しいと思います。

なお実際に裁判所に行ってみて、裁判所にはどんな人間がいるのか見てみたい、議論もしてみたいというのであれば、そういう道を選択されるのもひとつの方法だと思います。

質問 これほどひどい制度を敢えて導入しようという、その意図はいったい何なのか。司法制度改革ということで90年代半ばからいろいろあったと思うんですけれども、その一環としてこのことがあると思います。司法制度改革というものの根本的な狙いというものが何なのか、このあたりについてのお考えを聞かせていただきたい。

回答 裁判員制度をもたらした根本的な思想が何であるかを説明することは、私にはまだ自信がありません。ただ司法制度改革審議会の記録を見ますと、国民参加にすれば誤判が減るはずだと無邪気に信じ込んでいた人たちが多かった。それが裁判員制度ができた原因だろうと思っております。裁判員制度を支える根本的な思想として、きわめて国家主義的、全体主義的思想があるだろうと思いますが、司法改革審議会の委員たちがそこまで確信的にやったとは思われません。

質問 3人の裁判官と6人の裁判員は同じ重さで扱われるのですか。また、弁護士は対応できないというお話ですが、従来から弁護士は裁判に出ていたわけで、これからできなくなるということが分からないのですが。もうひとつ、裁判員に選ばれた人は、どの段階で自分が担当する事件が分かるのですか。

回答 裁判官と裁判員の票の重さは同じです。ただし裁判員法の規定によりまして、有罪とするためには少なくとも裁判官1名、裁判員1名が入っていなければならないという規定になっております。裁判官と裁判員併せて9名で、原則として多数決です。裁判官3名が全員有罪、裁判員6名が全員無罪の場合は、多数決で無罪になります。逆に裁判官3名全員が無罪、裁判員6名が全員有罪の場合、多数決では有罪になりそうですけれども、有罪とする場合には最低裁判官が1人入っていなければならないという条件を満たさないので、無罪になります。

 弁護士が対応できるかどうかということですが、今までの刑事裁判は、かなりの重大事件でも公判はせいぜい月に2回しかありませんでした。だから主に民事事件をやっている弁護士でもその合間に刑事事件を担当することができました。しかしながら裁判員制度のもとでは、集中審理が予定されております。数日間集中するためには、事前に相当力を入れて完璧な準備をしておかないと、効率的な反対尋問などはできません。事前に34週間はその事件のためだけに準備をして、どんな証人がどんな供述をしているかを全部頭にたたき込んでおかないと、その場での反対尋問は無理でしょう。また、審理が終われば最終弁論になるわけですが、これも紙を見ながらでは迫力がありませんから、審理の経過を全部頭にたたき込んで、パフォーマンス豊かにやらなければならない。そういう点で、普通の弁護士では対応できなくなるのではないかと考えております。

 裁判員制度の対象となる事件が起訴になりますと、裁判所はかねて用意している候補者の中から抽選で、呼び出すべき人50人ないし100人に呼出状を出します。当初私はその段階でこういう事件だということがその人に分かるのだろうと思っていましたが、必ずしもそうではないようで、実際に裁判所へ行ってみて初めてそこで事件のことがわかり、この事件に関係のある人はいるかと聞かれるような運用になるかも知れません。6週間前の最初の呼びだしの段階で分かるか、あるいは行ってみてそこで分かるか、そのどちらかに落ち着くはずです。

質問 裁判員として抽選で呼び出されると、面接調査がされるそうですけれども、どのようなことを聞かれるのでしょうか。それによって裁判所は、都合のいい人を選ぶということはないのでしょうか。

回答 法律によりますと、職業その他の理由でそもそも裁判員になれない人というのがおります。それから裁判員になれなくはないけれども、本人が希望すれば辞退できるという事由もあります。そこで選任については、裁判所はそもそも裁判員になれないような事情の人にあてはまるかどうか、そして本人が辞退できる場合には辞退をするかどうか、ということを聞くことになるでしょう。一人ずつ聞いていけばとうてい時間が足りないと思われますので、質問票という一種のアンケート調査用紙を使い、この辺ではまだ直接1対1では聞かないと思われます。

 その後で、個別面接で何を聞くのかということになりますと、まだ始まっていないので想像が混じりますが、大変だけれどもやってもらえるかどうか、ということは間違いなく聞くだろうと思います。また、辞退したがっている人には、その具体的な事情を聞いたり、やるように説得したりということもあるでしょう。死刑制度に反対かどうかを裁判長が聞くかどうか、ちょっと私には分かりません。死刑はないだろうという事件もあるでしょうから、その場合にはそこまで聞かないと思います。ただし死刑が対象になっている事件であるならば、たとえば検察官からその人は死刑に絶対反対かどうか聞いてくれと、裁判所に申し出ることはあるだろうと思います。むしろ死刑について自分の考えを述べておきたいというのであれば、むしろ自分のほうから言っておいたほうが確実です。

 警察・検察という国家権力に対してどういうふうに考えているかも聞かれるかも知れません。信頼できる組織であってそのおかげで国民は安心して生活できるといえば、検察側は是非残そうとするでしょうし、逆に弁護側としては、そういう権力組織は暴走しがちだから、国民としてはよく監視しなければ危ない、という人を選ぶでしょう。

質問 裁判員に選ばれた場合に、そういう質問される席が設けられるんですか。具体的に警察について質問されるとか、死刑について質問されるとか。私は死刑はないほうがいいと思っているんですけれども、実際にはそうは言わないで「よく分かりません」と答えたら、偽証というんですか、罰則があるんでしょうか。

回答 最終的に裁判員を選ぶときに裁判長が、たとえば死刑制度をどう思うか、などと口頭で聞くか、それとも質問表に書いてあるか、現段階では分かりません。質問表に虚偽の記載をすると制裁があるという条文があります。虚偽の答えをすると、これに対しては制裁の規定があります。ただし、この制裁を裁判所がどの程度本気で使うつもりでいるのか、現段階ではまだ想像がつきません。たとえばそもそも裁判員になる資格がないのにそれを隠して裁判員になって、被告人の罪を決めたということになると、これは具合が悪いし、判決の有効性の問題が出てくる。だから虚偽の記載あるいは答えに対して制裁が必要かもしれません。

 しかしながら、これが問題になるのは、故意にうそを書いた場合だけです。死刑制度についてどう思うかという問いに対して、お前は本当は反対なのにあのときは分からないと答えただろう、などといって制裁を発動することは、あり得ません。聞かれたときはよく分からなかったけれどもよく考えた結果としていまは反対だ、という人がいたらどうにもならないからです。

質問 私個人の考えでは、民事事件だったら裁判員制度でもいいと思うけれども、なぜ重大刑事事件だけが対象なのでしょうか。それから私も呼出状を受け取らないようにしようかと思ってるんですけど、人から受け取り拒否をもらったら、あんまりいい気持ちはしないですね。もし配達証明とかそういうのを付けなくても、受け取り拒否と書いて出せば必ず戻りますよね。

回答 審議会ではまず陪審制を採り入れるかどうかという議論をしておりました。陪審はもっぱら刑事事件の話でしたので、やるとすれば刑事だという雰囲気がいつの間にかできあがっておりまして、刑事事件以外は審議会ではまったく問題になっておりませんでした。なぜ刑事の中でも重大事件だけなのかということについては、裁判員制度の原案を作った人が、やはり国民にいちばん関心が強いのは重大事件でしょう、と1行だけ説明していますが、それで済んでしまいました。それが審議会の現実です。

 次に受け取り拒否の件ですが、個人の場合ですと自分が出したものが受け取り拒否で帰ってくるとショックを受ける人がいるかもしれませんが、裁判員制度の場合には、相手は裁判所という国家機関ですから、遠慮されるには及びません。裁判所のほうだって、絶対に反対だという人はたぶん受け取り拒否をするであろうと予想しているからこそ、1件で100人近い人を呼び出そうとしていると考えられます。

質問 裁判員の義務として秘密保持がありますが、これはどういうことですか。

回答 まず秘密保持の対象となる秘密の内容ですが、条文によりますと、「職務上知り得た秘密」ということになっております。したがって評議の内容、例えば評決は何対何であったとか、誰はどういう意見であったかということを漏らせば処罰の対象になりますが、裁判員でなくても知ることができたようなこと、法廷で皆が見ていたこと、マスコミで報道されて誰でも分かることならば、まったく問題がありません。

質問 裁判員にならなくてもいい人とは、どういう人ですか。

回答 裁判員法で決まっていて、条文によると、①国会議員、国務大臣、②一定地位以上の幹部職国家公務員、③警察または法律関係者(裁判官、検察官、弁護士、弁理士、司法書士、公証人、警察官、公安委員会職員、裁判所・法務省職員、司法修習生、法律学の教授・准教授)、④都道府県知事、市町村長、⑤自衛官、⑥禁錮以上の刑に当たる罪で公判中の被告人、⑦逮捕・勾留されている者、です。また本人の意思で辞退できる人は、①70歳以上の者、②会期中の地方議員、③学生・生徒で常時通学が必要な者、④過去5年以内に裁判員・補充裁判員であった者、⑤過去1年以内に裁判員候補者として裁判員選任手続に出頭した者、⑥過去5年以内に検察審査会の検察審査員・補充員であった者、⑦次の事情で裁判員として職務を行うことが困難な者──重い疾病、傷害のある者、同居の親族の介護、養育に当たっている者、仕事の上で重要な用務を控えている者、父母の葬式その他生活上重要な用務を控えている者、その他、内閣で定める事情に該当する者、ということになっています。これらの事情に該当するかどうかは、最終的には裁判長が判断します。

2008/10/03

2008.9.6 平権懇学習会「裁判員制度を考える  西野喜一」⑩

○正しい裁判でなくて良いのか

 推進論者の中には、諸外国では皆やっている、という人もあります。これは私に言わせれば驚くべき主体性のなさでして、外国でどのようにしていても、我々は我々のやりかたでやればいいわけですね。G8諸国のうち日本以外はみなキリスト教の国だから日本もキリスト教にしましょう、というのと同じくらいおかしなことだと思います。

 裁判員制度について、最高裁は、審議会の初期のころは、これは憲法違反の疑いがあると言っておりました。ところが裁判員法ができた後は、裁判所はこの制度をずっと支持してきた、賛成してきたと堂々と言っております。裁判所のホームページを見ていれば分かることで、私のように最初からその動きに注目してきた者にとっては、開いた口が塞がりません。なぜ最高裁は賛成に転じたのか。これで予算と人員がどんどん増えることになったからです。まるで「打ち出の小槌」ですね。裁判員制度をやるためにはもっと裁判官がいる、もっと職員がいる、もっと法廷がいる、と言えばどんどん予算が降ってくるわけです。それにこれからは誤判があっても、世の中の人は、裁判官のせいではなくて、裁判員が入ったためにそうなったのではないかと思ってくれるかもしれません。

また、民事の大事件でも、刑事だって3日でやっているんだから、民事だって3日でいいじゃないか、簡単にやればいいじゃないか、というような風潮が広がってくるかもしれない。つまり裁判は正しいものでなければならないという理想が消えてしまいますと、裁判所は実に楽なんです。苦労して真実を追求する必要はなく、軍配を上げるだけでいい。これからは本当にそうなる恐れがあります。

 なお、今までのわが国の刑事司法を、私は決してすばらしいとは思っておりません。いろいろ問題があることは確かです。しかし裁判員制度よりは、まだしも今の制度のほうがいいだろうということです。まだしも間違いが少ない。もし間違いがあったとしてもそれを発見しやすい。これはたいへん重要なことですね。判決理由が延々と書いてあれば、誤判であっても、ここはおかしいんじゃないか、ここは理屈に合わないんじゃないかと言いやすいわけです。かつての再審無罪にも、それはたいへん大きな役割を果たしました。これに対してうんと短い判決であるならば、ここがおかしいじゃないかという指摘ができないわけです。この裁判員制度は、国民参加と引き換えに、現在のわが国の刑事司法が持っている美点をみな放棄しようとするものだと思います。

 また、たとえ裁判員制度を受け入れるとしても、なぜいまの時点、平成20年、21年というときにやるのか。こういう制度がうまくいくためには、人心が安定している、世の中が安定していることがきわめて大事なことではないかと思います。しかし今はどうでしょうか。非常に人心が荒廃しているように見えます。格差は急激に拡大しています。非正規労働者は急増しておりますし、国家財政は窮迫している。人心の荒廃という点から見ますと、何かちょっと違法な事態が発見されたら、マスコミをはじめ人々を動員してやっきとなって攻撃して裁く、そうしなければおさまらない、そういうことになっているのではないか。こういう制度を作ったのは、国民の、あるいは庶民の苦労には全然縁のない人たちです。そういう人たちは、被告人の運命も、あるいは正しい裁きをしてほしいという被害者側の感情も、どうなってもよいと思っているのではないか、というのが私の感想です。

    裁判員にならないために

裁判員をやりたい人はやればいいと思いますが、やりたくない人の逃げ方については『裁判員制度の正体』に詳しく書きましたので、読んでいただきたいと思います。

 裁判員候補になった後、いちばんいいのは何か事件が起きた後の選任期日の呼出状を受け取らないことでしょうね。受け取らなければ絶対に大丈夫です。受け取らないことに対する罰則はありません。呼出状には質問状が入っておりますが、これを返送しなくても罰則はありません。

選任期日に裁判所に行かないという手もあります。行かなければ裁判員にさせられることはありません。法律上は呼出状が来たら裁判所に行かないと10万円以下の科料があると書いてありますが、これは少なくとも最初のうちは発動しないと思います。これをやりますと、ますます非難囂々でしょうし、裁判所は、たぶん来ない人がたくさんいるだろうと予定しているからこそ、1件で50人から100人もの人を呼び出すわけですね。選任期日によんどころない用事を作っておく。これもいいでしょうね。病気になるのも結構だと思います。裁判所がまんいち診断書を出せと言ってきたら、診断書をもらうのに必要な文書料が裁判所から届いてから診断書を出す、と言えばいいのです。

裁判員制度推進論者は、やりたくない人が逃げるのはけしからんと言って私を非難します。やりたくないなら勝手にせい、そんなやつに用はない、とは絶対に言わない。裁判員になるかどうかは最終的には国民の自由であるということにすると誰も行かない、ということが推進論者にもよく分かっているからこそ、そういう言い方をするのです。

私の本に対して、司法に対して国民が努力をしないでいいのかという人もいました。私は、国民が司法に関して無関心、無責任であっていいというわけではもちろんありませんし、そんなことを書いたこともありません。司法というものは、憲法が国民の総意に基づいて成立しているものである以上、国民はそれに対して義務もあるだろうと思います。しかしながら、国民の司法に対する義務があるからただちに裁判員の義務があるというのがとんでもない論理の飛躍です。私の考える司法に対する国民の義務とは、憲法の枠内で国民として司法を擁護するということであって、具体的には司法に対する充分な関心をもつこと、司法制度とそれを支える人々に充分な理解を持つこと、個別の判断に対する充分な理解をもって進めるべきは進める、批判すべきものは批判すること、外部からの司法に対する攻撃に反対すること、そして憲法を擁護して、わが国の司法の良さを破壊しようという試みに抵抗すること、それが国民の司法に対する義務であろうと思います。

『裁判員制度の正体』という本を書きましたために、見知らぬ読者、全然知らない人からたくさんの賛同の手紙やメールをもらうという、著者冥利の初めての経験をいたしました。ネット上などでは批判論もありましたが、私が接した限りでは、まあ感情的and/or非論理的なものが大半でして、冷静かつ論理的なものはありませんでした。論旨の読み違いやら論旨の捏造やら、ひどいのになると私がまったく言っていないことを自分で作り出して自分で興奮し、けしからんなどというのまでありました。それからまた私は現行法の解釈を展開したのですが、こうあるべきだという理念論と混同したものも随分ありました。学者からの反論も多少ありましたけれども、裁判員制度全体ではなく、自分の分かるところだけに反論しておいて、かつレトリックで全体に対する反論のように見えるようにしている、というのが学者からの反論の共通点であったように思います。

先ほども述べましたが、私は今の裁判が素晴らしいものだというつもりは全くありません。いろいろ問題があります。司法制度改革審議会は、どこにどんな問題点があるのか、それを克服するには何をどうすべきであるのか、という地道な、着実な検討をこそすべきでした。そのへんを全部すっ飛ばして、いまの裁判には問題があるから陪審制だ、陪審がダメなら裁判員制だ、という驚くべき議論をしたことが問題なのです。従って決していまの裁判を素晴らしいというつもりはありませんが、少なくとも裁判員制度よりもマシである、裁判員制度には考え直すべきことが多すぎるというのが私の意見です。

2008/10/02

2008.9.6 平権懇学習会「裁判員制度を考える  西野喜一」⑨

○裁判官は何のためにいるのか

 裁判員制度は良心の自由の侵害であると思います。納税とか教育とか勤労の義務と違って、判断を強要する義務です。お前はこの被告人をどうすべきだと考えるのか、刑務所に送るべきだと思うのか、あるいは死刑にすべきだと思うのか、さあ言え、と迫ってくるのがこの裁判員制ですね。まさしく、私は人を裁くことをしたくないという思想を許さない、それを強制する、それが問題だと思います。国民の思想・良心の自由、精神的自由をたいへんに軽視しているのが問題です。

 そういう批判に応えて政府は今年の1月に政令を定めまして、裁判員で精神的な不都合きたす者には裁判員を免除することができる、という条項を新たに加えました。ということは、裁判員をやりたくないという人は裁判所にやってきて裁判長に、こういうことをすると自分の精神にたいへんな重い負担がかかると申し開きをせよということですね。裁判長がそれを聞いてなるほどと思えば、あなたは結構です、ということになる。言葉を変えますと、裁判長という国家の機関が国民に対して、その思想の当否を判断するということです。お前の言うとおりなら裁判員は免除してやろうとか、あるいはお前の言うことは受け入れられないというわけです。つまり国家機関が国民の思想を判断する機会を堂々と作ったというのが、たいへん大きな問題だと思います。

 免除事由にはそのほかにも、どうしても時間が空けられない、いま病人の面倒を見ているとか、葬式があるとか、そういうのもあります。仕事が忙しいという理由だけでは免除は認められないでしょうとマスコミは言っていますが、これは要するに、マスコミが裁判員制度の提灯持ちをして、国民を逃がさないようにしているだけのことです。

 なお、不公平な裁判をするおそれがあると裁判所が認めた者は、あなたは結構です、ということになっておりますが、驚くべきことに、この人には無理だ、という免除事由はないんです。法律上はいかに無能な者であっても構わない。正しい裁判ということも、被告人の運命も、犯罪被害者の思いも、皆どうなってもかまわないという何とも乱暴な制度であることが透けてみえますね。

 それから、裁判員を務めますと当然、さまざまな守秘義務というものがあります。最も重要な秘密は、評議において何対何で有罪になったのか無罪になったのか、あるいは誰がどういう意見であったのかということです。これは絶対にしゃべってはいけない。しゃべると罰金か懲役です。罰金の上限が50万円、懲役の上限が6ヶ月となっておりますが、懲役6ヶ月というのは国会審議になってから緩和されたことでして、元の政府原案では懲役1年でした。要するに政府は国民をまったく信用していない。これぐらい重い刑で脅しておかないと国民はしゃべるだろうと考えているわけです。これでは一生、晩酌もできない。酒を飲むと口が軽くなる人はダメですね。秘密がバレたのではないかということになりますと、その疑いがあるだけで警察は捜査をする権利と義務がありますから、その疑いだけで警察官が周囲をカギ回ることになりかねない。国民にとってはたいへん危険であり、また迷惑な制度です。

 これらの裁判員の義務を憲法違反ではないとするのは、私はどうしても無理だと思います。そこで裁判員制度推進論者は、無茶苦茶な論理を使ってでも裁判員制度を合憲化しようとしているという話をしました。最近の論調は少し変わっておりまして、これは義務ではない、特権である、というのですね。他の人にはない特権だというわけです。昭和208月までの日本では、召集令状が来て兵隊に行く人に近所の人が「ご出征おめでとうございます」と祝賀に来たそうですが、もうそこまであと一歩です。自分の良心としても裁判員はやれないという人たちが「非国民」と呼ばれるまであともう一歩ではないかというのが、私の危惧です。

 国民は何のために多額の報酬で裁判官を雇っているのか。そういう面倒で辛い仕事をさせるために、わざわざ裁判官という役職を作って仕事をさせているわけです。裁判長なら月給は100万円ぐらいにはなるでしょう。私は裁判長になる前に辞めてしまいましたけれども、大学の教授になったら収入は半分になりました。それでも別に生活には困るということはありませんでした。裁判官はたいへんな厚遇を得ているわけです。これはそういう辛い仕事をさせるためですね。

 国民としてはうかつに他人の刑事事件などにかかわると、まあやりたい人は構わないと思いますが、やりたくない者がうかつにかかわると自分の人生が狂うおそれがあります。縁もゆかりも恨みも面識もない人の刑事事件にはかかわらないほうがいいと私は思います。

2008/10/01

2008.9.6 平権懇学習会「裁判員制度を考える  西野喜一」⑧

○人生が狂ってしまったら

   

今度は各論として裁判員制度の問題点で、具体的な国民への迷惑についてお話しします。

まず、なんと言っても公判の時間的、あるいは身体的な、そして心理的な負担が大変だと思います。いま予定されている方式によると、対象となる事件が起きて検察が起訴した場合、かねて選んである候補者の中から抽選で呼び出すべき人に呼出状を出すわけですが、だいたい6週間ぐらい先、何月何日から3日間ほどを空けておいて裁判所に出頭せよ、と書いてある。そして、その最初の日の午前中に実際の裁判員を決めるのだそうです。

まっとうに働いている人にとって、ウイークデーを3日間ほども空けるというのは大変な負担です。労働条件がたいへん厳しくなっている時代ですから、3日も休みを取ろうとすればクビになるかもしれない。あるいは自営業者なら、3日も商売を休んだらつぶれるかもしれない。最高裁は、勤めている人は上司に裁判員として呼び出されたと言って休みを取ればいいといいます。しかしながら、それを周囲に公然と言ってはいけない。そうすると周りから見ますと、ある人が突然消えて、なぜいなくなったのか分からない、ということになります。学校ならば、突然先生がいなくなり、しかもなぜいなくなったのか分からない。疑心暗鬼の世界ですね。自営業者なら、突然店が閉じる。当然つぶれたかと思われるでしょうね。そこで実は裁判員に選ばれたので3日ほど休みますと掲示をしたいでしょうけれども、自分が裁判員に選ばれたことを公にしてはならない、というのが最高裁の解釈です。たまったものではないですね。それでも裁判員をやってもいいと思った人は3日間ほどの時間を強引に作り出して裁判所に行く、ということになります。

午前中の選任手続でいろいろなやりとりがあって、あなたは結構ですと言われてお役ご免になることもありますが、あなたは結構だと言われなくて最後まで残るかもしれません。今のところ1件あたり60人から100人ほどを呼び出すそうですが、そのうち1件の事件で必要なのは裁判員が6人、補充がせいぜい23人、計8人か9人です。抽選に漏れれば、ご苦労さまでしたということになる。苦労して無理やり3日間空けて裁判所へ行っても、そういうことになる可能性が大いにあるわけです。

また、補充裁判員に選ばれた場合には、正規の裁判員が欠けたら繰り上がりますが、欠けなかったらそれまでです。その3日間、大事件なら1週間、ずっと法廷につきあっていて、証拠調べが終わってさあいよいよ評議だというときに、補充陪審員に用はありません。お疲れさまでした、ということになるわけですね。3日間、1週間無理をしてつきあってきたことが全部無駄になります。

 「12人の怒れる男たち」という有名な陪審のアメリカ映画がありますが、あれを見て本当の陪審のことだと思ってはいけない。あれはフィクションでして、あれを見て陪審制はすばらしいと言うのは、遠山の金さんの映画を見て、江戸時代のお白州はすばらしかったと言うようなものです。さて、あの映画の冒頭場面で審理が終わったのち、裁判長が「補充陪審員は任務解除」と言います。これに応じて2人の男が立ちあがって帰って行く。審理途中で陪審員が欠けた場合に備えて2人を予備として立ち会わせていたけれども、証拠調べが無事に終わったのでその2人はもう用がなくなった。そこで帰ってくれと言ったのです。わが国でもこれからはそうなるわけです。

 平日の貴重な3日なり1週間なりの時間をとられては、人生はどうなるか分かりません。これに対して裁判員制推進論者は、裁判員法では裁判員を勤めたからといって、不利な扱いをしてはならないという条文があるのだ、と言うかもしれません。確かにそういう条文だけはありますけれども、たとえば会社がこれを契機にある社員のクビを切ろうというときに、お前は裁判員になってしょっちゅう休むからクビだ、と言うはずがありません。必ず別の理由をつける。そしてクビになったあと、どうしたらよいのか。訴訟を起こすしかありません。訴訟を起こして、自分がクビになったのは裁判員を務めたからだ、ということが立証できれば勝てるでしょう。しかし訴訟は何年かかるか分からないし、その間の生活費をどうするのか。裁判員制度推進論者はそんなことを考えたこともないわけです。まして商売が傾いた自営業者はどういうことになるか。どうにもならないわけですね。

 裁判員として他人の刑事裁判にかわって、その結果として人生が狂っても、裁判所は何らかの補償をする意思も能力もありません。そんなことをしてくれるはずもないし、そもそもそんなことは考えたこともない。それは国民としてよくよく頭に刻んでおかなければなりません。

 心理的な負担もあります。重大刑事事件に立ち会えば神経を使う。凄惨な現場写真を見せられてトラウマを生じた人に、最高裁はカウンセリングを始めようと言っているそうですが、常識のある人なら誰でも、そうまでしてこんなことをやらねばならないのかと思うはずです。

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