イラク戦争で劣化した自衛隊と日本②
●サマワでの陸自の活動
陸自では04年1月から06年7月までに10次の復興支援群(3ヶ月交代、500人、給水・医療支援・公共施設復旧の本隊)と、5次の復興業務支援隊(6ヶ月交代、100人、対外調整)を送りました。本隊は各師団を順繰りに出しましたから、陸自13個師団・2混成団のほとんどから選抜された者が出て行った、言い換えれば全国にイラク帰りが散らばったことになります。隊長15人はすべて1等陸佐、旧軍なら大佐ですが、戻ってから准将に昇進した者が複数あります。そしてこれらの隊長のほとんどは、海外での教育・任務の経験者です。先遣隊の佐藤正久隊長が米陸軍指揮幕僚大学に学び、カンボジアにもゴランにも行っているのをはじめとして。英語ができ英米軍と共同行動が可能な者が隊長に選ばれているのが特徴です。これに対してアラビア語の通訳は民間の者を連れて行き、あるいは現地で調達しました。
活動の成果として、医療支援…4病院で医官が指導・機材の技術指導、公共施設復旧…学校36、道路31箇所、その他66箇所、給水支援…53500トンと発表されています。うち最大の目玉であった給水支援は05年2月に日本のODAにより浄水設備が稼働しましたので、自衛隊の活動は1年で終わりました。
このような「成果」に対して、実際の活動の実態について見ておきたいと思います。まず、陸自は戦闘地域でないところに行ったにしては、かなりの重装備でした。よく知られているのが装輪装甲車ですが、110ミリ対戦車榴弾や84ミリ無反動砲は、自動車を使用した自爆テロに対抗するためと説明されています。途中からヤマハ製の偵察用無人ヘリも持ち込まれました。
かわいそうなのは、兵たちが他国の軍と明らかに区別されるように、砂漠地帯では常識の茶色の迷彩服でなく、国内と同様の緑色の迷彩服を着ていたことです。しかも胸と肩には「日の丸」のワッペンを付けていました。「ここを撃て!」という標的に見えます。治安維持は任務のうちに入っていませんでしたので、サマワの町中でも当初はオランダ軍、後にオーストラリア軍に警護されました。
そしてサマワは実際に危険なところでした。自衛隊宿営地内外への迫撃砲・ロケット弾攻撃は14回に及びます。04年5月にはサマワでオランダ軍が手榴弾攻撃を受け、1名が死亡、1名が重傷を負います。これでオランダ軍は撤退し、自衛隊は宿営地に引きこもることになりました。公共施設復旧などの工事は現地の業者が請け負い、その監督に何日かに一度、自衛隊員が行っていただけです。
のちに国会議員になった佐藤正久氏は、いま集団的自衛権確立のため活発に動いていますが、07年8月11日には「オランダ軍が攻撃を受ければ現場に駆け付け、あえて巻き込まれるつもりだった」と発言したのがTBSニュースに流れて大問題になりました。実際に彼のイラク滞在時にそのようなことがなかったのは幸いですが、この違憲発言に対しては弁護士たちが公開質問状を出しましたけれども、佐藤氏は無視しました。
なお、サマワ市民が自衛隊に比較的友好的であったのは、雇用や資金援助を期待してのこともありますが、フセイン政権下での日本の実績が根底にあったことは述べておかなければならないと思います。80年代にイラクには多くの日本人が滞在して、高速道路をつくり、バグダッド国際空港をつくり、サマワ総合病院をつくったのでした。
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