○軍事活動は平時でも環境問題を引き起こす
次は、なぜ戦時ではなくて平時の軍事環境問題を取り上げるかということです。まず、日常的に深刻な被害が生じる。戦時の場合は戦時中だけなんですが、平時の場合は戦争が起こらなくても常に被害がずっと発生している。騒音の場合には、軍用機は騒音を小さくして飛ぶなんてことはしない。そして、そういう被害を受ける人たちは誰なのかというと、本来国防、安全保障で守られるはずの自国民だったり、アメリカと日本で考えたら「同盟国」の住民に対して被害が与えられる。安全保障というものは内外的な脅威から自国民を守るために行われているんですけど、本来守られるはずの人たちの基本的人権を、軍事活動というものが侵している。
抑止理論のような、戦争が起こらなければいいのではないかというような話では解決できない部分があります。戦争が起こらなくても深刻な軍事環境問題が生じているし、人権侵害が生じています。抑止の理論では、相手が強くなればこちらも強くならなければいけないので、どんどん軍拡が進んでいきますけど、その軍拡が進むにつれて、どんどん軍事技術も高度化していって、環境破壊的な飛行機や物質が作られる傾向がある。そういうふうに考えるときには、抑止理論をもとに平和が達成されたとしても、環境問題から見るとどんどん深刻な事態が生じていくというふうに考えています。
横田基地公害訴訟を事例として取り上げようと思ったのは、平時の軍事環境問題に取り組んだものとしてはいちばん早いものだからです。76年から訴訟が始まっているので、30年間経ったところで総括ができるのかなと思ったので、この問題というものに着目しました。
騒音はベトナム戦争のときからではなくて、1950年以降、周辺住民はずっと深刻な被害を受けていたわけです。しかし軍事活動は公共性がすごく高いと言われているようなときは、たとえ米軍機による被害を訴えても、それが聞き入れられないんじゃないかとか、そういうことを言うこと自体が、周りから白い目で見られる。そういう状況があったので、なかなか運動を組織しづらかったということです。
横田の昔の訴訟のまとめの冊子を読んでいて出てきたんですが、運動が起こるきっかけになったのが、基地の拡張が行われようとしたことです。そのときに助けになったのが、1972年の横田基地内の都有地返還訴訟と、75年の大阪空港高裁判決です。都有地返還訴訟のほうは、軍事活動とか米軍機とかの問題であっても訴訟を起こすことが可能なんだというイメージを作ったことが大きかった。大阪空港高裁のほうは同じ騒音被害なんですけど、被害を認め差し止めを認めたりとか、将来請求まで認めるとか、画期的な判決が出た。だから軍事問題であっても、被害を軸にして訴訟を起こせるんじゃないかということがあったようです。
横田基地公害訴訟以前にも基地反対運動がいくつかあるわけです。画期的な判決を得たという意味では、砂川事件や恵庭事件というものがあります。砂川事件は伊達判決で安保の憲法違反というものを指摘したわけですし、恵庭事件だと自衛隊違憲に近いような判決が出ています。
恵庭事件の場合は
北海道
なんですが、ジェット機の爆撃が野崎さんの家の近くで行われていて、騒音や振動で乳牛に被害を受けた。それで野崎さんが自衛隊の通信線を切断するんですね。その通信線切断について自衛隊法で犯罪じゃないかと言われるわけなんですが、自衛隊自身が憲法9条との関係でどうなのかという問題が法廷で争われていく。勝ったことは勝ったんですが、つまり通信線切断については無罪になったわけなんですけど、ジェット機爆撃の被害については基本的に補償されなかった。
恵庭事件や砂川事件、米軍や自衛隊の憲法違反を真正面から問う訴訟は、裁判所の態度、「国家の統治行為に関しては、高度の政治的問題に関しては裁判所は判断しない」という態度によって、停滞していきます。そのなかで横田訴訟は、9条とか安保とかいう話ではなくて、実際の被害というものを基礎として軍事活動の問題を取り上げたことに意味があったのかなと思います。公害訴訟の典型的な方法であったと思います。
横田基地訴訟の成果としては、ひとつは被害が深刻だということを訴訟として明らかにしたことです。旧訴訟だと758人、つまり一部の人だけが被害を訴えているだけじゃないのかと言われたんですけど、新訴訟では6000人近くの原告がいる。いまは横田基地だけじゃなくていろんなところで、厚木や普天間などで訴訟をしているわけですが、被害が深刻だということを明らかにしたのは大きかったなと思います。
成果の2番目は、日米両政府の責任を明らかにしたことです。日本の裁判所だと米国自身の責任は問えないんですけど、間接的にでも、法的責任は認められなかったにしても、責任の一部がアメリカにあるということは、示せただろうと思っています。
成果の3番目は、軍事活動に一定の規制をかけたことです。つまり飛行が自由にできないようになったということと、賠償金が得られるようになったこと。将来請求は結局認められなかったんですが、過去の損害賠償は訴えれば得られるような状況になっている。ただ範囲とかの問題はいろいろあるわけなんですが、いちおう75Wというところでは得られる。夜間総早朝の飛行差し止めは認められなかったんですが、その期間の飛行回数は明らかに少なくなっているという状況があります。
90デシベル以上のところでは、提訴時の1976年と比べて高裁判決時の2004年では、総騒音回数が50パーセントに減った。土日の騒音回数が37パーセントになった。22時から6時までの騒音回数が6パーセントにまで減っている。そういう意味では、訴訟したことによって、軍事活動に一定の規制をかけられたと言えると思っています。
横田基地訴訟で明らかにされたこととして大事だと私が思うのは、軍事活動といっても今までのように、戦時中とか戦後すぐとか、主にまあ冷戦期ですね、かつてのような無制限の公共性が認められなくなってきているということです。基地周辺住民の人権や環境を侵害するような軍事活動は、許されなくなっている。人権や環境といった要素が、以前に比べて非常に重要な意味を持つようになっている。
軍事活動というものは基本的に国がやるものです。環境保全も、環境経済学の理論のなかで公共信託財産の話があります。一人一人の市民が企業の汚染を止めるのは難しい。規制を国がしていかないと、環境保全はできない。国は公共信託財産である環境を市民から委託されてそれを管理する義務を負っているという考え方があるわけです。そういった意味では環境保全というものも国の重要な公共政策です。軍事と環境のどちらを優先するのか、公共性ってすごく難しいというか曖昧な概念なんですが、時代とともに移るような公共性の概念で、いまの公共性というものがどういうものなのかというのが、大きいテーマになっていると思います。