読む・読もう・読めば 107
復仇
『旧約聖書』詩編のうちでももっとも文学性が高いというか、誰の心をも打つのは、バビロン捕囚の悲しみを歌う第137のはじめの部分だろう。新共同訳による。「バビロンの流れのほとりに座り/シオンを思って、わたしたちは泣いた。/竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。/わたしたちを捕囚にした民が/歌をうたえと言うから/わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして/「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。/どうして歌うことができようか/主のための歌を、異教の地で。」しかしこの詩は、激しい復仇の誓いで終わる。「娘バビロンよ、破壊者よ/いかに幸いなことか/お前がわたしたちにした仕打ちを/お前に仕返す者/お前の幼子を捕えて岩にたたきつける者は。」
広島・長崎の被爆者運動の中から、占領が終わった後になっても、日本も核武装して米国に仇討ちしようという声が公然と出てくることがなかったのは、まことに賢明なことだった。その道徳性というか志の高さが、たとえば広島の原爆死没者慰霊碑に「過ちは繰返しませぬ」と書いたことにつながると、私は思う。むろん、この表現が激しい論争を引き起こして今なお止まないのはよく承知しているけれども。
エラスムスは1516年にギリシア語原典から『新約聖書』をあらたに翻訳したとき、序文に次のように書いた。木ノ脇悦郎氏訳による。「私にとって、本当の神学者というのは、次にあげるような人の事なのです。……キリスト者というものはこの世の助けに信頼するのではなく、全く天に依存すべきであり、不正に対して仕返しをせず、悪を願う者にも善を願い、悪をなす者にも善をもって尽すべきだと教える者の事ですし、又すべての善なる者は、同じ身体の肢体として平等に愛され、護られるべきであり、悪い者がもし正されないとしても、寛容に扱われるべきであると教える人の事なのです。」いまは「天」を「国際法」に読み替えるべきだろうか。
アジア太平洋戦争が終わって66年目の夏だ。戦争による悪が正されるまでには膨大な時間が流れる。世代は移り復仇の念は止むことがない。許す、しかし忘れない、と言える、言ってもらえるようになるまで、まだたくさんの対話が必要なのだろう。
(2011年8月16日)
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コメント
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サッカー女子ワールドカップ決勝戦は日米決戦だった。そのときわれらが都知事は「今度こそ勝ってほしい」とのたまった。とんでもない発言だがマスコミは面白おかしく取り上げただけ。
戦中派の先輩の話を紹介しておく。曰く、8月15日は「終戦記念日」でいい。というのも、あの頃は勝とうが負けようが何でもいいから「終わって」ほしかった。まぎれもない敗戦だから「敗戦記念日」が正しいが、そう言えば「もう一度戦争をやって今度は勝ちたい」などというおかしな連中がでてくる。だから「終戦」でいいというのである。
なるほどと思う。
投稿: 小幡利夫 | 2011/08/19 15:06