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  • ●西沢優(港の人・2005刊・5000円+税): 『派兵国家への道』
  • ●大内要三(窓社・2006刊・2000円+税): 『一日五厘の学校再建物語 御宿小学校の誇り』
  • ●松尾高志(日本評論社・2008刊・2700円+税): 『同盟変革 日米軍事体制の近未来』
  • ●西沢優・松尾高志・大内要三(日本評論社・2003刊・1900円+税): 『軍の論理と有事法制』

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2009/08/02

平和的生存権の新たな展開

1 ――長沼訴訟からイラク派兵違憲訴訟へ

2009718日 平権懇学習会での講演記録

新井章(弁護士)

 私もこの会(平和に生きる権利の確立をめざす懇談会)の会員です。代表の榎本信行弁護士から要請がありまして、平和的生存権について最近いい意味で賑やかになっているので、弁護士の角度から報告をしてほしいということでした。私は基地問題というと血が騒いで現場に駆けつけないではいられないという作風を持った弁護士の一人ですので、喜んでお引き受けしました。

 私は半世紀前に朝日茂さんの裁判に取り組みまして、生活保護の裁判にも古くからの縁があります。憲法9条も25条も、どちらも私にとっては大事な仕事の分野なのですが、どちらかというと私は9条裁判の弁護士が“本籍”であって、25条のほうは現住所というか、もう一つの住まいという感じがあります、語弊もあると思いますが。

 なぜそうなのかを考えてみたのですが、私自身は金持ち弁護士ではありませんけれど、まあまあなんとか暮らしている。それに比べると、生活保護を受けるか受けられないかというラインで苦しんでいる方々は、私よりも日ごろかなり厳しい条件のもとで生活しておられるので、そういう人たちのために力を貸してあげることができればうれしい、という感覚がどこかにあります。それに比べて、9条問題というと、私自身の問題、私の家族の問題、私の友人や同志たちの問題であって、そういう自分たちのうえに戦争の災いがふりかかってきたらどうするか、平和憲法があるのに、という思いがある。ですから、9条の裁判では頼まれもしないのに北海道まで、あるいは沖縄まで自費で飛んで行く。そういうあれこれの私の思いがありまして、今日の報告も引き受けさせていただいたという次第です。

「平和的生存権」というと、非常に大事な基本的人権に関わる問題なのですが、これについては戦後間もない1946年の段階で、すでに私どもの日本国憲法のなかに謳いこまれていたわけですね。爾来60年あまりになりますが、現在まで、平和的生存権と呼ばれるものの本籍というか、原点というのはまったく変わっていないのです。この60年ほど、誰もそれ自体に指を触れる人はおりませんでした。そのあたりからお話を申し上げたいと思います。

1. 「平和のうちに生存する権利」とは

 最初に、「平和的生存権」という言葉なりコンセプトなのですが、私どもが共有する日本国憲法のなかで、正確にどういう言葉で表現されているかと申しますと、「平和のうちに生存する権利」と日本語で書き表されております。憲法の本文ではなくて前文のなかに、平和的生存権についての定めが置かれているわけです。

 憲法は法律家の目から見ると、いっぱいある法律の中では非常に短い、どちらかというと小さな法律です。本文そのもので100か条ぐらいしかありません。所得税法とか地方税法などという法律になるともう、めったやたらに条文が多くて、最初のほうをみているとお終いのほうが、お終いのほうを見ていると最初のほうを忘れるぐらい、分厚い法律がけっこう多いのですが、憲法はわずか100か条です。その100か条の本文のなかにさえもなくて、その前に位置づけられている「はじめに」的な部分、すなわち「前文」のなかに、「平和のうちに生存する権利」は謳われているのです。

 日本国憲法前文は大まかに申しますと、3つのパートから成り立っています。第1段は国民主権、天皇は主権者ではなくて国民が主権者だということを中心に書かれている部分。第2段は、われわれ日本国民は将来にわたって平和を大事に取り組んでいくという、平和主義の原則。第3段は、戦前の無法な軍国主義時代を反省して、今後は国際協調でいくと強調している箇所。そういう3つの段落から成り立っているのが私どもの憲法前文なのですが、その中の第2段、平和について格調高く謳いあげたパートのしめくくりの部分に、「平和のうちに生存する権利を確認する」という言葉で表現されているわけですね。

「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から逃れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」

元になったマッカーサー司令部原案の言葉、つまり英文で表現されているところを見てみますと、

We recognize that all peoples of the world have the right to live in peace, free from fear and want. ”

こういうふうになっている。これをほとんど直訳したものが日本国憲法前文第2段なのですけれども、アメリカ人が表現した大本の平和的生存権というのは、“the right to live in peace”という、非常に素朴な英語で表現されています。「平和のうちに生存する権利」と言ってもいいし、「平和に生きる権利」と訳してもいい。

 こういう、私どもの共有する憲法の前文、憲法の基本的な精神とか、なぜこの憲法をわれわれは制定するのかという由来を、格調高く謳い上げた前文のなかに、「平和のうちに生存する権利」の定めがあるわけですけれども、この状態は60年間、まったく変わっておりません。誰も付け足した者がいないし、割り引いた者もないということが、最初に申し上げておきたいことです。

 ついでに申しますと、私は今回の報告をするために多少の時間をとって調べたのですが、憲法第9条という私どもが日ごろから親しんで、しかも大いに大事にしようと思っている戦争放棄とか、あるいは軍備全廃の定めも、実はこの「平和のうちに生存する権利を有する」という言葉とともに、マッカーサー原案では憲法前文の第2段に書きこまれていたのです。ところが、前文に戦争放棄とか軍備全廃とかという非常に具体的なことまでを書きこんでしまうとバランスが崩れると、とくにマッカーサーは軍備全廃とか戦争放棄は前文ではなくて本文のなかの重要なパートに位置づけるべきだという、強い意向を持っていたようでして、総司令部の原案が日本政府に提示されるまでの内部過程で、本文の第9条に移されたということが伝えられております。

 それぐらい、われわれがいま憲法9条として慣れ親しんでいる絶対平和の条項と前文の「平和のうちに生存する権利」とは、相互に密接な関わり合いをもっているのだということを、まずは強調しておきたいと思います。

2 2. 「平和のうちに生存する権利」の生い立ち

 では、アメリカさんが原案をつくったというが、誰がつくったのかということは、憲法制定の歴史的な経過を明らかにするうえで、大事な関心事だと思います。それで私も調べてみました。そうすると、これは当時の占領軍総司令部民政局に所属した、ハッシー中佐という軍人が、マッカーサー原案をつくるときに、前文を担当せよと命ぜられて起案したのだということが分かりました。

憲法前文は言ってみれば“ハッシー原案”なのですが、これについては何故か、日本政府に原案が手渡された際にも、第90帝国議会で新しい憲法をつくる審議が行われた際にも、原案のままで議会を通してほしいという、非常に強い要請が総司令部側からはあったようです。したがって、ハッシーさんが一生懸命力をこめて短時日のうちにまとめ上げた、「平和的生存権」と私どもが今日呼ぶ“the right to live in peace”、それを世界の人々が享有しているという発想は、そのまま無修正で私どもの帝国議会を通過し、60年後の今日も日本国憲法前文として生き続けていることになります。

 ですから、「平和のうちに生存する権利」を含む前文を、神様のようにあがめ祀ると捉え方は適当でないと思いますし、そうとはいえ、小沢一郎氏のように「こんな中学生が書くような、バタ臭い翻訳調の前文なんかは、吹っ飛ばしてしまえ」とか、あるいは中曽根元首相のように、「日本人の魂、日本人の歴史観がまったく入っていない、こんな前文は丸ごと書き直したほうがいい」といった考え方も、私は間違っていると思います。私どもは内容的にそれが良ければそれを尊重するし、内容的に問題があればいずれは直そうと考えることに、何のためらいがあるべきではないと思います。

 いずれにしても、この「平和のうちに生存する権利」の生い立ちというのは、いま申し上げたような事情のごとくであります。

3. 制定当時の「平和のうちに生存する権利」への関心は薄かった

 1946年(昭和21年)の夏から秋にかけて、集中的に当時の国会、正確に言えば最後の第90回帝国議会で国民の代表である代議士たちが審議に取り組んだ、その貴重な産物として、憲法前文が、本文とともに私どもの手元に残りました。前文の第2段で、「平和のうちに生存する権利」を互いに確認しよう、地球社会として確認しようという思いが込められた。しかし46年、47年という憲法制定から間もない段階では、「平和のうちに生存する権利」という言葉なりそのアイデアなりについて、大きな関心はどこからも寄せられることがなかった。あるいは意図的な議論が行われるというプロセスはどこにもなかったようであります。

 私は戦後間もない1949年に新制大学に入りました。そのころ、つまり憲法制定直後の大事な時期の憲法の専門研究者、たとえば宮沢俊義教授とか、あるいは東大の憲法問題研究会の先生たちにしても、彼らが書いて残してくださった教科書なり、詳しい解説書のどこを読んでも、「平和のうちに生存する権利」を一項目起こして解説を加えるとか、その歴史的由来はどうかとか、あるいは欧米の先進諸国のどういうところに源があるのかといった点については、何の言葉も費やされておりません。つまり憲法問題の専門家でさえ、「平和のうちに生存する権利」について、問題意識を示したことがなかったことは確かであります。

4. 「平和のうちに生存する権利」から「平和的生存権」へ

 ところが、この憲法前文第2段の最後のパラグラフにちょっと顔を出すだけであった「平和のうちに生存する権利」を、フットライトを浴びるような華々しい場所に引っ張り出した方がおられたんですね。その方は星野安三郎さんという憲法研究者です。

 星野先生が「平和的生存権論序論」という論文を1962年に発表されたんですね。それまでは関心も薄かったから良かったんでしょうけれども、「平和のうちに生存する権利」とか「平和に生きる権利」とか、ちょっと長ったらしい表現で、いっそう人々の関心を薄くすることに役立っていたこの表現が、星野教授によって「平和的生存権」という非常に端的な表現に置き換えられるようになった。つまり別な言葉で言えば、「平和のうちに生存する権利」という権利のありようをまるきり改めて、新しい生命を吹き込ませるに十分な力を持ったコピー、「平和的生存権」に置き換えることを提唱した。

 そういう意味で星野教授は、他にも学問的な実績はいっぱいおありの方ですが、この点だけでも歴史に残る、非常に偉大なコピイストだと(怒られるかも知れませんが)、いくら称えても称えすぎることはないと思います。星野先生が「平和的生存権」という言葉を工夫して、これは新生日本のための礎となる、憲法の“目玉”のひとつだと言ってくださった。このことはその後に向かって非常に価値のある提言でした。今日の報告の最後のほうに出てくるイラク派兵違憲訴訟の名古屋高裁判決、ああいう立派な判決を生み出す大本になったのは、ハッシー中佐ではなく星野安三郎教授だったと言っても、決して言い過ぎではないと思っております。

 多少ヨタを飛ばさせていただきますけれども、星野先生は物事を実質的に広い視野でとらえて、端的にそれを表現し、端的にそれを人に説得することのできる人なんですね。論理的思考に富んでいる学者というよりは、直感的思考に富んでいる学者です。こういう人は法律学者、憲法学者のなかでもそう多くはないんです。ですから星野先生から教わったことはいくつもあって、死ぬまで忘れない。

「新井さん、日本国憲法のなかで『国民』という言葉はふんだんに出てくるけれども、『人民』という言葉は出てくると思うか。法学部で勉強したから分かるだろう」とか言われても、そういう問題意識で宮沢先生に教わった記憶はありませんから分からない。「そうだろう」と、非常にうれしそうな顔をしてですね、「オレだけが気が付いたんだ」といった調子です。たしかに「人民」という言葉は1か所もない。日本国憲法の英文原案を見ると、“people”という言葉がしきりに出てきますが、“people”は必ずしも常に「国民」ではありません。“people”といえば多くの場合、どちらかといえば「民衆」であり「人民」であり「大衆」であるわけです。これをことごとく「国民」と翻訳するのには、ある種の意図が隠れていると考えるほうが、研究的・分析的な、冷静な見方だと私は思います。どこかに多少ごまかしが、マッカーサー草案の英文を訳したときの当時の外務省官僚などの頭のなかにはうごめいていたかも知れないのです。

 いずれにしても、日本国憲法100か条のなかに「人民」という言葉が使われていないのはなぜか、司令部の原案では“people”と表現されていたのをなぜ「国民」とだけ翻訳したのか、そういう問題を、言わず語らずのうちに星野先生は私どもに教えてくれているわけですね。ですからたんなるコピイストではないのです。

 もうひとつヨタを飛ばさせていただくと、「新井さん、法律の文章は味も素っ気もない、悪文の見本だと言われることはご承知の通りだけれども、あにはからんや、日本国憲法100か条のなかに、じつに文学的に香り高い条文があるのを知ってるか」というわけです。「いや、知りません」と言うとニヤッと笑って、俳句のように、575調で謳われている条文があると言うんですね。「学問の自由は、これを保障する」というのが23条にあるのです。よくヒマにあかせて気がついたな、と思うのですが……。

 要するに星野先生はそういう点で非常に物事の本質的なことを直感的に見抜く力をお持ちの方で、それを直接的な表現で表現しきる能力をお持ちの方なんですね。先生が「平和のうちに生存する権利」というコンセプションが誕生してから10年以上たった1962年に発表された論文のなかで、「平和的生存権」として受け止めようと主張された。星野さんの指摘によれば、日本国憲法はよく読むと、平和的生存権という発想・理念を基軸として成り立っている憲法であって、まさに「平和国家の憲法」である。そして、これは前文のなかに謳われているけれども、その権利の保障は、第9条の戦争放棄条項、軍備禁止条項を伴っていることによって、政府に対する具体的な“縛り”となって、現実的に日本国民に対する保障となっている、そういう権利であると。そのように解釈すべきだと強調しておられました。

 この星野さんの着想をきっかけにして、日本の憲法研究者、法律研究者たちの間で、「平和のうちに生きる権利」への問題関心が一気に広がって、いろいろな方が発言され、あるいは研究成果を発表されるようになっていくわけです。この会の代表をお務めになった浦田賢治さんもその一人でありまして、平和的生存権について非常に緻密な憲法学的なアプローチを試みておられます。

3 5. 基地裁判・平和訴訟における「平和的生存権」の提唱

 さて、「平和的生存権」という言葉のもとで新しい生命を吹き込まれた「平和のうちに生きる権利」は、それでは学者の頭脳、学者の研究室のなかに留まってその後生き続けてきたのかというと、そうではなくて、具体的な基地裁判・平和訴訟の裁判闘争の舞台の上にひき出され、その内容を展開するというふうに、次第に発展していきました。

 しかし、裁判闘争の舞台で「平和的生存権」が大きく登場し、その存在意義を発揮するのは、戦後の基地裁判・平和訴訟が始まってすぐではありませんでした。基地裁判・平和訴訟の初期の段階では、どちらかといえば「平和的生存権」は星野さんの提唱にもかかわらず、まだ陰に追いやられていたのです。むしろ、戦後「警察予備隊」として出発し、次第に増強されてきた戦後日本軍としての自衛隊、これは憲法9条が禁止し、政府が保持してはならない「戦力」に該当するのではないか。また、アメリカの軍事力に依存して、あるいはアメリカの核戦力の傘のもとで、日本の安全保障を確立しようと考えるのは、平和憲法の原則から考えたらおかしいのではないか。そういう観点、つまり、憲法9条のなかでもとくに政府に“縛り”をかけている第2項を根拠として、政府の戦後の軍事政策を追い詰めていく。そういう攻め方が生産的、効果的ではないかという問題意識が、基地裁判・平和訴訟の最初の20年ぐらいは支配的であったのです。

 私どもはたまたまそういう時代に属する人間であったわけですが、米軍立川基地の拡張計画に抵抗する砂川の農民の闘い、あるいは戦後開拓農地として開かれた茨城県百里の農村を、自衛隊のための飛行場に作り換えようという企みに抵抗する開拓農民たちの基地闘争、これが1955年ぐらいから始まりました。その砂川・百里をスタート台として始まった戦後の基地・平和の裁判闘争は、いま申したように、どちらかといえば、あれは憲法違反の「戦力」であり、軍隊だという論理を攻め手として闘われてきたわけです。

 ですから、言葉を変えて言えば、私どもその段階の基地闘争に携わった者たちの狙いで申しますと、自衛隊という軍事組織あるいは駐留米軍という軍事組織を、組織として、制度として追い詰めていく、それがなくなるように追及していくという切り口で取り組んでいたと申し上げてもいいと思います。同じ基地問題でも、基地周辺に暮らす人たちの生活を脅かすとか、人権を脅かすという、人権的な観点からの切り口は、当時は用いられてはおりませんでした。

 したがって、「平和的生存権」という考え方なり法的イデオロギーが、基地周辺の住民や住民を支える弁護団・学者の側から大いに唱えられるようになったのは、客観的に見ると、戦後の軍事政策が10年たち、15年たちする中で次第に肥大化し、全国の至る所で国民生活とぶつかるようになってからのことです。軍事演習のために牛の乳が出なくなる、北海道の恵庭牧場でもそうだし、横田の周辺で農業を営む人たちでもそうです。そういう社会情勢の変化が背景にあって、それはおかしいではないか、それは私どもの生活を脅かす政策ではないか、それは私どもの人権を侵害する防衛政策ではないかという問題意識から、人権の問題として平和をとらえることになる、そのとき、まさにそのために用意されたかのようにして、「平和のうちに生きる権利」という発想、「平和的生存権」という権利思想が待ち受けてくれていたわけです。

 それが1960年代に入りまして、戦後20年近くたった段階から以降、たとえば恵庭事件という裁判事件になり、あるいは、それに続いて長沼の町民たちを脅かすミサイル基地への反対闘争や裁判闘争になった。さらには少し間を置きますが、湾岸戦争に90億ドルを橋本首相が無造作に多国籍軍の戦費として提供するという、乱暴な湾岸戦争への加担問題に食い下がった、湾岸戦争反対の裁判闘争ですね。それにさらに続いて、自衛隊をカンボジアに派遣するというPKO派遣の問題、あるいはゴラン高原でPKFの一部として自衛隊を派遣するという問題等々。次第に日本政府が自衛隊の海外派兵を敢えてするような、積極的な軍事措置をとることになって、それを市民の立場で争う裁判が、「市民平和訴訟」というネーミングのもとで展開されたことは、ご承知のとおりであります。「平和的生存権」という法的なイデオロギー、あるいは運動の者から見れば平和闘争のための思想的な武器、これを一気に花開かせることになったのが、市民平和訴訟の登場であったと、私は認識をしております。

 それまで恵庭事件の場合の野崎牧場の人たちにしても、あるいは長沼農民のミサイル基地をつくらせない闘いにしても、やはりまだ、自衛隊は憲法に違反する「軍隊」である、政府が持ってはならないはずの軍隊である、軍隊のための演習で農場の経営を危機に陥らせるとは何事か、という切り口での攻め方でした。そういう中で、どちらかと言えば“脇役”になっていた「平和的生存権」の問題が、市民平和訴訟では、われわれ市民の平和的生存権が、橋本内閣やその後の自民党内閣による、危険な海外派兵の政策等によって脅かされる段階に来ている、裁判所は是非ともそれに待ったをかけてほしいという、そういう差し止め請求として、主要な問題になってきたわけです。「平和的生存権を脅かす」という言い分を一枚看板にして、これらの裁判が全国各地で起こされるようになったということになります。

 しかし、全部では20か所以上で、相当期間の時間をつなぎながら闘われてきた実績をもつ市民訴訟ではありますが、当時の弁護士たちも言っていたとおり、どこでも裁判ではにべもない門前払いの判決で斥けられてきた。「99敗ですよ」と非常に残念そうな表情で、私どもも報告をうかがったことがあるんですけれども。裁判所は、この段階ではまだ、ほとんど原告市民の方たちの平和的生存権にかけた熱い思いをくみ取るという姿勢には到達しておりませんでした。

 このような恵庭あるいは長沼の事件、あるいは市民訴訟の裁判事件で、裁判所がなかなか「人権としての平和」という発想に到達できない、「平和的生存権」という発想について来れないという段階であったときに、憲法学者のなかでは先ほどの星野先生に次いで、深瀬忠一先生が、非常に地道で熱心な研究活動を、憲法9条や平和的生存権についてしてくださいました。深瀬教授の論文(『長沼裁判における憲法の軍縮平和主義』325頁)のなかでは、

「日本国憲法が本来……保障している『平和的生存権』は、人類普遍の自然法に基づく基本的人権〔近代以後の国家のなかで人為的に作り出された人権ではない、そういう意味では将来にわたって誰も奪うことのできない基本的人権〕であり、前文においてそのことを明示的に『確認』したうえ、憲法9条で戦争と軍備放棄という明確な客観的・制度的保障を規定するとともに、憲法第3章の具体的・個別的な諸条項において、その主観的権利の諸態様を保障しているもの」

と提唱してくださっていたわけです(〔 〕内附加説明)。

 星野さんを継いだ深瀬さんたちの研究的努力によって、私どもが弁護士として基地裁判の法廷で裁判所に説得を重ねることができた。その元になるデータや根拠を与えてくださったということになるわけであります。

4 6. 「平和的生存権」の権利性を真正面から認めた長沼訴訟第1審判決

 ところで、この「平和的生存権」は権利なのか、単なる絵に描いた餅なのか。美しい理念をメロディーのようにうたいあげた、フワフワした存在にすぎないのか、そうではなくてこれを根拠にして、ときには裁判手続を通じて政府から具体的な損害賠償なり差し止め命令を獲得できる、しっかりした法的な内実のものなのか、という点が、平和的生存権については、当初から絶えず議論の的にされてきました。そういうなかで、平和的生存権というのは法的な権利として十分に認めることができるということを、学者の議論としてではなく、裁判所の判決として正面から認めるケースが生まれました。これが長沼訴訟第1審判決です。裁判長の名前が福島重雄さんということだったので、私どもは「福島判決」と略称してきたのですが。

 福島さんらが、自分たちの法律家としての生命を賭けて取り組んでくださったこの判決のなかでは、非常に注目すべき考え方が打ち出されたことを紹介しておきましょう。そのひとつは、先ほど深瀬さんのことに触れたときに申したことと同じなのですが、平和的生存権はたんなる政治的な理念の顕現に留まるものではなく、国民の、それも日本国民だけでなくて、もっとワールドワイドな広がりをもったある人権である、世界の諸国民が共有する基本的人権であると。しかも、他の諸々の人権と比べても、平和なくしては人権が存立し得ないことを考えればすぐ分かるように、「平和のうちに生きる権利」の人権性はもっとも基礎的な人権、人権中の人権であると。それがひとつ。

 もうひとつは、長沼町の郊外に馬追山という小高い丘陵があるのですが、その馬追山の頂上にある国有保安林を切り払って、禿山にして、その禿げた部分にミサイル基地を建設する、そういう物騒な計画を国・防衛庁が立てた。それに町民が反対して、その国有林の伐採を許さないでくれという裁判を起こした。これが長沼訴訟のですけれども。このときに、国・農林省がやる保安林の管理について、そして防衛庁の要請にしたがって農林省が保安林の指定を解除する処分について、いわば第三者の立場にある長沼町民が裁判を起こす原告適格があるかということが、長沼裁判では“入口”の問題としてたいへん深刻に争われたわけです。福島判決では、長沼町民には立派に原告適格が認められる、何故なら、町の郊外の山の上にミサイル基地がつくられれば、当然、仮想敵国である当時のソビエト連邦などは、いったん緩急ある際に真っ先に日本のミサイル基地の息の根を止めるために、ここに爆弾を集中するだろうと。ミサイル基地がつくられるということは、仮想敵国の攻撃を呼びこむという危険性を著しく高めるものである、したがって、長沼町の町民には、そういう基地問題に煩わされないで生き抜く、「平和のうちに生きる権利」が、憲法9条や前文で保障されている、取消訴訟を起こした長沼町民には原告適格が認められる、という判断をしてくれたのです。

 当時、私も榎本さんも他の多くの仲間とともに、長沼裁判には最初から最後まで携わっておったのですが、これは私どもの発想をはるかに超える、スケールの大きい判決でした。非常に感激してこの判決を読んだわけです。この福島判決は「平和的生存権」が初めて日本の戦後裁判のなかで“市民権”を与えられた事件であったということができます。

7. 「平和的生存権」の権利性を飛躍的に発展させたイラク訴訟名古屋高裁判決

 今般、私どもが非常な喜びをもって迎えることができたのは、イラク派兵違憲訴訟における名古屋高裁の判決です。これは長沼訴訟の福島判決と比べてどこが違うか。福島判決の場合は、「平和的生存権」というのは絵に描いた餅ではなく、非常にしっかりとした憲法的な根拠のある、法的にも充実した中身をもっている権利、人権だと認めた点では非常に優れていました。名古屋高裁のイラク訴訟判決は、そのことを当然の前提としたうえで、具体的に、それでは平和的生存権に基づいて何をすることが国民に可能か、勝訴を具体的に予想しながら成算のある闘いを起こせるのか、そういう具体的な平和的生存権のいわば“御利益”ですね、具体的・法的なメリット、これについて非常に詳しい、しかも懇切丁寧な考え方・見解を、名古屋高裁は示してくれたわけです。

 青山邦夫さんという裁判長は、聞いてみると福島さんたちとほぼ同世代の人で、良心的な裁判官と目されるグループの一人だそうです。その青山判決のさわりを読んでみます。

「このような平和的生存権は、現代において憲法の保障する基本的人権が平和の基盤なしには存立し得ないことからして、全ての基本的人権の基礎にあってその享有を可能ならしめる基底的権利であるということができ、単に憲法の基本的精神や理念を表明したに止まるものではない。」

 こういうふうに、平和的生存権は立派な定めではあるけれども、それは法の目的や法の理念を書いただけのもので、いわば政治的な努力目標を憲法前文で謳い上げたに止まるというのが、それまでの数多くの裁判所に共通した考え方だったのです。青山裁判長たちは、そのような従来の否定的・消極的な考え方はとらないということを、まずはっきり言っております。そのうえで、

「そして、この平和的生存権は、局面に応じて自由権的、社会権的または参政権的な態様をもって表れる複合的な権利ということができ、裁判所に対して〔政府や軍隊の行動によって、国民の生活や生命の安全が脅かされるようなときには、〕その保護・救済を求め……得るという意味における具体的権利性が肯定される場合があるということができる。」

と言っているわけです。そしてさらに懇切丁寧に、

「例えば、憲法9条に違反する国の行為、すなわち戦争の遂行・武力の行使等……によって、個人の生命・自由が侵害……されるような場合には、〔あるいはさらに、憲法9条に違反する戦争が行われるときに、政府あるいは防衛・警察官庁の命令で国民ひとり一人がそれへの加担・協力を強制されるような場合には、〕……裁判所に対して当該違憲行為の差止請求や損害賠償請求等の方法により救済を求めることができる場合があると解することができる。」

と言ってくれているわけですね。これほど立ち入って「平和的生存権」の具体的な“御利益”を説示してくれたものはこれまでにありません。

8. まとめ

 私は今回のお話の準備にかなり時間を割きました。それでも、私自身が直接携わった、戦後基地訴訟の前半期のことについてはいろんなことが申せるんですけど、イラク訴訟、市民平和訴訟についてとなると具体的に携わったことがございませんので、まだ十分な評価・総括ができておりません。そういう意味では、申し訳ない中途半端な報告です。

 今日の話の最初から申しておりますけれども、「平和のうちに生きる権利」がわれわれの憲法のなかに謳われて以来、ひとつの言葉も足されたこともないし、削られたこともない。それ自体としては全然変わっていないんですね。ところが、昨年417日の名古屋の裁判官の思想や勇気をとおして発表された、「平和的生存権」の内実には、非常に大きなふくらみ、発展があるわけです。これは驚くべきことだと思います。

 振り返ってみると私自身はちょっと理屈に勝った弁護士なものですから、市民平和訴訟という言葉は美しいけれども、まず勝つ見込みはないし、オレは他が忙しいから、というので十分な協力をしてこなかったのです。しかし、政府が無謀な他国の戦争への加担を決めたときに、黙っていないで各地で裁判を起こした人たちがいたおかげで、市民平和訴訟が何か所もで闘われた。

 そういう中では、非常に控え目だけれども、平和的生存権とか憲法9条は絵に描いた餅ではありませんよということを判示した東京地裁判決(平成8510日、凡例時報1579号)なんかもあるんです。それを地下水のなかの、ほんのチョロチョロとした流れの段階ととらえると、さらにそういう国民の頑張りを受けて、今度はイラク戦争が始まったときには、湾岸戦争のときの2倍、3倍の活力で、イラク派兵反対の裁判闘争が各地で起こされている。そういうなかで、深瀬さんとか小林武さんとか、大勢の学者も協力して、非常に優れた平和的生存権の研究成果がもたらされた。

 そこで裁判官でさえ、というと裁判官を馬鹿にしたようですが、青山さんのように、あるいは福島さんのように、まともに考えれば憲法は無視できません、9条は無視できませんという判決を書く人間が出てくるわけですね。それが、憲法前文第2段の末尾のパラグラフにたったひとこと、「平和のうちに生存する権利があることを確認する」という言葉があったのを契機として、豊かな内容を付け加えて今日があるということです。

 権利というのは、黙っていて棚ぼたのように上から落ちてくるのを待っていればいいのというものではなくて、そのために汗をかく人にだけ与えられる。「権利は闘う者のためにのみある」ということを昔の外国のお偉いさんが言いました。「平和的生存権」は単なるスローガンではなかった。あれは具体性が薄いから、おまじないのようなものだと受けとめてしまったら、そのときに、発展の可能性は芽を摘まれるのであって、本当にそれに命を吹き込みたければ、そのために汗をかけば肉が付いてくる。そのことの誰の目にも明らかな証拠が、この「平和的生存権」60年の歩みだったと思います。

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