読む・読もう・読めば105
読む・読もう・読めば
105 言葉の力
戦後詩の集団として、「荒地」と「櫂」とでは方向性というか感覚というか、が違うけれども、戦争体験をいつまでも引きずっていたところで共通している。そのような体験を持たないけれども共感を持つ「遅れてきた」者として、疲れたときには「荒地」グループの、とりわけ黒田三郎作品を読み、あるいは「櫂」グループの、とりわけ茨木のり子作品を読んできた。何よりも「言葉の力」を信じることができるからだ。ごめんなさい、呼び捨てです。実生活者としては恐るべきアル中の黒田と、堅実そのものの茨木ではずいぶん違ったようだけれども、物書きは作品世界で勝負すればいいのだ。
1919年生まれの黒田は1970年に集大成の「黒田三郎詩集」を刊行した後、4冊の詩集を出している。遺稿詩集「流血」(80年)は老いだけが感じられて淋しい。装画・糸園和三郎、題字・青山杉雨はいかにも立派だけれど、悪いけど函のサイズが合ってないよ。奇妙なのは若い女友達に捧げられた形の詩集「悲歌」(76年、これも函入り)であって、つまりなぜこれを人目に晒さなければならなかったのか理解できなくて、なんとフランス装幀なので私は今だにナイフを入れていない。
1926年生まれの茨木の最初の詩集「対話」に収録された「根府川の海」は、第2詩集「見えない配達夫」に収録された茨木のもっとも有名な作品「わたしが一番きれいだったとき」とテーマを同じくしているのに、あまり注目されないのが気の毒。そして同じ第2詩集に収録された「六月」は、カンナもルオー爺さんも出てこなくて、つまりは抽象的な言葉の羅列ではあるけれども、いま3.11後を経験している私たちに何事かを教えているように思われる。以下は全3連のうちの第3連。
どこかに美しい人と人との力はないか/同じ時代をともに生きる/したしさとおかしさとそうして怒りが/鋭い力となって たちあらわれる
(2011年7月14日 Quatorze Juillet)
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40年以上前に読んだ『茨木のり子詩集』を本棚の奥から探し出してみると傍線や書き込みが残っていた。記憶に強く刻印されているのが「内部からくさる桃」の一節。
ひとびとは/怒りの火薬をしめらせてはならない/まことに自己の名において立つ日のために
「わたしが一番きれいだったとき」は別の思い出と感慨もあるけれども、ほかにも「秋」、「準備する」、「敵について」、そして「りゅうりぇんれんの物語」。青春の時代がよみがえってくる気がするのは妄想か。
今日に通じるもう一つの詩を挙げる。
されど時の歩みは、のろき群衆のごとし/この群衆、気がるにのろし/あくびしてゆるやかに往く/いざ急げ、のろき群衆よ
ハイネ「かしこへ此処へ」より。
投稿: 小幡利夫 | 2011/07/19 10:22