○この判決を得るまでの経緯
イラク派兵差止訴訟については、私は4年間微力ですが、若干の討論に参加しましたので、その経験に基づいて、いくつかの感想と今後の運動の参考を申し上げたいと思います。
この裁判は全国で11の裁判所、北から言いますと、札幌、仙台、宇都宮、東京、甲府、静岡、京都、大阪、名古屋、岡山、熊本、この11地裁に提訴しました。
いちばん最初は札幌地裁で、箕輪登もと防衛政務次官・自民党の衆議院議員が提訴したわけです。2003年12月18日に札幌弁護士会の法律相談所にお見えになりまして、小泉総理にイラクへ行くなと言いたいんだが、自分はもう議席がない、裁判官なら聞いてくれるであろう、従ってイラク派遣をやめろという裁判を起こしたい、という申し入れでした。法律相談所の方がびっくりしてですね、会長・副会長にご相談して、札幌・釧路・函館・旭川と、全道4つの弁護士会400人以上の弁護士さんに弁護団に入らないかと照会を出したところが、4分の1を超える109名の方が代理人になってよろしいというので、2004年1月28日に札幌地裁に提訴した。従いましてこの裁判は、自衛隊合憲論者であっても、海外派兵は絶対に許さんという人を含めた裁判になっていったのであります。
2番手が名古屋です。これは原告3251名、愛知県の方が主力ですけれども、インターネットで全国から原告を募集して、大原告団になった。集団訴訟の威力を発揮したということが言えると思いますね。
注目すべきは仙台の裁判で、イラク派兵差止訴訟ともう1件、裁判を起こしています。航空自衛隊松島基地において、クウェートに派遣される航空自衛隊の隊員の壮行会を行った。このときに松島基地周辺の自治体が公費を金一封包んだ。これは公費の憲法違反の支出ではないかと裁判を起こしました。
これらの裁判を起こした原告団の方々の思いを込めた陳述書があります。名古屋、大阪、甲府、静岡では300頁ないし400頁を超える分厚な陳述書が印刷されております。これを見ますと、まず広島・長崎被爆のご体験のある方、それから沖縄戦の体験のある方、外地で敵の捕虜を刺殺したことのある方、外地で飢餓寸前になった方、内地において勤労動員で工場で苦労された方、学童疎開で苦労された方、もっと若くてベトナム戦争あるいは今度のイラク戦争の映像を見て戦争を考えた方。そういう方々が自分の体験とイラクの市民の思いをオーバーラップさせて、この訴訟に踏み切ったというんですね。これを本当に読んだ裁判官は、なんとかせにゃならんと思ったと、私は思うんです。
ただご承知のとおり日本の裁判官は、憲法第9条、安保・自衛隊問題について、常に腰が退けて逃げ腰です。例えば長沼判決一審の裁判長、福島重夫さんは、いま退官して弁護士をやっておられますが、2003年の9月6日に札幌で行われた一審判決30周年のときに、こういうスピーチをされたんですね。「一つ言いたいことは、自衛隊がこうまでなったということは、裁判所がいわゆる怠慢というような、歴史の中において裁判所は責任を負うべきだと思います。それはチェックする機会は充分ありました。だけど結局やらなかったという怠慢さというのは、僕は裁判所が一班の責任を負うべきだと思います。」
法務省は、平和的生存権は具体的な権利ではないということ、自衛隊の違憲・合憲問題は強度の政治問題であるということ、この2つはおそらく1973年の長沼第2審以来築き上げてきた路線だと思います。これを金城鉄壁としてですね、訴えを撃退するという構えであります。これに対して3方向から突破しようと。ひとつはさっき言いました、原告の思いを裁判官に分からせるということですね。2点目はイラク戦争の実態、戦争の意図、状況、それと自衛隊のいまの関与の仕方、イラクの市民の被害というものを、新聞を中心にした資料を証拠化して提出して、裁判官によく説明をしていく。3点目はさっきの福島元裁判官の言葉などを引用してですね、いまこの日本が戦争直前の状況になっているときに、裁判官というものの果たすべき責務を説くと。この3つの線で各裁判所で原告は奮闘されたと思います。
とくに名古屋高裁の特徴は、DVDの上映の許可をとりまして、イラク戦争の生々しい実態を裁判官に映像を通して見てもらったということもありました。もうひとつは名古屋地裁の内田裁判官はとくに本件のために津地裁から出てきたと思われた方でありますが、不当な訴訟指揮をやるということで、これに対しては忌避の申し立てをした。それから名古屋市内および裁判所庁舎前での宣伝行動を徹底して行った。私はこういう裁判官に対する行動を門前でやることについては少し慎重にすべきではないかという意見を申し上げたんですが、名古屋高裁の原告団は断固としてやりますということで、立派でしたね。そういう姿勢が、裁判所に反省のチャンスを与えたのではないか。
04年、05年はまったく絶望的に近い状態が各地であったように思います。しかし2006年7月16日に陸上自衛隊がサマワから撤退しましたのは、ひとつの転機になった。以後は焦点が航空自衛隊に絞られましたので、立証の努力も半分に減ってきた。そこで情報公開法により防衛省に対して、何を運んでいるかという資料請求しましたところが、出てきたものはほとんど黒塗りの資料なんです。薬や医療器械をバグダッドに輸送しているということは消してないんですよ。それから、国際連合の職員さんを空輸したことも消してないんです。しかし他はほとんど何を運んでいるかを言っていない。ということは、まず多国籍軍の兵員であろうという推論が成り立つわけなんで、これを資料化して衆議院、参議院の各野党の主だった論客に提出して、ぜひ防衛省にこの点を究明してくれとお願いしました。2007年2月21日に衆議院のテロ・イラク特別委員会で、防衛省の山崎運用企画局長がですね、多国籍軍の兵員の輸送が大半であるということを認めました。その会議録を各裁判所で証拠に引用しました。
そして昨年の3月23日に、名古屋地裁のもうひとつの部の田近裁判長による判決がありました。結論は棄却なんですけれども、理由中におきまして一般論ですが、平和的生存権はすべての人権を保障する基礎にある、憲法9条は平和的生存権を国の側から保障するものである、憲法9条に違反する国の行為の結果、生活の平穏が害された場合には、賠償請求が可能であると書いた。当たり前のことですけれども、この程度のことも今までの裁判所が言わなかったのを言った。これを大いによりどころにして、さらに1ミリでも前進しようということを、お互いに確認いたしました。
07年6月には志位共産党委員長が、情報保全隊というものがイラク派兵反対の国民運動に対して全国的に調査・監視の活動をしていることを暴露しました。これは本件裁判にも大いに使用すべきだとして、志位委員長の暴露された自衛隊の内部資料を証拠に提出し、準備書面で追加しました。これに対する法務省の反応は、非常に早くてですね、わが方の書類提出の3日後に早くも、このような主張は本件とは無関係だという反論をしてきたので、逆にこれは弱点なのではないかと我々は推察した次第です。
名古屋高裁の審理に戻りますと、これは本年の1月31日、近代史の専門家でいらっしゃる山田朗教授の尋問をもって結審をいたしました。その前には小林武教授の尋問を行っております。そうして結審したのですが、4月17日の判決言い渡しまで2ヶ月半ほどあります。私はこのときに思い出したのは、1967年3月29日の恵庭事件の判決のことなんです。あのときは67年の1月25日に最終弁論で、判決まで2ヶ月ある。我々は甘くてですね、憲法9条違反、ゆえに無罪、という判決が出るというふうに、9割方信じていた。蓋を開けてみますと、憲法問題に触れない無罪判決であった。その体験からいって、2ヶ月半の間に政府の何らかの介入・干渉、あるいは裁判官の心変わりがあるやも知れないと思いましたので、みなさんと討論してですね、判決文を手に取るまで、最後の最後まで気を緩めず、要請行動、葉書等を行うということを実行しました。
判決は4月17日に出まして、5月2日に確定しました。原告団・弁護団はそれぞれ、上告をするかということを討議をいたしまして、弁護団は全会一致、原告団会議は圧倒的多数をもって上告しないことに決めたんです。主文では負けたんですから、上告して闘うのが本則なんでしょう。しかしながら今の最高裁の現状では、憲法のほかのテーマについてはともかく、9条に関する限り、これ以上のものが出るであろうか。ひょっとして平和的生存権はもとより、9条1項の解釈そのものも覆される可能性があるのではないか。そうするとこの判決、獲得したものをしっかり我々が踏まえて、宣伝して運動に活用するということがより大事なんではないかと、両方の利害得失を徹底的に討論してですね、その結果、上告しないことに確定いたしました。
私が心配したのは、原告団の中で1人でも闘うぞというので、おおそれながらと受付に出してしまえば上告したことになるので、「その点どうするのか」と言ったら、名古屋の弁護団は「いや、絶対大丈夫です、統制が取れてますから」と。しかしやっぱり心配になったんでしょうね、最終日の夜の12時まで受付付近に何人かの方が夜を徹して立っておられまして、もし間違ってこられた方にはお話ししてご納得いただくという態勢をとったと聞いております。