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「平権懇」☆関係書籍☆残部僅少☆

  • ●大内要三(窓社・2010年): 『日米安保を読み解く 東アジアの平和のために考えるべきこと』
  • ●小林秀之・西沢優(日本評論社・1999刊): 『超明快訳で読み解く日米新ガイドライン』
  • ●(昭和出版・1989刊): 『釣船轟沈 検証・潜水艦「なだしお」衝突事件』
  • ●西沢優(港の人・2005刊・5000円+税): 『派兵国家への道』
  • ●大内要三(窓社・2006刊・2000円+税): 『一日五厘の学校再建物語 御宿小学校の誇り』
  • ●松尾高志(日本評論社・2008刊・2700円+税): 『同盟変革 日米軍事体制の近未来』
  • ●西沢優・松尾高志・大内要三(日本評論社・2003刊・1900円+税): 『軍の論理と有事法制』

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2014/01/16

榎本さんを偲んで②

榎本さんを偲んで②

1211日の平権懇例会では、中杉さんの「横田基地問題の歴史と課題」についての報告の後、ご出席の浦田賢治・内藤功両先生からコメントをいただき、のち限られた時間で若干の討論を行った。

「基地弁」の雄にして「町弁」を自称した:榎本弁護士を偲ぶ言葉

浦田賢治(早稲田大学名誉教授、元平権懇代表)

 榎本君とは60年近いつきあいです。私が申し上げたいことのひとつは、榎本弁護士の業績をもう1冊の本にすることをご検討いただきたいということです。すでに1993年、日本評論社から彼の本が出ております。『軍隊と住民』というタイトルでして、副題が「立川・横田基地裁判を中心に」です。この書物については私も『法学セミナー』に書評を書いたことがあります。1993年以降20年ほど経っておりまして、その間の仕事があり、諸文献も業績として蓄積されていると思います。整理されているかどうかは分かりませんが、これがひとつです。

 もうひとつ、思い出を語りますと、榎本君とは水のごとき付き合い(「荘子」山木篇)で、お互いに君子と自覚したわけではないけれども、私生活のことについて立ち入ったことはありませんでした。しかし榎本君とは学部(早稲田大学法学部)の早い時期に、お互いにドイツ語の読書会でラードブルフ『法学入門』などを読んでおりました。彼は大学院に進みまして、志向としては研究者あるいは学者になりたかったのではないかと思っています。少なくとも私生活では学究的な営みをしていたのではなかろうかと思います。

たまたま榎本君の息子さん、弘行さんが大学院生になりまして、修士課程を終えてさらにドクターコースに進まれて、現在は東京農工大学の教員をしております。彼もまた父の暮らしぶりを語りまして、「学究的な志向を持っていた」と語ってくれたことがあります。というわけで、私としては彼がやりたかったけれどもやれなかったことを、これからもやって責をふさぎたいと思います。

 3つ目としてあえて指摘すると、これは公的な側面を持った関わり方です。と申しますのは、ここにいらしている内藤先生から初めてに恵庭訴訟についてのレクチャーを受けたのが大学院生の頃でして、次は百里、長沼というふうに進みますが、それに先立つ砂川事件判決の時が大学院の1年生の頃でして、鵜飼信成先生の憲法研究の授業に出ました。その時に砂川事件最高裁判決が出まして、判例検討の2回を砂川事件判決の検討に充てられました。そこでいま思いだしますと、榎本君はその時すでに砂川裁判に実質的に関わっていたことが良く分かります。

 この後私は、百里訴訟で鑑定書を出すように求められて、教授になってから証言をいたしました。その時に恵庭事件や長沼訴訟で主張された平和的生存権を受け止めて、水戸地裁で私なりの主張をいたしました。主張しましたけれども1審では認められない。また他方、長沼訴訟の控訴審判決で平和的生存権が退けられるということがありました。この頃すでに榎本君は横田基地訴訟に取り組んでいまして、僕がやっている平和的生存権というのは「役に立たない」と、僕に面と向かって言いました。「俺は憲法論はやらない、公害裁判をやるんだ」と言って、きわめて意気軒昂でしたね。

 その頃僕は初めて榎本君と、居酒屋で夜遅くまで付き合ったことがあります。すると彼はちゃんと旅館を予約しているんですよ。私は所沢に家があるので、遅くまで酒を飲んだせいで家に帰るのに苦労しました。

 それはともかくとして、その後彼が横田旧訴訟の第2次あるいは第3次の訴訟をする中で、彼から頼まれて横田基地訴訟を支援する会の学校の手伝いをやりました。組織された大衆集会の実行委員長を務めるということもありました。横田は基地公害訴訟として進むことになりますが、軍事公共性論のことでは私にも意見を求めました。控訴審判決が出た時にも呼ばれて成果を報告したことがあります。

 けれどものちに、嘉手納基地訴訟の書面を見ますと、平和的生存権論では僕のだけが引用されているんですね。僕の平和的生存権論も復活させられたという思いがいたしました。そもそも板付基地訴訟をはじめとする判例批判論文を書いた時に僕は、基地訴訟ではこれからは平和的生存権論が重要だと強調しました。その後実務ではほとんど強調されることはなかったんだけれども、嘉手納訴訟でこのような受け止め方をしてくれました。

 彼は「基地弁」の雄でありながら、「町弁」だと自称していました。いま「ヒロシマからフクシマへ」という事態の中で、福島の原発災害対策について平和的生存権では適切でない、十分でないという説も強い中、なお平和的生存権論と「平和に生きる権利の確立をめざす懇談会」の役割がおおいに期待されている。その懇談会の代表を今日まで務められた榎本君は、実にすばらしいことをなさったと思います。ありがとうございました。

 以上をもって榎本弁護士を偲ぶ言葉にしたいと思います。

榎本さんに感謝しています

内藤 功(自由法曹団常任幹事・日本平和委員会代表理事)

 ただいま中杉先生からあらためて横田基地訴訟の全体の経過、その中での榎本弁護士の役割など、よく整理されたお話をいただきまして、ありがとうございます。

 私はひとつ非常に榎本さんに感謝していることがあります。長沼事件の訴訟が始まりました直後だと思いますが、榎本さんが弁護士になられまして、たしか尾崎法律事務所に所属されまして、尾崎先生のご命令もあって長沼裁判に参加していただけるようになりました。私も弁護団の一員で、とくに自衛隊の実態問題の立証を担当していた時だったものですから、若い方に手伝ってもらいたいと、榎本先生にお願いしました。

陸海空の幕僚長を尋問することになりまして、「私が海と空を担当するから、榎本さん、俺のやり方を参考にしながら陸上幕僚長(中村龍平という陸将ですが)を尋問してみないか」とお願いしたら、初めは遠慮しておられたんですが、やりましょうということになって。それで彼の書いた雑誌、書物を集めてきまして、3回も家に来てもらって練習をやりまして、立派に尋問をされましたですね。

 これがちょうど横田訴訟を提起する前の、1970年代始めぐらいの時期です。だから両方やっておられた。正月には3日か4日に私の家に訪ねてきて、一緒に酒を飲んで、カード作りをした。つまり尋問を11枚カードに書いた。心から感謝をしております。

若干の討論

杉山・ひとつ残念なのは、やっと平和的生存権が国連の場で議論になって、国内ではまだそれほど広がっていませんけれども、まったく同じ平和的生存権ではないけれども、「平和への権利」として議論されている。その中身に実は長沼や恵庭や、内藤さんがご存じのようにイラク訴訟や、日本の人たちが一生懸命取り組んだものが書き込まれています。榎本さんがもう少し元気だったらもう少し進められたな、という思いがあります。

木下・ちょっと理解不足かもしれないんですけど、先ほどの浦田先生のお話で、平和的生存権は役に立たないというようなことを榎本先生がおっしゃったんですか。

浦田・横田基地訴訟を前段階として公害訴訟を始める、70年代の前半ですね。砂川、恵庭、百里、長沼と進んだいわゆる基地訴訟は憲法9条を基本軸にして、憲法の中の平和的生存権の主張を強めてきていたわけです。ところが長沼の控訴審判決で退けられて、最高裁でも言及されない。というわけで榎本さんは、横田問題は新たな切り口でもって取り組むと言い出した。新たな公害訴訟として取り組むことにして、これまでの非軍事、反軍事の平和的生存権はあえて採らない、日米安保も憲法論もやらない、という手法でもって起訴したんですね。

木下・僕は『戦争と住民』を急いで読んでいたんですけど、この本を読むと、平和的生存権の萌芽から展開されていく様子が良く分かると思ったんです。だから個々の戦術では自衛隊違憲論は採らないということで、基地弁としては非常に抵抗があったと言っていますけど、全体としては榎本さんは平和的生存権で解釈して、最初は単に平和という問題だけであったのを、環境権とか生存権とかも含めた幅広い概念として平和的生存権を発展させていく、そういう様子がこの中に感じられました。ですから、浦田先生の紹介された榎本先生の態度というのはちょっと意外な気がしたものですから、申し上げました。

浦田・ひとこと付け加えますと、榎本君の平和的生存権の基調をなしているのは、暮らしを守ろうということですね。農民の人たちの暮らし、そして基地周辺の人たちの暮らし。この暮らしを守るためには平和が必要だと。平和のうちに生きるということは、暮らしを大事にすることだという考え方が基本だと思います。

木下・榎本さんは、「平和的生存権」という言葉は良くないと、生存では冷たいと、「平和に暮らす権利」にしたほうがいいんじゃないかと言っていますね。

浦田・平和的生存権の中身については論者でさまざまですけれども、いちばん基本にあるのは暮らしですね。もともとアメリカの1930年代、ニューディールの時期に失業した人たちが、俺たちの暮らしをどうしてくれるんだというふうに言った。「生活」ということでこの権利意識が発生した。それは砂川の住民の要求であるし、恵庭・長沼で憲法13条論として出て来ます。この対極にある考え方は、核戦争の惨禍から免れる権利ということを言います。抵抗権を含みます。核時代の平和的生存権は、非核化のための道具であり、人類の生存を確保するための正当な要求だという。そういう要求までを含んでいて、恐怖と欠乏からの自由、さらに憲法25条の「健康で文化的な生活」を要求することにもつながっていきますね。

大内・たいへん強引ですが、忘年会会場に移動しますので、これで閉めさせていただきます。中杉さん、どうもありがとうございました。ご出席のみなさん、どうもありがとうございました。

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