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蟹工船をソマリアへ
海賊退治のため海上自衛隊をソマリア沖に派遣する計画が進行している。海上警備行動は本来、最初に発動された1999年の能登半島沖不審船事件で、日本の防空識別圏を越えたところで不審船追跡を中止しているように、本土防衛のためのものだから、東アフリカ沖まで行くのはいかにも無理だ。だいたいソマリアの海賊は漁民の副業なのだから、彼らが漁業で暮らしていけるように援助すれば海賊は激減するはずだ。
先例がある。1979年にソマリアの首都モガジシオに日本政府代表団が赴き、ソマリア政府との間に農業・畜産・漁業・工業・観光ほかの開発協力に関するメモに調印した。同年末にはソマリアの外相が来日、3ヵ年開発計画等を提出した(海外漁業協力財団『ソマリア民主共和国3ヵ年開発計画等』に収録)。漁業部門では、漁港と加工場の建設、魚類資源調査船の派遣、漁協育成の援助、指導職員の研修が求められた。これに基づき、翌年に海外漁業協力財団、国際協力事業団、宝幸水産から5名の調査団が派遣され、冷蔵施設とプレハブ建築の市場施設を建設する計画を立てた。予算5億円(国際協力事業団『ソマリア民主共和国水産物流改善計画基本設計調査報告書』)。これは実現したようで、国際協力推進協会『ソマリアの経済社会の現状』には日本の無償援助のひとつとして81年の水産物流改善計画5億円が掲載されている。
なぜもっと大規模な漁業援助ができなかったのだろうか、と不思議に思うのは、当時日本の北洋漁業が衰退に向かっていたからだ。サケ・マス・カニ・イカを中心とした北洋漁業は、米ソの200カイリ漁業専管水域宣言とオホーツク海での漁業規制の強化で大打撃を受け、1988年には終結する。北洋漁業は船団を組み、母船は漁獲物を船内で缶詰に加工していた。小林多喜二が1929年に雑誌『戦旗』に発表した小説『蟹工船』は「博光丸」が舞台だが、これは林兼商店(のち大洋漁業=マルハ)の「博愛丸」で起こった争議をモデルにしているという。鮮魚を冷蔵・冷凍のまま流通させることが困難だった時代、ただちに缶詰にしてしまう北洋漁業の母船は、まことに合理的なものだった。北洋漁業が立ち行かなくなったのなら、これらの船団をソマリアにプレゼントすれば良かったのではないか。鉄道もなく道路も未整備、冷凍施設も満足にないソマリアに漁業を発展させるには、恰好のものだ。指導のため乗組員も行けば、リストラも避けられた。
上記の報告書に掲載された写真を見ると、1970年代にソマリアに導入された動力漁船のほとんどはまことに小さなもので、公園のボートに毛が生えた程度。あまり魚食の習慣のなかったソマリアに漁業を起こす必要があったのは、オガデン地方の領有をめぐる戦いでエチオピアに敗れて大量の難民が生まれ、家畜を失った遊牧民を漁村に定住させたからだ。なぜ同じソマリ族の住むオガデン地方をめぐる戦いに敗れたかと言えば、それまでソマリア「革命政権」を支持していたソ連が1974年のエチオピア革命を支持するようになったからだ。さらに言えば、1960年にイタリア領ソマリランドと英領ソマリランドが合併・独立した際にも、さらにさかのぼってオスマン・トルコが敗れた一次大戦後にソマリ族の地を列強が5分割した時にも、ソマリ族の主権が尊重された形跡はない。植民地支配した英国もイタリアもソマリアのインフラを整備せず(わずかにイタリアが作った製塩工場の施設は、二次大戦後に連合国に接収され持ち去られた)、「革命政権」に軍事顧問団を送ったソ連も、秘密警察を養成した東独も、ソ連が引き上げた後に最大の援助国となった米国も、バーレ「革命政権」を腐敗させただけだった。そして91年にバーレ政権が崩壊した後のソマリアは崩壊国家となった。93年の武装解除のための国連介入は、米軍による軍事行動への反感から「ブラックホーク・ダウン」、つまり米兵18名虐殺の惨事を引き起こして失敗した。領海も漁業専管水域も意味がなくなり、大型船に対抗できないソマリア漁民は困窮して海賊になった。
旧英領ソマリランドがそれなりに秩序を保ってあらためて独立を宣言していることや、自治政体プントランドの動きについては、ここでは触れない。ただ、ソマリアの現状が、西欧列強が寄ってたかって100年かかってソマリ族の地をボロボロにした結果であることは確認しておきたい。その当事者たちが責任をとらず、日本までも加わって軍艦を送り海賊討伐をするのは間違っているのではないか。取り締まるべきなのはソマリアの漁業専管水域で密漁する漁船であり、必要なのはソマリア漁民の生活が成り立つようにする援助であるはずだ。蟹工船をソマリアへ! (2009年1月28日)

