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「平権懇」☆関係書籍☆残部僅少☆

  • ●大内要三(窓社・2010年): 『日米安保を読み解く 東アジアの平和のために考えるべきこと』
  • ●小林秀之・西沢優(日本評論社・1999刊): 『超明快訳で読み解く日米新ガイドライン』
  • ●(昭和出版・1989刊): 『釣船轟沈 検証・潜水艦「なだしお」衝突事件』
  • ●西沢優(港の人・2005刊・5000円+税): 『派兵国家への道』
  • ●大内要三(窓社・2006刊・2000円+税): 『一日五厘の学校再建物語 御宿小学校の誇り』
  • ●松尾高志(日本評論社・2008刊・2700円+税): 『同盟変革 日米軍事体制の近未来』
  • ●西沢優・松尾高志・大内要三(日本評論社・2003刊・1900円+税): 『軍の論理と有事法制』

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2013/02/21

自衛隊イラク派兵10年を問う

自衛隊イラク派兵10年を問う

2013215日 平権懇学習会報告

志葉 玲

 もうすぐ10年前になりますが、イラク戦争開戦2日目に私は現地に入ったんです。今はシリアは大変なことになっていますけれども、当時は平和的な町だったダマスカスから陸路でイラクに入りました。「人間の盾」という、要するに戦争を止めるために世界の平和運動家たちがバグダッドに集結した、その一員としてです。当時はまだサダム・フセイン政権で、メディアに対する規制はけっこう厳しくて、法外なガイド料を要求されたりとかいうこともあったので、私は「人間の盾」のほうに入ることにしたんです。

 夜は浄水場に寝泊まりしているんですが、バグダッドの中心部には爆撃なんかも来るんで、ある程度離れていてもガラスが割れたりする。中心地の市街地では家が何軒か跡形もなく吹き飛んで、一般市民の方々もけがをしたり、市場にも小型ミサイルが落ちまして、片付けた後にも血の跡が残っている。こういう映像は日本のテレビでも放映されましたけれども、血の部分はカットされました。血が流れたり手足が吹き飛んだりするのが戦争なんですけれども。

 イラク中部のヒッラというところで、クラスター爆弾が使われて一般市民に大きな被害が出たというので取材に行きました。米軍が迫ってまして、戦車が走ってくるのが見えていました。負傷者の体には鉄の破片がまだいっぱい食い込んでいるんですね。クラスター爆弾は残酷だなあと思いました。思い切りドカドカと空爆の音がしているのに、慣れてしまって車も普通に走ってるんですけども。

 中東の各国やインドネシアからも、いわゆる「イスラム戦士たち」が集まってきていて、「アメリカと戦うぞ」みたいな感じになりました。イラクの人たちも、空爆が始まってからも「また戦争か」と、のんびりしていたんですけども、さすがにここまで来るとあわて始めた。イラク政府の人から逃げろと言われて、われわれも撤収を決めました。報道陣が集まるパレスチナ・ホテルで反戦アピールをして、でも結局、浄水場のほうへ帰って来たんです。サダム・フセイン政権が崩壊した数日後までここに残っていました。私は仕事の関係でいったん帰らなければならなくて、フセイン政権の崩壊を見逃したんですね。それは今でも悔やまれるんですが。

 10年前を振り返ってみました。今日のテーマは10年目の自衛隊イラク派遣ということですから、やはり自衛隊中心の話にします。みなさん自衛隊派遣に関しては詳しいかと思うので、周辺の話よりは現場の話をしたいと思います。

 2003年の12月から先遣隊がイラクで情報収集にあたり、2004年に入ってから本格的に自衛隊が現地入りをしたわけですね。イラク南部のサマワという町に自衛隊が駐留しました。サマワは比較的に治安が安定していまして、バグダッドなどに行くよりは賢い選択だったと思います。ただやっぱり現場で取材していますと、当時日本で報道されていた内容と著しい違いを感じるところがありました。

 まず、当時かなり日本の自衛隊はサマワで歓迎されているみたいなことが言われていました。それは日本が行くことによってサマワ経済が良くなるんじゃないかという期待があったからです。サマワの人たちは日本企業が来るというふうに勘違いしていたらしいんで、どうもそこのところで齟齬が生まれていたようですね。「何そのセルフ・ディフェンス・フォースというのは」と聞かれたものですから、「ジャパニーズ・アーミーだよ」というと「エッ! 軍隊が来るの? そんなの聞いてないよ」と。このころすでにオランダ軍がサマワに入っていまして、対テロ掃討作戦なんかもやっていたんです。それで地元の威勢のいいグループと銃撃戦をやっていた。そういうこともあって、「軍隊が来るのか」と非常に驚かれたことを、よく覚えています。

 日本の報道の中であまり出て来なかったのは、サマワもかなり米軍の空爆でやられていたことです。製紙工場も学校も一般の住宅も爆撃された。私の案内をしてくれたのは地元のイラク人ですけれども、彼の家も米軍に空爆されまして、弟は瓦礫に埋もれて3日間苦しんで死んだ。そういった人がサマワにはけっこういまして、当然、米軍を憎んでいる。米軍と一緒にくっついてくる自衛隊に関しても、非常に複雑な思いを抱えていたわけです。

 当時よく自衛隊は給水活動をやっていると報道されました。しかしサマワで給水活動をする必要があったのかという疑問があります。サマワの中心部には川があるし、浄水場もあるんです。自衛隊がわざわざ日本から浄水設備を持っていっても、基地の中でできる浄水なんて、ほとんど自衛隊が使っているんですよ。なんかパフォーマンス臭いなと思ったわけです。日の丸のマークをつけた給水車がサマワ周辺の集落へ水を運んでいました。川から離れていて水がないと困るところは確かにありました。

 私は自衛隊が水を配っているというアル・ガルビエ村に行ってみました。「オレたちこんなの飲んでるんだぜ」と子供たちが見せてくれたのは、オイルかと思ったくらいの泥水です。「エエーッ、これ自衛隊が配ってる水じゃないよね」と聞いてみたら、「自衛隊の給水車なんて来ないよ」という。よく調べてみると、給水車の運転をしてるのは自衛隊員じゃないんです。イラク人のドライバーに任せている。ドライバーが水をどこかに売ったりとか、自分の住んでいる集落に持っていくとか、そういうことが多々あったわけです。自衛隊の宿営地の真ん前にある集落に行っても、なんで給水車がここに来ないんだと憤慨している人もおりました。

 学校修復の現場でも同じようなことがありました。自衛隊が直している学校があるというのでアルハシム村に行ってみたんですけど、自衛隊員はいないんです。働いているのはイラク人の労働者の方で、帽子にイラクの地図がありまして、イラクの国旗と日の丸が握手している。そういう帽子をかぶって学校修復をしているんです。ところが、必要な建材が届いていないんです。だから私たちが取材に入ると、必死に訴えてくるわけですね。鉄骨が全然足らないのに工事を進めているから、このままでは学校が崩れて子供たちが死ぬ、何とかしてほしいと言われるんです。自衛隊の通訳は悪い奴で、ちゃんと伝えてくれないというので、私はそのことを記事に書いて防衛省に送りました。

 この工事現場にも自衛隊は110分しか来ないんです。さっと来て「異常ないですか」みたいな感じでさっと帰っていく。要するにセキュリティの話なんですね。長いこと止まっていると現地の武装勢力が噂を聞きつけてやってくる。襲撃されるかもしれない。そういうことがあって現場に止まることがないわけです。ましてや現地で自衛隊の隊員が活動することはほとんどない。はっきり言うとプレス向きのパフォーマンスです。私はこの話を日本のテレビにいろいろ売り込んだんですけれども、なぜかその映像は使われませんでした。スクープでも何でもなくて、自衛隊の活動している地域に行けば自ずと分かる話なんですが。

 日本のメディアは何をやっていたかというと、宿営地のほうにいて、自衛隊のお弁当はどうだとかお風呂はどうだとか、そんなことを一生懸命報道していたわけです。セキュリティの問題があって、日本の新聞記者さんなんかも、あんまり外を出歩かないようにしていたわけです。確かに襲撃される恐れがなかったわけはないんです。実際私もサマワから取材に帰る途中で、ドライバーが真っ青な顔をして飛ばし始めたことがありました。「どうしたのか」と聞いてみたら「バックミラーを見てくれ」と言われて見ると、対戦車ロケットを抱えた武装勢力が追っかけてきていたんです。ハリウッド映画ばりのカーチェイスです。なんとか振り切って逃げたわけですけれども。

 日本の報道を見ていると牧歌的なサマワですが、意外と手強かったなというところはあります。私は直接対話が好きなものですから、街頭に出ていろいろ話を聞いてみたんですね。「FUJI」という、日本の外務省だか防衛省だかの広報紙が壁新聞みたいに貼ってあったんですが、破られているんです。なんで破いたのかと地元の人に聞いてみると、自衛隊は何をやる、かにをやるといろいろ言うけれど、実現したためしがない、だからこんなものはいらないということで破かれてしまった。さらに後で聞いた話では、このあと日の丸がバッテンされて、さらに黒く塗りつぶされた。

 このときも、最初は穏やかに話をしていたんですけど、だんだんみんなエキサイトしてきて、イラク人の通訳、色黒な彼が真っ青な顔をしはじめて、「レイ、もうそろそろ逃げたほうがいいぞ」と。私としてはまだインタビューを続けたかったんですけど、途中で話を打ち切って逃げざるを得なくなりました。本当に自衛隊は歓迎されているのかなあと私は疑問に思わざるを得なかったわけです。

 当時自衛隊のイラク派遣に反対しているグループがサマワにいたんです。いわゆるサドル派といわれる人たちで、この人たちは基本的に反政府で、自衛隊のイラク派遣に対しても非常に批判的でした。私は直接話をしたんですけれども、自衛隊の車両がサドル派の勢力圏に来て、いろいろ聞き込みをしていくのが非常に不快だと言ってました。

 当時は米軍やイギリス軍その他の多国籍軍が、執拗に家宅捜索をやっていたわけです、対テロ掃討作戦ということで。夜中にバーンと小型爆弾でドアごと吹き飛ばして突入してきて、家の中を全部ひっくり返して、ソファーを破いて中を調べたり、その間家の人は後ろ手に縛られて袋をかぶせられている。自衛隊はそこまでひどいことはしなかったわけですが、そういう米軍の荒っぽい家宅捜索の情報提供をしているんじゃないかと地元の人たちは思っていました。

 もう少し私は聞きたかったんですけど、例によって通訳の顔が真っ青になってきて、「逃げたほうがいいんじゃないですか」みたいなことになりました。周りの人たちがエキサイトし始めて、自衛隊を送った日本人はもう友達じゃない、敵だ、みたいな大騒ぎを始めたわけですが、みんなその場に銃を持っているんですよね。

 ファルージャというところにも行って来ました。ファルージャは2004年の4月に町ごと包囲されまして、米軍にものすごい攻撃を受けたわけです。無差別攻撃でたくさんの人が殺されました。当時は路上で動いているものは何であれ撃たれて殺されてしまう、すさまじい状況だったということで、中心部の建物は見事に崩れ去っていました。米軍のイラク占領が始まった2003年の4月以来ずっと、ファルージャ近辺では米軍と武装勢力の攻防がいろいろあって、その中に住民も巻き込まれたわけですね。

 サマワでは基本的に街中を歩いていても、そんなにものすごい身の危険を感じるほどではなかったんです。ところがバグダッド南部とかファルージャ、要するに米軍の掃討作戦が激しい地域では、ものすごく反米感情が強くなっていました。当然ですよね、テロと何の関係もない家がどんどん家宅捜索で目茶苦茶にされて、その家の男性はみんな連れ去られてアルグレイブ刑務所なんかに収容されて、その中で虐待されたり、殺されるケースもいっぱいあったわけですから。

 私は2004年の2月にファルージャに入って取材をしていたんですが、インタビューをしている最中に、向こうのほうにトランシーバーを持った人が見えたんです。瞬時に私はインタビューを打ち切って、通訳に「帰るぞ」と言って車に乗り込んだ。ところが運悪く交差点で止まってしまった。そうしたらカラシニコフ銃を持った10人ぐらいがワーッと走ってきて車を取り囲んで、「おまえは日本人か!」とすごい勢いで怒っているわけですね。「外国人は敵だ!」と。

 やっぱり自衛隊、軍隊を送ることはとくに反米感情の強い地域では、敵対行為なんです。それまで日本人というとイラクでは「オー、ヤバーニ!」とすごい歓迎されていたんです。日本人はすごいね、ヒロシマ、ナガサキもあったのにがんばって復興して、オレたちのヒーローだよ、みたいな感じだったんですが、それが様変わりした。反日感情と言ってもいいぐらいの強い感情があったわけです。

 私の通訳はファルージャで救援活動をやっていた人でした。家を失った人たちに食糧や物資を配ったりしていたんです。「ちょっと落ち着いてくれ、こいつはいいジャーナリストなんだ、 ファルージャでどんなに米軍がひどいことをやってるか伝えたいんだ」と説得してくれたので、私は拘束されないで済んだんですけれども。

 ファルージャには懲りずに何度か入って、ファルージャの武装勢力のボスにも会いました。アブドゥラ・アル=ジャナビ師という人で、米軍からけっこうな懸賞金をかけられていた人です。会ってみると意外と話の分かる方で、「日本人を敵視しているわけではない、ただ、軍隊を送ってきてわれわれに害をなすのであれば話は別だ」と言っていました。ちゃんと対話をすれば話は通じるというか、こっちの態度次第で、はじめから「おまえらテロリスト」みたいな感じでけんか腰で行くと、向こうもけんか腰になるんだなあということが分かった次第です。

 次は米軍の掃討作戦の様子です。バグダッド中心部で武装勢力と米軍が衝突しているという話を聞きまして、現場にかけつけたところ、従軍記者と勘違いされまして、一緒に行動する羽目になりました。私としてはけっこう迷惑な話で、写真を撮れるのはいいんですけれども、標的と一緒にいるようなものなんですよね。だから非常に怖かったのを覚えています。単独で取材しているぶんには、周りをよく見て気をつければ、ある程度は危険は回避できるわけですけれども。

 家宅捜査は、とにかく無差別です。とにかく家の男どもを全員引っ張り出して、収容所に放り込んで尋問する。容疑もなにもあったもんじゃないですよね。一家の主が子供たちの目の前で、屈辱的な恰好をさせられる。そういうことから考えれば、反米感情が生まれるのは当たり前の話なんですね。

 アメリカに「メタリカ」というヘビメタバンドがありまして、これが米軍に対してクレームをつきつけたんです。なぜかというと、米軍がメタリカの曲を大音響で流して収容所の囚人を苦しめたという。この話は日本のネットでも流れました。実際に経験した人の話によると、「ミュージック・パーティー」というそうです。縛り上げたうえでヘッドホンをかけて、強制的に何時間も、ものすごい大音響の音楽をかける。発狂しそうな感じになるそうです。ヘッドホンを取られた後も頭の中で音楽が鳴り響いていて、それが収まるまで何日もかかる、というようなことを米軍はやっていたわけです。

 しかも、テロにかかわった人たちがそういうことをやられていたわけではなくて、ごく普通のお父さんやお兄さんが連れ去られて、そういう拷問を受けたりします。電気ショックとかもありますし、殴る蹴るは当たり前ですね。裸にするのもよくみられたものです。私の通訳やその他、アルグレイブ刑務所の中に入っていた被害者の人たちに話を聞きました。そういうことを米軍は日常的にやっていたんですね。

 こういった米軍を一生懸命サポートしていたのが、じつは航空自衛隊なんです。「エアフォースリンク」という米空軍のサイトに、こういうニュースが出た。「ジャパニーズ・ミリタリー、キーメンバー・オブ・コアリション」。米軍を含む多国籍軍のなかでも自衛隊はキーとなるメンバーだという、大絶賛なんですね。当時、陸上自衛隊がサマワから撤退する一方で、それまでサマワ近辺までしか行っていなかった航空自衛隊が、バグダッドとか北の方のアルビルだとか、より前線に近いところまで活動範囲を広げた。そのことを絶賛しているわけなんです。

 これはどういうことか。名古屋の市民団体の方たちが情報開示要求を粘り強くやって分かったことです。航空自衛隊は復興のための物資や国連職員などを運んでいるんだと、当初国会でも説明されていました。ところが輸送人員を全部見てみると、米陸軍、米空軍、米軍属、ほとんど米軍です。さらにオーストラリア軍、その他多国籍軍、合わせて70パーセントぐらいです。あと陸上自衛隊、空自、統幕、日本政府関係者。国連関係は6パーセントしかいない。これはもう詐欺です。輸送人員もそうなんですけども、輸送物資もほとんどが米軍と自衛隊なんですね。

 問題はこの人たちが武装していることです。航空自衛隊が運んだ米軍兵士たちが何をやっていたかというと、掃討作戦をバグダッドやイラク西部、中北部のあたりでやっていたわけですね。自衛隊が運んだ兵士が復興事業だけにかかわったとか、そういう話ではまったくないんです。

 私は防衛省にいろいろ電話で聞いてみたんですけれども、「いや、テロ対策も復興のうちですから」と、統幕の広報がペロッととんでもないことを言ってくれたんですね。本音を吐いてくれてありがとうございます、っていう感じなんですけれども。いろいろ驚くことがいっぱいありました。

 私が通訳を頼んだひとり、仮に「マルワン」としておきましょうか、そのマルワンは家族が米軍に殺されましたので、自衛隊のイラク派遣、駐留に関しても批判的でした。ところが、そのことが彼に予想だにしないような危険をもたらすことになります。ある日彼はイラク警察に連れて行かれまして、そこで尋問を受けます。「お前はなんで自衛隊のイラク駐留に反対するのだ」ということで。いっときは首元にナイフをつきつけられて殺されそうになったんですけれども、イラク警察に知り合いがいたので、その場はなんとかなりました。ところが解放されてから家に帰ると、イラク政府シンパの武装民兵グループ、バドル団が家を取り囲んでいた。彼が出て来たら撃ち殺してやろうと包囲しているわけです。そこでマルワンは民兵グループが交替する一瞬の隙を見て、パスポートだとかお金とか、最低限のものをつかんで、そのまま国外に逃げました。

 それ以来マルワン8年間、イラクに帰れないでいます。彼はイラクの情報機関にいる友人からいろいろ情報収集もしているのですけれども、帰ったとたんに拘束される、たぶん殺されるだろう、だからイラクに帰れないと言っています。気の毒な話なのですけど、彼には16年間つきあった許嫁がいたんですね。結婚したいけど、いまは家族が大変だからもうちょっと待ってくれと言っているうちに、サマワで政府系民兵グループに目をつけられて国外に逃げた。その後、許嫁は子宮がんにかかって子宮を摘出したんですね。私はもう子供が産めない身だからと非常にその許嫁も落ち込んでいたわけなんですけど、会いに行くこともできない。結局、マルワンは許嫁や家族と連絡を絶ってしまいました。「あの子はもう死んだ」と言われるのがとても怖い、だから連絡していないということです。

 自衛隊のイラク派遣によって人生を狂わされたイラク人もいるという話です。自衛隊のイラク派遣に反対することは、イラク人にとってとても危険なことだったわけです。何人かにインタビューしましたけれども、人の目のあるところでは自衛隊批判は、とくに初期にはあまりしなかったわけですね。下手に批判すると 自分や自分の家族に害があるかもしれない。そういった中で「自衛隊のみなさん、ウェルカム」みたいなことを言っている人たちだけが日本のメディアに出て来た。

 結局、自衛隊のイラク派遣って何だったんだろうと思うわけです。陸上自衛隊はほとんど基地に引き籠もり状態でした。莫大な経費がかかったのですが、仕事はイラク人に任せきりで、現場監督すらしていなかったんです。

 イラクから帰って来た自衛隊の人に聞いた話ですけども、緊張が続いたため精神を病んだ人もいるということです。確かにイラク帰りの自殺率は自衛隊の中でも異常に髙いんですね。そのへんのことはもうちょっと今後、調べていけたらいいなと思っています。

 だんだん口を開いて話をしてくれる人も出てきました。たとえばこの前取材したのは、元空自隊員の池田頼将さんという方で、彼はクウェートの基地でマラソンのイベントがあったときに、米軍のロジスティックをやっている民間企業のバスにはねられて、大けがをした。ところがろくに治療も受けられず、結局後遺症が残って、いま国に対して賠償を請求する裁判をやっています。

 彼がバスにはねられたのは、ちょうど「キーメンバー・オブ・コアリション」の時、航空自衛隊がまさに活動範囲を広げようとする矢先の話だったんですね。このときは日本政府も米軍も非常に神経を使っていた。本当はこれは集団的自衛権 にひっかかるもので、実際に名古屋高裁でそういう判決が出ていますけれども。戦争で大事なのはロジスティックスつまり兵站ですから、戦術の基本はその補給路を断つことです。それぐらい戦争において人員や物資の輸送は大切なわけです。池田さんがろくに治療も受けられず、日本に帰ることも許されず、日本に帰ったら帰ったで口封じさせられていたというのは、やっぱり自衛隊の活動範囲を広げるために障害となるものは隠蔽するということだったんじゃないかと思います。

 池田さんも自衛隊イラク派遣で人生を狂わされた人ですね。アゴが開かなくなったために、流動食だけで生きているんです。左半身にものすごい痛みを感じて、近所に買い物に行くのもひと苦労。右手はブルブル震えて、自分の名前すら書けない。そんな状態ですから、結婚されてお子さんもいたんですけれども、まともに働けなくなってしまって、離婚してしまった。以前は野球観戦が趣味だったんですけど、もう一日中家の中に閉じこもっている。そういう池田さんに対して国からの支援は何もない。聞けば聞くほどひどい話で、国会で問題にされていいケースじゃないかと思うんですが、メディアは記者会見にちょろっと来て話を聞くだけなんですね。

 そういうわけで、まだまだ日本人が知らない自衛隊イラク派遣の実態というものがあると思います。派遣から10年が経とうとしているわけなんですけれども、今からでも遅くないです、やっぱり自衛隊イラク派遣の中身を検証していく必要があるんじゃないかと思います。

志葉 玲(しば れい) フリーランスジャーナリスト、イラク戦争の検証を求めるネットワーク事務局長。1975年東京生まれ。著書『たたかう! ジャーナリスト宣言 ボクの観た本当の戦争』社会批評社、2007年。ブログhttp://reishiva.exblog.jp/

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