読む・読もう・読めば 82
西郷さんの食養生
明治維新を成し遂げた後の西郷隆盛は東京の薩摩屋敷にいたが、巨体のうえに肥満で体重は30貫(112キロ)あり、体調を崩していた。心配した天皇は侍医とドイツ人医師ホフマンを差し向けた。ホフマンは西郷さんに言った。「食事は麦飯を少々ずつ召しあがり、そのほか鶏など、格別膏のないものを食用にいたし、なるだけ米はもちろん、五穀を食べないようにして下さい」「肉はかえって膏にはなりません。穀物がもっとも膏になりやすいのです」。西郷さんは下剤も使って体重を落とし、20日間ほどホフマンの言うとおりの食養生をし、薩摩に戻るとよく山へ猟に出かけて健康体を取り戻した。津本陽さんの小説『巨眼の男 西郷隆盛』に出てくる話だ。
ん? これはいま江部康二先生の推奨している糖質制限食ではないか。いわく、1.血糖値を上昇させるのは糖質である。2.糖質を摂取しなければ血糖値は上昇しない。3.糖質制限食を実践すれば血糖値は上昇せず糖尿病は改善する。興味のある方は江部先生の本を読んでください。大学東校(東京大学の前身のひとつ)に内科医として赴任したお雇い外国人のテオドール・ホフマン(1837-94)は1871年に来日、75年に帰国しているが、こんな昔から糖質制限食があったとすれば、20世紀後半の日本で、と言うよりは今なお生きている厳格なカロリー計算による(なかなか守れない)糖尿病対策はいったい何だったのか、ということになる。
同じ西郷さんに対するホフマン医師の助言を、司馬遼太郎さんは『翔ぶが如く』に次のように書く。「これ以上に太ってはいけません」「穀類とくに米はアブラになりますから、麦飯をすこしだけ摂るようにして下さい。肉類は鶏肉をおすすめします。ただしアブラ肉は避けてください」。微妙に異なるが、同じ史料を使っているようだ。ホフマン自身の滞日記録というのはなさそうだし、西郷さんの伝記のたぐいは数百冊はありそうだし、種本は何だろうかと思案しているうちに、見つけましたね、これが。
大学東校を卒業して、つまりホフマンに学んで陸軍軍医になった石黒忠悳さんの『懐旧九十年』という本が1936年に私家版で出ている。1983年に岩波文庫に入った。これに西郷さんとホフマンの話が出てくる。西郷さんははじめ、灸をしているから医師の診察など不要と断ったが、ホフマンは天皇から命じられて来たのだから文句があるなら天皇に言え(ということをもっと丁寧な言葉で)言ったそうだ。のち西南戦争で神輿とされ明治政府に反逆した西郷さんも、ここでは天皇に従ったわけだ。石黒さんのほうは西南戦争に、鎮圧軍側で従軍した。 (2010年7月28日)
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