読む・読もう・読めば 77
本土なみ
戦後史のなかで間歇的に注目される沖縄について考える。5月15日は「復帰」の日だからだ。1972年沖縄返還は「核ぬき・本土なみ」と喧伝された。「本土」とは国語辞典では「その国の主な国土」であって、そこに含まれない辺境の地はいつでも切り捨てられる存在だから、この言葉はできれば使いたくない。いちおう奄美・沖縄諸島やアイヌの地など、切り捨てられやすい辺境の地を除く「主な国土」を「ヤマト」と呼びたい。古代大和朝廷の実効支配範囲がどこまでか、という厳密な話とは別。
72年沖縄返還で「本土なみ」とは、本来は米軍基地のあり方に関する表現だろうが、復帰運動の側からすれば、米軍支配から日本国憲法のもとへの復帰・併合だったと思う。しかし日本政府の側からすれば、日米安保条約・地位協定で縛る体制への復帰・併合だった。自衛隊は復帰の翌月には沖縄に移駐する。安保は沖縄を併合することで「極東」の枠を越える契機をつかんだ。だから沖縄の人々にとっては、憲法より安保のほうが強いのだと、身にしみて感じる復帰後の38年だったと思う。ヤマトの私どももまた、憲法より安保のほうが強くていいのかと考えさせる契機を、間歇的な沖縄報道によって提供されてきた。
ひとつの文書を想起する。1945年6月6日、沖縄の海軍根拠地隊の大田實司令官が小禄での陸戦に敗れた後、自決前に海軍次官あてに送った決別電であって、いま沖縄・豊見城に残る旧海軍司令壕わきに碑がある。大田は天皇万歳とも書かず皇軍の誇りについても書かず、ただ沖縄県民の惨禍について中央に報告することを目的として決別電文を書いた。「県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛招集ニ捧ゲ 残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ 家屋ト財産ノ全部ヲ焼却セラレ」た。「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」。後世の私たちはどのように応えたか。
1853年、ペリーは琉球と小笠原に寄った後に江戸にやってきたし、翌年、日米和親条約を結んだ10日後には琉米修好条約を結んでいる。ペリーにとってヤマトと琉球は別な国だった。1881年、日本政府は清との国境交渉において宮古・八重山を清に引き渡す提案をしたが、清がこの条約に調印しなかったため琉球分割は避けられた。いつでも切り捨てられる辺境の地の人々に、ヤマトに併合されて良かったと言ってもらえるとすれば、安保より強い日本国憲法の実現以外に何もないと思う。 (2010年5月15日)
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