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「平権懇」☆関係書籍☆残部僅少☆

  • ●大内要三(窓社・2010年): 『日米安保を読み解く 東アジアの平和のために考えるべきこと』
  • ●小林秀之・西沢優(日本評論社・1999刊): 『超明快訳で読み解く日米新ガイドライン』
  • ●(昭和出版・1989刊): 『釣船轟沈 検証・潜水艦「なだしお」衝突事件』
  • ●西沢優(港の人・2005刊・5000円+税): 『派兵国家への道』
  • ●大内要三(窓社・2006刊・2000円+税): 『一日五厘の学校再建物語 御宿小学校の誇り』
  • ●松尾高志(日本評論社・2008刊・2700円+税): 『同盟変革 日米軍事体制の近未来』
  • ●西沢優・松尾高志・大内要三(日本評論社・2003刊・1900円+税): 『軍の論理と有事法制』

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2014/01/16

榎本信行さんを偲んで ①

榎本信行さんを偲んで 

横田基地問題の歴史と課題

中杉喜代司

横田基地の概要と歴史

横田基地についてお話をして、その中で榎本先生と訴訟との関わりについても触れたいと思います。

 横田基地は東京都福生市・立川市・武蔵村山市・羽村市・瑞穂町にまたがっていますが、昭島市にもミドルマーカー(滑走路端から1マイルの位置を示す無線標識)跡があります。東西約2.9キロ、南北4.5キロ、総面積7136413平方キロという大きなものです。滑走路はオーバーランを含めると3955メートル。

 ここに在日米軍司令部・第5空軍司令部がありますが、横田基地を管理しているのは第374空輸航空団です。基地内にはあらゆる設備が整っていると言っても過言ではないほど、いろいろな施設があります。幼稚園から大学まである。ここは前線基地に対していわば兵站基地ですので、家族もハウジング・エリアで一緒に暮らしています。それらを書き込んだ「横田基地フィールドマップ」は、基地見学のために東京平和委員会の人たちと一緒に作ったものです。

 在日米軍司令部といっても、空軍・陸軍・海軍・海兵隊はそれぞれの指揮に従うもので、在日米軍司令部がすべてを指揮しながら戦闘行為を行う形にはなっていないようです。ただ全体を統合して日本との調整をするという意味合いがあるということです。

 駐在する部隊のうちケニー司令部ジャパンというのは、ハワイのヒッカム基地にある第13空軍司令部の第1分遣隊、50名です。平時には活躍しないんですが、いざという時はこの13空軍がすべてを統括すると聞いています。

 2010年に航空自衛隊の航空総隊司令部が横田基地に移駐しました。これに伴って航空総隊防空指揮軍が付いています。米第5空軍と自衛隊の航空総隊司令部が同居するわけですから、それをどう調整するかという意味での、日米共同統合運用調整所とミサイル防衛共同指揮所も横田基地にあります。まさに日本における米軍の司令基地であり、中枢基地であるということです。

 どういう飛行機がいるかということですが、横田基地は374空輸航空団が管理している輸送中継基地ですね、基本的には。ですから常駐機の中心はC-130Eハーキュリーズ輸送機、14機あるのではないかと思います。これは4発のプロペラ機で、もう何十年にもわたって米軍の近距離輸送の主力です。イラクに行った自衛隊も使っておりました。もうひとつはC12Jヒューロンこれは双発のプロペラ機で人を運ぶ飛行機、これは3機です。それからUH-1Nというヘリコプターが4機。

これらが常駐機ですが飛来機のほうは、C-5ギャラクシー、これは有名な世界最大の輸送機ですが、今でも横田に来ております。C-17Aグローブマスターも大型輸送機として頻繁に来ています。主に米本土と横田の間を飛んでいます。KC-10エクステンダーとKC-135ストラトタンカーは空中給油機です。E-3CセントリーとE-767はお椀のようなレーダーを積んでいる司令機です。戦闘機や艦載機もときどき飛来します。

横田基地の歴史ですが、最初は19404月に旧日本陸軍立川飛行場の付属施設、多摩陸軍飛行場として作られました。今よりもはるかに小さい314万平方キロで、今の姿は19459月に米軍が接収して以後、どんどん拡張された結果です。朝鮮戦争の時はB29爆撃機の出撃基地として使われた。いちばん騒音が激しかったのは1970年代、ベトナム戦争の時代です。この時は兵站基地であり、輸送基地であり、訓練基地だった。C-9ナイチンゲールという飛行機が、さかんにベトナムから負傷兵や遺体を運んだそうです。基地に勤務する人たちに、負傷兵の手当てをしたり遺体を洗ったりしたという話をよく聞かされました。

197211月に「横田基地爆音をなくす会」が福生・昭島の60名で結成、と記録されていますが、別の本ではもっと多い人数です。榎本信行・岩崎修・盛岡暉道の3人の先生(我々は横田基地問題に命をかけたということで尊敬の意味を込めて「A級戦犯」と呼んでいます)が、訴訟を始めたということです。10月にその榎本先生が亡くなって、11月に岩崎先生が亡くなりました。

盛岡先生は新訴訟の時、後でも触れますが、「危険への接近」を裁判所で名指しで言われた人です。弁護団で盛岡先生の陳述書を作りました。その陳述書に当時のことが書かれています。さわりを読みますと、

「弁護士として歩き始めた71年の秋、三多摩法律事務所に昭島堀向地区の住民から、大阪空港裁判のように横田基地でも国に対して裁判を起こしたいという相談が寄せられ、他の2名の弁護士とともに私もこの件を担当することになりました。まず現場に足を運ぼうということで行ったところ、頭上を襲う米軍ジェットの猛烈な爆音は私の予想をはるかに超えていました。また、この爆音のため800戸のうち500戸の住宅と商店が集団移転させられていました。土台だけを残した建物の残骸が延々と続く中、移転に応じていない78軒の家がポツンポツンと取り残される光景は、まるで焼け跡のようでした。」

 これは堀向という地区の話なんですが、都営住宅が800戸、並んでいたんです。それが全部移転させられてしまった。堀向銀座商店街には医院が5軒もありました。今はまったくありません。拝島温泉という銭湯もありましたが、ジェット機の衝撃波でガラスが割れて、入浴中の女性が怪我をしたという曰く付きの所です。銀杏並木に曳光弾が落下して木が折れたこともありました。

「私たちは人たちと話し合いを繰り返し、72年の3月に横田基地裁判準備会を作りました。私はこの準備会の一員として大阪空港訴訟弁護団と交流するため、川西市と豊中市を訪問した」と陳述書には書いてあります。「横田基地周辺住民が置かれている状況を法律家仲間に広く伝え、同年4月と5月の2回にわたり、延べ50人の弁護士に現地に入ってもらって、基地周辺住宅約200戸を訪問し、被害の聞き取り調査を実施しました。日中の訪問調査を終えた弁護士たちは集会所などに集まって調査の結果を報告し合い、現状分析とこれからの方向性について討議を深めました。その結果、住民の被害感はきわめて大きいものの、騒音と闘う住民同士の姿勢と結束が必ずしも十分でないことが分かってきました。まずは住民同士の結束をはかる強固な運動体を作り、横田基地や防衛庁との交渉から始めるべきとの結論が、討議を通じて導かれました。」

このようにして197211月に「爆音をなくす会」が結成されました。盛岡先生の話だと150世帯ということですが、先ほどの数字とどちらが正しいのか、私には分かりません。いきなり訴訟をやるというのでは駄目だ、住民同士の運動から開始しようということだったようです。盛岡先生は立川に住んでおられたんですが、横田の玉川上水のすぐ南側に転居されました。榎本・盛岡・岩崎、この3人が中心になって横田基地訴訟が始まったということです。

私の印象で言うと、べらんめえ調でバンバン物を言う岩崎先生と、包容力があって方向性を指し示す榎本先生、なにしろ地道で人がやりたがらないことをコツコツとたる盛岡先生、この3人がよく揃ったと思いますが、同い年なんですね。

このようにして横田基地訴訟をやっていくわけですが、実際に訴訟が提起されるまでに、197411月に米軍の関東計画に基づいて第5空軍司令部・在日米軍司令部が府中から横田に移る。司令基地・中継輸送基地・訓練基地になっていきます。横谷米軍施設が集中する中、1976年に横田基地訴訟が提起されます。

 横田基地の飛行状況

 実際にどんな騒音がどのくらいあるのかということですが、拝島第二小学校というのは滑走路の南の延長線上にある学校です。私は米国には新訴訟の時に3度ほど行ったんですが、その時の説明に使った写真に、女の子がC-130の影の中にいる写真があります。拝島第二小学校の運動場です。それだけ飛行機が低く飛ぶところに学校がある。ここでの1993年から2012年までの爆音の推移を見ますと、1日平均が1993年に44.1回だったのが、2012年には19.8回、かなり低減されてきています。

同じ場所でのW値は最高が1995年で902012年には80でした。W値(WECPLN)は「うるささ指数」と通常呼んでいるですが、単なる騒音の大きさではなくて、被害感とどうマッチするかで編み出されたICAO(国際民間航空機関)という国際組織で採用されたものですが、日本と韓国ぐらいでしか使われていません。世界ではLeq(等価騒音レベル)、エネルギーで測る方法が採用されていまして、今年から環境省の環境基準もこちらで、エルデン(Lden)という方式に変わっています。

これまではW値でしたが、これがだんだん低減する中で、夜間の飛行回数がきわめて少なくなってきています。月平均で1993年に20.6回だったのが2010年には3.6回、2011年が6.8と増えたのは東日本大震災の対処で出て行く飛行機、原発事故から避難する家族のためです。

コンター図(等値線図)は地域指定図ですが、防音工事のために防衛省が告示しているものです。W75の地域を指定しています。以前はもっと外側まで地域指定をしていたんですが、2005年の見直しでだいぶ狭まりました。それだけ騒音が低くなったのかもしれないですが、今までは無償での住宅の防音工事が認められていたものが認められなくなりました。住民の意識的には、そんなに下がったとは思えないということです。訴訟は旧訴訟と新訴訟、第2次新訴訟と3つあります。新訴訟の途中で国が2005年の告示をしたために、原告のうちで負ける人が出て来ました。

これが今の騒音状況ですが、実際には飛行機は風上に向かって飛びますので、冬はだいたい南から北に向かって降りて北に向かって飛び上がる、北風ですから。夏は逆に南風なので南に向かって降りる。旋回訓練もやりますので、騒音は単純に滑走路の南北だけではありません。旋回訓練はどちらかというと西側に旋回することが多いです。

 横田基地公害訴訟の歴史

 横田基地訴訟は、最初は正確には「横田基地公害訴訟」といって、「騒音」は付けていません。1976年に41名で提訴しました。世帯主だけです。第2次が翌年に112名、これも世帯主です。1982年には第3次訴訟、599名でやりました。

全国の基地騒音郊外訴訟の判例を一覧にしたものを私がまとめましたが、横田が最初に判決を受けています(東京地裁八王子支部)。1次訴訟と2次訴訟が併合されまして12次訴訟といいますが、81713日に第1審判決を受けました。差止請求は却下、損害賠償についてはW値によって月1000円から5000円までです。控訴審判決は87715日(東京高裁)、損害賠償が2500円から15000円まで、かなり増えた。これは武藤さんという研修所の教官として有名な方が裁判長です。89315日に第3次訴訟の1審判決。93225日に12次訴訟の上告審判決で上告棄却。基本的には差止は却下、損害賠償は一部を認め、将来請求については却下です。ただ法的なことを言うと、最高裁では却下と言わずに棄却と言っています。主張自体が失当だということで棄却にしています。

1審では飛行差止については統治行為論とか、義務付け訴訟とか、いろんなことを言ってきたんですが、93年の最高裁では安保条約6条、地位協定31項で、施設・区域(基地)管理権は米軍に委ねているから、国にはそれを規制する権限がないと。権利がない者に止めろと言うことは主張自体が失当だというのが、差止を認めなかった理由です。

損害賠償については「受忍限度論」を採っています。さまざまな要素の中で受忍限度、簡単に言えば我慢できるかできないか、我慢できないほどひどいなら金をやろうか、という発想です。裁判所に対して丸投げだといろいろ批判もありますけれども、今は受忍限度論で統一されています。

この受忍限度についてはその判断要素としてどういうものが挙げられるのかということですが、横田ではおおむね5つです。①侵害行為、音の大きさとか頻度、まさにどんなにひどい騒音なのかということです。②被害、それによってどんな被害があったか。この①②は主に原告側が主張するものです。

③以下は主に国の方で主張するものです。③公共性、基地は公共性が高いのだから我慢しなさいという理屈です。新幹線とゲームセンターでは公共性が違う、新幹線が多少うるさくても仕方がない、という言い方です。④危険への接近、「危険に接近した者が、その存在を認識しながらあえてそれによる被害を認容していたときは、事情の如何により加害者の免責を認める場合がないとはいえない」、免責まで行かなくても損害賠償の一部を減額すべきだ、という考え方です。うるさいのが分かっていて寄ってきたんだからしょうがないでしょう、我慢しなさい、ということです。⑤周辺対策、防音のためどれだけ国が努力したか。国が一生懸命やっているなら多少の我慢は仕方がないということです。

この被害のところで特徴的なのは、共通被害という考え方です。本来なら全部の原告がひとつひとつ自分の被害を立証していかなければいけないわけですが、新訴訟は6000人ですから、それをやっていたらみな死に絶えてしまうので、そんなことをする必要はない。共通する最低限の被害が受忍限度を超えるかどうかということでいい。3軒並んでいれば、両隣の人が陳述書で被害を述べていれば中の人は出さなくてもいい。騒音は均一的に来るわけですから、一人一人が立証する必要はないというのが共通被害です。

共通被害についてはちょっと分かりにくいですが、裁判所でも、育児の苦労はお母さんだけでしょうとか、療養は病気の人だけでしょう、ペットが怖がるというのは飼っている人だけでしょう、共通ではないのではないか、という判決もありました。難聴・耳鳴りについては大阪空港の控訴審判決で最高裁も認めているわけですが、難聴・耳鳴りの危険性可能性、発生するかもしれない環境にいることが被害なのだと判断しています。

これは私自身の考え方なんですが、テレビが見えない、電話が聞こえない、こういう被害はどの裁判所でも認めるんですが、テレビのない家だってあるわけです。すると共通ではないではないかと。そうするとすべて共通でないから被害はないという話になる。これは慰謝料請求なので、共通するのは個々の飛行騒音によって現れた状態ではなくて、それによってテレビが見えなくてイライラする、勉強が妨害される、そういう精神的苦痛が積もっていくと、最大公約数でこのくらいの苦痛がある。それが共通だと考えれば、育児だって共通被害で構わない、病気療養も共通被害で構わないし、ペットだってそうだと。そのように私は考えています。はっきりそう言っている判決はないんですが、横田の新訴訟の控訴審はそういう考え方を採っているんではないかと思います。

これまでに提起した訴訟ですが、先にお話ししたように3次の旧訴訟をやりました。12次訴訟は併合になって最高裁まで行った。3次訴訟は高裁で終わった。新たな1万人訴訟を起こそうということで1996年から3次にわたって新訴訟を提訴したんですが、残念ながら5921名ですか、6000名に若干足りないところで終わったんですが。これが日本各地の基地騒音で大型訴訟を起こす走りになりました。今度は1万人と方向付けたのは榎本先生です。次は大型訴訟をやると。

旧訴訟と新訴訟のどこが違うかというと、新訴訟は対米訴訟、米国も相手にした訴訟をやりました。これは旧訴訟が規制権限のない国に対して差止を請求しても、権限がないからできないというので、それなら本人に請求しようと、差止だけ米国を相手にしました。これも榎本先生が提唱されたと思います。

榎本先生は新訴訟で弁護団長になりました。旧訴訟では森川金寿先生が団長です。私は旧訴訟の最後のところで事務局長をさせていただきました。

新訴訟は3次まで併合されて、対米訴訟は審理されずに却下されました。そして今年、第2次新訴訟を起こしています。2回にわたって提訴して、いま1078です。これは米国を相手にしないで国だけが相手です。ただ先ほどお話ししたように2005年の騒音地域指定図見直しで負けてしまった人たちがいるのでその代表選手のような形で、W75の騒音地域を外れた5名の方も参加しています。また差止時間も前は夜の9時から翌朝7時までとしていたのを、家族の団らんの時間を含めて、7時から7時までの請求にしました。

対国訴訟の特徴

そこでまた受忍限度の判断要素に戻ります。

公共性の問題ですが、これが旧訴訟の最大の論点でした。我々は「軍事公共性至高論」と呼んでいるんですが、端的に言えば国側は「誰のおかげで平和に暮らせるのか、人権などというものは平和だからこそ謳歌できる。そういう意味で、横田基地は何物にも代えがたい公共性の高いものだ」という主張を盛んにしました。

全国の基地騒音公害訴訟の判決を順に並べてみますと、まず横田第1審、次が厚木第1審、次が厚木が横田を抜いて控訴審判決です。ある意味では意図的に抜いていただいた。このときは中曾根政権です。厚木は横須賀の空母ミッドウェーの訓練基地ですからものすごく飛んでいて、国会でも問題になった。これだけ飛べばひょっとすると差止に手が届くのではないかという思いもありまして、まず厚木で高裁判決を取って横田が続く、というふうに思っていたんですが、実はここで損害賠償も負けてしまった。棄却、受忍限度を超える被害はないと。その大きな原因として言われたのが軍事公共性です。我々としてもまったく予定が狂いました。榎本先生たちも焦られたと思います。

それで、何としても軍事の専門家に軍事公共性の問題で証人として立ってほしいと、次々と申請しました。林茂夫さんは出しました、藤井治夫さんは出したかどうか。次々と却下なんですね。その必要はありません、と。誰が見つけてきたのか分かりません、榎本先生が尋問されましたが、前田寿夫さん、当時は茨城大学の先生をされていたと思うんですが、元防衛研修所研究部第1研究室長が証人として採用になったのですね。

「国防というのは非常に沙枚意味と広い意味に使われまして、軍事力だけで国を守るという国防を狭義の国防というふうに申します。……国を守る上には単に軍事力だけではなくて外交、それから経済、あるいは社会、あるいは技術といったものも考慮しなければならない。」

「(国防なくして人権もない、国を守ってくれる兵隊さんがいなくて何が自由だと。国、あるいは国民の幸せの価値の根源は国防だという考え)は、もちろん偏った考えです。戦前から戦争中にかけてそういう考え方が通用しておったわけであります。」

 こういうふうに証言していただいています。私も非常に意外に思ったのですが、これは軍事の専門家からすると至極まっとうな普通の考え方のようですね。中曾根首相・石橋誠嗣社会党書記長の間で「丸腰でどうする」という論争がさんざんやられたことがあるんですが、前田先生から私も何度もお話しをうかがいました。先生は元防衛研究所の方ですから、軍備が必要でないとは言われません。でも、軍事は下の下だと。まずは外交・文化・貿易、それで互いの関係を深めていくことが平和への道なのだと。最低限に守れる態勢を備えておけばいい。もうひとつは、日本は海に囲まれているから防衛には非常に有利なんだと。ソ連のミサイルが海を越えて来るではないですか、と言ったら、戦争の目的は占領、壊しただけで占領しなければ何の意味もない、海があることはものすごく大きな防衛力なんだ、と言っておられました。

 前田先生の証言の結果が、控訴審判決です。「国防は行政の一部門であるから、千字の場合は別として、平時における国防の荷う役割は、他の行政各部門である外交、経済、運輸、教育、法務、治安等の荷う役割と特に逕庭はないのであり、国防のみが独り他の諸部門よりも優越的な公共性を有し、重視されるべきものと解することは憲法全体の精神に照らし許されないところである。」

 これは榎本先生にとっても我々にとっても、ものすごくうれしい判決でした。榎本先生は大学院学生のころ砂川事件にかかわったとうかがっていますが、砂川から恵庭、長沼、百里と憲法9条で裁判をして、榎本先生には憲法9条に強い思いがあったと思います。しかし横田基地訴訟では憲法を一言も主張していない。ところが判決で憲法を言わせたので、非常にうれしかったのではないかと思います。

 横田の旧訴訟はこうして公共性の論争で控訴審で勝ったと思っていますが、これが全国の基地訴訟に基本的には引き継がれている。これ以降、損害賠償で負けた事件はありません。一部的に負けたことはありますけれども、全面的に損害賠償が認められなかった訴訟はありません。

 新訴訟になっていちばん激しく闘われたのが「危険への接近」です。これについては「横田が先頭に立って」と言いたいところですが、嘉手納訴訟が最初に認めさせないことになりました。沖縄ですから、危険に接近するなと言ってもどこに住めばいいんですか、どこに行っても基地だらけではないですかと。それから各地に広がってきて、最後に横田が勝ちました。

危険への接近では大阪でも2名ですか、負けてしまったところがあるんですが、横田では新訴訟の1審でもっとも悪い判決を食らって、1銭も認められなかった、あるいは減額された人がかなり出ました。控訴審では危険への接近で減額すべきでないと判決されました。盛岡先生は訴訟をやるために昭島に移住したので、旧訴訟では原告でなかったけれども新訴訟で原告になった。高裁の裁判官は、「危険への接近は認めるべきでないと思っているが、ただ一人問題の人がいる」と。知らなかったとは言わせないということです。控訴審判決には盛岡先生一人についての記述が1頁以上あります。

対米訴訟の特徴

対米訴訟については、1996年の米大使館口上書というものがあります。

日本の裁判所が外国政府に対して裁判権があるのかという問題ですが、これについは1928年の大審院決定で、領土の問題はともかくとして、無いんだと、外国政府に対してはできないということになっています。横田ではこれに風穴を開けることができて、外国政府に対しても基本的には裁判権が及ぶと。ただし最高裁は主権的行為については及ばないと言って、米軍の軍事訓練なり軍事行動はまさに米国の主権的行為だから、そこについては及ばないと。そういう意味では、イラク戦争では誤爆などで大勢の人が亡くなったから、米国政府に対して損害賠償請求ができるかといえば、戦争は主権的行為だから認められないことになります。そういうわけで対米訴訟は結局、認められなかったということです。

口上書は、「大使館は、米国が本事件で日本の裁判権に従わないことを決定しただけでなく、訴状等訴訟書類の送達も拒否することを回答する。」と全否定です。

新訴訟では差止請求を米国に対して訴えたわけですね。ところがこの口上書を見ると、訴えてもいない損害賠償についても言っています。「日本の裁判所が最終的に原告の金銭請求を認容した場合、日本政府のみが責任を負うものであること」と。

米軍の行為によって不法行為があった場合の損害賠償は、地位協定で4分の3は米国が払う約束になっていますが、今だに騒音訴訟について米国はいっさい日本政府に対して求償に応じていない。外務省に行くたびにどうなっているかを聞いていますが、いつまで経っても「協議中です」という答えです。

横田基地訴訟の成果

駆け足になりましたが、最後に横田訴訟の主な成果です。

まず日米合同委員会合意があります。「22時から6時までの間の時間における飛行および地上における活動は、米軍の運用上の必要性に鑑み緊急と認められるものに制限される」と、19931117日に合意されています。

これに関連して「横田基地公害第3次訴訟の和解提示にあたっての当裁判所の見解」という文書があります。3次訴訟では10ヶ月にわたって和解協議をしました。これは横田訴訟で唯一の和解協議で、当時私は事務局長をしていましたから当事者なんですが。ここで国が和解案を出せないまま原告の和解案に対して、裁判所が1993118日に出した和解案です。なかなかいい和解案で前文も付けて、国としては被害を軽減する責務があると明確に述べています。ここまで言うなら差止を認めてくれても良かったのにとの思いもありますが。

118日に高裁の和解案が出て、9日後に日米合同委員会の合意があった。和解案を意識したのは当然です。裁判所案では「午後10時から午前7時まで」、国として騒音が少なくなるよう努力せよと、止めろと言えばできないと言うから、努力という和解案を出した。すると10時から6時まで原則として飛行制限をするという日米合意ができました。あと1時間の努力についていろいろやったのですが。

この時に榎本先生は、私が裁判所に行く時に必ず付いてきて下さった。国は観測気球みたいなのを新聞記者に出しますが、そのたびに裁判所に行って回答があったのかと、裁判所に回答せずに発表するのはけしからんと言って帰ることを何度もやりました。細川政権の時でしたか、厚木の弁護団員でもあった千葉景子さん(参議院議員・社会党)にお願いしたりして、羽田外務大臣にも会わせてもらいました。けっこう盛り上げたのですけれど、最後のところで国と住民との間の協議会を作る合意までには至らなかったということがあります。

他の成果としては、夜間着艦訓練、これは空母ミッドウェーとかジョージ・ワシントン艦載機の訓練ですが、厚木や横田でやっていたのを今ではかなりの部分を硫黄島でやっています。英霊の上空をうるさくしてけしからんという話もありますが。

それから、差止は認められていないけれども、実質的に飛行回数は少なくなってきています。

損害賠償を認めさせ、6000名近い大訴訟につなげることができました。

旧訴訟では国の軍事公共性至高論を排斥できました。

危険への接近の主張を退けました。

将来請求についてはここでは説明をしませんでしたが、それまで全部却下だったのを新訴訟の控訴審では1年間だけですが認めさせて、ちょっとした風穴を開けました。上告されて覆されましたが、32という1票差でした。

何よりも、嘉手納などとくにそうだと思うのですが、辺野古に行かずに嘉手納にヘリを持ってきてもいいと思うんですけども、基地のキャパシティからいえば十分できますが、それを許さないのは住民の騒音訴訟です。

以上、雑駁ですが報告を終わります。

(本報告は20131211日、平権懇例会で行われたものです)

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