米軍機墜落舘野鉄工所事件から51年
米軍機墜落舘野鉄工所事件から51年
国を相手の「裁判」について考える
杉山隆保(舘野鉄工所墜落事故50周年慰霊実行委員)
経済産業省前に私たちが立てた脱・反原発テントは今日で1245日となる。国・経済産業省はこのテントの撤去を求めて2013年に裁判を起こした。そして、昨年の11月27日に行なわれた裁判の進行協議では今年の2月17日に「進行協議」、2月26日に「第10回口頭弁論」を行うことが裁判所、原告、被告で合意されていた。ところが12月3日の第9回口頭弁論で村上正敏裁判長は「結審し」という発言をして裁判を閉じた。
被告側は裁判官の忌避、書記官の忌避を行ったがいずれも棄却された。被告は、第18準備書面、第19準備書面、富田隆一さんの「海野不動産鑑定書に対する批判的検討」という意見書、内藤光博専修大学法学部教授の≪いわゆる「経産省前テントひろば」に関する憲法学的意見書 -表現の自由と「エンキャンプメントの自由」≫を提出して「弁論再開」を求めた。村上裁判長はこれに応えずに「進行協議期日」の破棄、判決を2月26日に出すことを通告してきた。判決日の朝に再度「忌避」が行われた。
判決に先立って村上裁判長は「私に忌避が行われているようだが却下します」と述べた後で判決を言い渡した。判決は7項目に分かれていたが①テントの撤去②国有地であるテントを建てている土地の返却③被告らに約2800万円を国に支払え、という3項目に仮執行を付した。
被告は仮執行というテントの強制撤去について論議を重ねてテントの泊まり態勢を厚くする一方で仮執行の停止を求めて東京高裁に「強制撤去の停止」と「控訴」を行った。3月18日に東京高裁は「強制撤去の停止」を決定した。
1964年の米軍機墜落舘野鉄工所事件も国を相手の困難な裁判であったが1982年12月に国が舘野さんに追加補償を行う和解が成立した。この3年後の1985年6月に「平和に生きる権利の確立をめざす懇談会」を仲間たちと創設した。この会の15周年集会で深瀬忠一さん(元北海道大学教授)が「国という巨大な相手でも①法廷の弁論で国を圧倒すること②大きな運動にすること③新しい理論を創りあげるという三位一体の闘いを行えれば勝利することは可能」と話されたことを鮮明に覚えている。「なだしお事件」「えひめ丸事件」「90億ドル戦費支出違憲訴訟」「カンボジアPKO訴訟」「ゴラン高原PKF違憲訴訟」「イラク自衛隊派兵違憲訴訟」に関わってきた経験から今回の「テント裁判」を改めて捉えなおしてみた。①法廷で原告である国・経済産業は「早期終結」を鸚鵡返しに述べるのみであった②脱・反原発運動の高揚期であり、東京電力福島第一原子力発電所事故で多くの市民が原子力発電に疑問を持ち始めている時期である③エンキャンプメントや内藤教授の新しい「表現の自由論」が出てきたことなどを考えると控訴審でも十分に闘えるし、勝利の展望はある。この意見は当初から私が「勝てる裁判」と主張してきた所作である。第9回口頭弁論前に烏賀陽弘道(うがや ひろみち)さんの「スラップ訴訟」批判の意見書や内藤教授の論文が予定通りに法廷に出されていれば一審の局面が変わっていたかも知れない。
さて、表題の舘野鉄工所事件だが新しい展開が始まっている。50周年慰霊行動で事故の跡地に慰霊碑を建立したところ防衛省南関東防衛局から「国有地に勝手に慰霊碑を建てては困る。撤去しろ。」との申し入れがあった。実行委員会で議論して「事故地跡に事故の説明をする銘板を立てる計画を考慮して慰霊碑は抜き、土地の使用許可を防衛省に求める」ことにして正式な使用申請を行った。3月20日に使用申請は認可された。ところがその使用許可書の第3条の2項に「更新」を認めない旨の但し書きが書かれていた。現在、この但し書きにどう対処するかを検討している。
他方で「銘板」だけでなく事故跡地を「平和慰霊公園」にする運動も始まり、この運動のための新しいパンフも出来上がった。舘野鉄工所事件を広めてこの事件の本質である厚木基地撤去の運動に向かおうというのである。舘野鉄工所事件は発生から51年をして国が安全保障政策を軍事に切り替えようとすることに立ち向かうこととなった。
▽パンフのタイトルは
「爆音のない静かな空を
もう落ちないで ここは、人の住む街」
頒価 一冊 500円(A5判 54ページ 一部カラー印刷 )
※10冊以上を販売していただける方には一部400円で預けます。