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「平権懇」☆関係書籍☆残部僅少☆

  • ●大内要三(窓社・2010年): 『日米安保を読み解く 東アジアの平和のために考えるべきこと』
  • ●小林秀之・西沢優(日本評論社・1999刊): 『超明快訳で読み解く日米新ガイドライン』
  • ●(昭和出版・1989刊): 『釣船轟沈 検証・潜水艦「なだしお」衝突事件』
  • ●西沢優(港の人・2005刊・5000円+税): 『派兵国家への道』
  • ●大内要三(窓社・2006刊・2000円+税): 『一日五厘の学校再建物語 御宿小学校の誇り』
  • ●松尾高志(日本評論社・2008刊・2700円+税): 『同盟変革 日米軍事体制の近未来』
  • ●西沢優・松尾高志・大内要三(日本評論社・2003刊・1900円+税): 『軍の論理と有事法制』

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2015年8月

2015/08/10

砂川事件最高裁判決は「憲法の神髄」から見て誤っている

砂川事件最高裁判決は「憲法の神髄」から見て誤っている
内藤 功



――前回の新井章先生のご論考に続き、私たちは砂川事件最高裁判決についてさらに考えてみたいと思います。以下は、8月8日に内藤功先生の事務所で行われたインタビューの内容をまとめたものです。(O)

 1959年3月30日に東京地裁が、米軍駐留を許す政府の行為は憲法違反であるという判断(いわゆる伊達判決)をして、1959年12月16日に最高裁大法廷が全員一致でこれを破棄しました。その破棄の理由は2つあります。日本に駐留するアメリカ合衆国軍隊は日本の指揮管理する軍隊でないから、憲法が禁止する戦力に当たらないと、こういう形式的な理由がひとつ。もうひとつは、日米安保条約のように高度に政治性のある問題は、司法審査権になじまない、範囲外だと。この2点で破棄したわけですね。その傍論としての、憲法は自衛権を否定しない、自衛の措置を禁止しないという部分を、安倍政権は戦争法案が違憲でないという根拠にしています。
 問題は日本国憲法前文のとらえかたにあります。第1審判決は、前文第1段の「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないように」という戦後政治の原点のところを引用して、これを第二段の「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚」、ここにつないでいる。「人間相互の関係を支配する崇高な理想」とは、人と人が殺し合わない、ということです。武力を使わないことです。
 第1審判決はさらに憲法前文第2段の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を維持しようと決意した」、これは前を受けますから、武力によらずに各国民の公正と信義に信頼するというふうにつながる。だから第1審判決は、「自衛権を否定するものではないが、侵略戦争は勿論のこと、自衛のための戦力を用いる戦争及び自衛のための戦力の保持も許さない」という憲法解釈をしているわけです。武力を用いないという思想が一貫している、これが憲法の制定経過、帝国議会の論議を経てきた憲法の真髄だと思います。
 ところが最高裁判決の文脈はどうかといいますと、まず憲法前文第1段の「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないように」というところを引用しながら、かんじんの第2段の冒頭の「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚」、この部分は引用していません。そして前文第2段の伊達判決が言わなかったところを引用している。どういうところかというと、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占め」たいと、この部分を引用している。次に最高裁判決は憲法前文から、「全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と、平和的生存権を引用している。さらに続けて自衛権の存在を認めたうえで、憲法前文第2段の前のほうに逆戻りして、「わが国の防衛力の不足」は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」することによって補うのだから、米国などに安全保障を求めることは禁じられていない、としている。
 つまり砂川事件第1審判決も最高裁判決も、憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」して「われらの安全と生存を保持」というところを引用しています。けれども、伊達判決は戦争の惨禍の反省から人間は殺し合ってはならない、だから世界の国民の公正と信義に信頼、とつながっている。これに反して最高裁判決は「名誉ある地位を占める」と「平和のうちに生存する」の2つを、防衛力の不足を補うため「諸国民の公正と信義に信頼」と、こういうふうに結びつけている。
「憲法の真髄」というものは、ポツダム宣言以来の歴史的、政治的経過の下で捉えるべきだし、5か月にわたる帝国議会両院での審議と政府の説明によって判断すべきです。やはり伊達判決の方が正しい、最高裁のほうが憲法前文をねじ曲げたものだと思います。ですから最高裁判決は「憲法の真髄」から見て誤っていると断定していいと思います。
 さて、いま国会で審議されている戦争法案に関して政府は砂川事件最高裁判決から、2つの誤った態度をとっています。ひとつはいま申し上げた、個別的自衛権の名の下に武力を行使する、平和的生存権をその論拠にするということです。もうひとつの誤りは、日本自体が武力攻撃を受けていない場合でも密接な関係のある他国への武力攻撃の応答でも武力をもって参戦できるという、集団的自衛権の根拠にしているということです。
自衛権や自衛措置という最高裁の論理は個別的自衛権の中でも米軍の駐留を認めるという、せいいっぱいそこまでを認めたものであって、日本の自衛隊が海外に出て行って、密接な関係にある他国への攻撃を排除する、このような集団的自衛権行使はここからは出て来ない。あの裁判は米軍駐留が違憲かどうかが争点だったのであって、立川基地に当時自衛隊は全然いなかったのですから、論議になるわけがないですね。当時、我々弁護人、検察官、裁判官の共通認識として、自衛権と言えば個別的自衛権だけで、集団的自衛権を含めた自衛権を論議するなどという頭は全然なかったのです。
なお、自衛隊イラク派遣についての名古屋高裁の2008年4月17日の判決は、日本の判例として初めて、平和的生存権について具体的な定義をしております。自国の行う戦争あるいは軍事活動によって国民の権利・生命・自由が脅かされないようにする、これを差し止める国民の権利として認めているわけですね。砂川事件最高裁判決は、平和的生存権を、集団的自衛権の武力行使の根拠にしているので、考え方が全然間違っていると思います。
平和的生存権という考え方の発祥は1941年8月の大西洋憲章だと言われます。チャーチルとルーズベルトの共同宣言。文脈の第1は、ナチの圧政を頭に置いて、「すべての国民がその国境内で安全に居住することを可能とし、すべての国、すべての人類が恐怖と欠乏から解放され、生命を全うすることを保障するような平和」を求めるとしている。第2はグローバルな観点ですが、「世界のすべての国民が実際的、精神的のいずれの見地から見ても武力使用の放棄に到達しなければならない」と述べています。これは後の国連憲章の精神に通じるものです。第3は、「軍備が国境の外における侵略の脅威を与える国」について、これは日本とドイツですが、これがある限り「将来の平和は維持されない」と述べています。第4は、「広範で一般的な安全保障制度が確立されるまでは、このような国の武装解除が不可欠」だと。最後に第5、「平和を愛好する国民のために、軍備負担を軽減する、すべての実行可能な措置を援助する」と続けています。
この文脈からみても、やはり、平和的生存権というものはすべての国民に与えられており、武力行使の放棄や軍備負担の軽減につながるものだと受け取れます。これが平和的生存権の出発点です。
平和的生存権というものを歴史的な本来の意味からまったく逸脱して、こともあろうに武力による自衛の根拠にしていることの誤りをいま強調することは大事な点であると、砂川事件の弁護人のひとりとして思っています。

2015/08/07

9月12日「舘野鉄工所事故慰霊・市民のつどい」


 9月8日(火)の午前10時から、大和市上草柳の事故現場で舘野鉄工所事故被害者の
慰霊祭を行うことになりました。

 9月12日に「舘野鉄工所事故慰霊・市民のつどい もう落ちないで―ここは人の住む
街」を行います。

・日時 9月12日(土)午後2時開会
・会場 大和市勤労福祉会館3階
・内容 舘野義雄さんのお話
     ミニ講演 ヨコスカの原子力空母の今後 呉東 正彦さん
     横井久美子さんの唄
     「平和慰霊公園」設立への陳情署名運動のアピール

憲政の邪道 暴走する安倍政権

憲政の邪道 暴走する安倍政権
――集団的自衛権と立憲主義

新井 章(砂川事件弁護団)


【編集部によるまえがき】「平和に生きる権利」は武力によらない安全保障
国会で審議中の安保法案=戦争法案に対して、多くの憲法研究者や法曹界から「違憲」の声が挙がっています。これに反して、安倍政権が苦しまぎれに「合憲」の根拠としているのは3つです。1959年の砂川事件最高裁判決、1972年の集団的自衛権に関する政府見解、そして「我が国をめぐる安全保障環境の変化」。私たちはとくに砂川事件最高裁判決にこだわります。なぜなら同判決が「自衛権は国家固有の権利」と主張するすぐ前に、日本国憲法前文の「平和のうちに生存する権利」を挙げているからです。つまり「平和に生きる権利」が武力(この場合は駐留米軍)による安全保障を肯定する論理になっています。私たち「平和に生きる権利の確立をめざす懇談会」は、日本国憲法の平和主義を守り広げる=武力によらない安全保障を求める運動を、1985年以来、30年にわたって続けてきました。いま日本が再び海外で戦争をする国になるのか、という平和運動の正念場にあたって、あらためて「平和に生きる権利」を考える連載をお届けします。その第1回は、砂川事件弁護団の新井章先生からご寄稿いただいた以下の論考です。(O)

1.集団的自衛権問題と砂川事件最高裁判決

1-1 安倍政権による集団的自衛権行使容認政策と安保法制改正(「戦争法案」)の企ては、多くの憲法学者から「違憲」の指摘を受けていよいよその法的正当性が疑われ、国民からの疑問や批判も強まっている。
 安倍首相や高村自民党副総裁らは、この苦境から脱するための窮余の一策として、こともあろうに半世紀前の砂川事件最高裁判決(1959年12月16日)を引き合いに出し、その判示に手前勝手な解釈を加えた上で、この判決はわが国が(集団的)自衛権を保有していることを認めているなどとして、あたかもこの判決が彼らのいう集団的自衛権行使容認の主張に「合憲」の“お墨付き”を与えているかのごとく強弁している。
 
 しかし、このような安倍首相らの主張の真偽を検証するには、①最高裁判決をこの裁判事件の第一審からの流れのなかに位置づけて、当時の最高裁がこの裁判事件に関して担わされていた任務や課題は何であったかを的確に把握することが必要であるし、それに加えて何よりも、②最高裁判決の内容そのものがどのような論旨を展開し、判示していたかが、予断をまじえずに客観的・正確に把握されなければならない。

2-1 そこで、まず①の点(裁判の経過)から検討すると、そもそもこの最高裁判決は、検察側の跳躍上告(控訴審を省略 刑事訴訟規則254条1項)により、日米安保条約とそれに基づく米軍駐留を違憲と断じた東京地裁の第一審判決(いわゆる伊達判決 1959年3月30日)を、直ちに速やかに再審査すべき任務の下で行われた裁判であった。

 それゆえに、上告審の審理判断の課題も、第一審判決が採り上げた上記の問題(争点)、すなわち日米安保条約と米軍駐留の憲法(9条)適否についての審判に絞られることになったのは、当然至極の成り行きであり、最高裁での審判の過程に、わが国の集団的自衛権やその行使容認の是非をめぐる問題(争点)のごときが“登場”する余地がなかったことは多言を要しないところである。

2-2 次に②の点(最高裁判決の内容)についてみると、この判決の判示は前段と後段との二部構成となっていて、前段は、日本政府が安保条約を締結して米軍の全土駐留を許したことが、政府に「戦力の保持」を禁じた憲法9条2項に違反するかどうかという問題(争点)についての判示である。この判決では、駐留米軍は日本(政府)が保持を禁止された「戦力」には該らぬと判断され、米軍駐留は「合憲」とされている。

 後段は、日米安保条約が「戦争放棄・戦力不保持」を定める憲法9条等の非武装平和主義の趣旨に適合するか否かという問題(争点)についての判示である。この点に関する最高裁の判断は、日米安保条約の締結という事柄は高度の政治問題なので、司法判断を任務とする裁判所の審判にはなじまぬとする(「統治行為」論)、司法判断回避の結論となった。

 以上のような二段にわたる判決の内容(論旨)からしても、この最高裁判決が日米安保条約と駐留米軍の憲法9条等への適合性という問題(争点)に集中して、それ以外に、わが国固有の(集団的)自衛権のあり方やその行使容認問題についてまで触れる筋合いのものでなかったことは明白であり、ましていわんや、安倍政権の主張する「集団的自衛権の行使容認論」に法的根拠=“お墨付き”を与えるような内容ではなかったことは、一点の疑いもない。

2-3 かくして最高裁判決がわが国の集団的自衛権問題に判断を加えたものでないことはもはや明らかである。それでもなお安倍首相や高村氏は、判決の前半の部分で裁判所が、「わが国が、自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な措置をとりうることは、国家固有の機能の行使として当然のことといわなければならない」と説示している箇所をとり上げ、ここで裁判所が「自衛のための措置」と述べるのは、個別的自衛権も集団的自衛権も区別しない包括的な表現と読めるし、少なくとも集団的自衛(権)を排除する趣旨とは解されないから、この判決はわが国の集団的自衛権(行使)を否定していない(認めている)などと強弁している。

 しかし、この判決の前半が、わが国の有する個別的自衛権(の行使)に関して判示したものであることは、その論脈からしても、文辞(「自国の平和と安全」「わが国の防衛力の不足」「わが憲法の平和主義は決して無防備・無抵抗を定めたものではない」等)に徹しても疑問の余地はなく、彼らの立言は、断牽取義でなければ牽強付会の極みという以外にはないのである。

3 私は1956年に弁護士登録して砂川裁判の当時は開業3年目の若輩であったが縁あってこの裁判事件の上告審から弁護団に加わることとなり、最高裁大法廷での口頭弁論から判決言渡まで、上告審の裁判の全過程に関与することができた。従って、この裁判の経過や内容に関しては、“証人資格”をもつものの一人と自負してもいる。

2.集団的自衛権行使容認の閣議決定と立憲主義

 立憲主義(constitutionalism)とは、国家権力の行使が憲法の定めに則って行われるべきことを求める主張(思想、原理)であって、近代憲法上の大原則の一とされている。

 歴史的には、ヨーロッパ中世以降の王権等による絶対主義体制を克服・打倒する闘いの過程で登場したとされるが、わが国現憲法においてもこの思想は貫徹され、違憲立法審査制の導入(81条)や憲法の最高規範性の確認(98条)等の定めに具体化されている。

 ところで、安倍政権ははじめから承知の上で、憲法9条や前文の定める平和主義(戦争放棄・戦力不保持)の原則を軽んじ、9条等の下では集団的自衛権の行使は許されぬとしてきたこれまでの歴代政府による憲法解釈を、「閣議決定」をもって敢えて「変更」し、「集団的自衛権の行使容認」――米軍等との共同戦闘行動に踏み切ろうとしているのである。

 もし安倍政権がそのような軍事的な新方針を採択し断行しようとするのであれば、その内容が憲法9条等の平和原則にも抵触しかねない重大性を帯びているという事柄の性質上、堂々と「憲法の改正」の手続(憲法第9章)を踏んで行われるべきスジである。憲法の改正手続が実現困難だからといって、その手続を回避し、一内閣の「閣議決定」という行政決定の手続をもって「憲法解釈の変更」(憲法条項の実質的改正)を成し遂げようとするのは、立憲主義体制への挑戦という以外の何ものでもなく、憲政の邪道を行くものとの非難を免れないであろう。

3.安倍政権は「戦争法案」の強行で何を狙っているか

 この点について安倍首相自身が語るところによれば、彼にとっては1945年の第二次大戦での敗北は不本意で不名誉極まる出来事であり、それに引き続く戦勝連合国の対日占領政策によってわが国の国家主権は制限され、米占領軍の押しつけ憲法の下で、日本の伝統的な政治・経済・文化は解体・改変され、占領終結後も米国軍隊の駐留継続により、独立国家としては不甲斐ない従属的な状態に甘んじ続けさせられてきた――このような屈辱的な「戦後レジーム」からの「脱却」をこそ図るべきだというのが、彼の政治家としての信条、宿願であると思われる。

 そして、さような彼の願望を遂げる方策として、①対外的には、日米軍事同盟における両国の立場の対等化を図り(集団的自衛権行使容認や「国防軍」の創設、海外派兵の恒常化等)、日本を再び軍事大国に仕立て上げること、また、②国内的には、戦後70年で築かれてきた平和・民主・人権のわが国政治体制を解体・再編し、国家主義・権力主義的な旧体制(アンシアン・レジーム)を“復活”させること(その青写真が自民党の「改憲案」である)を企図し、狙っているものと察せられる。

 戦前日本の帝国主義・軍国主義的な対外膨張政策(韓国併合や中国大陸侵攻等)がひき起こした、無謀な戦争とその惨禍に対する冷静で真摯な反省を欠いた、このような安倍首相の「歴史認識」こそが、国内的には昨今の「戦争法案」強行の基点をなしていると同時に、国際的には中国・韓国等からの深甚な反撥を招き、欧米諸国からも「右翼・ナショナリズム」との根深い不信を表明される現況を生み出しているわけである。

 このような安倍政権の危険で憲法違反が明白な“暴挙”を葬り去るために、私たちは最後まであきらめることなく、全力で闘い抜かねばと決意している次第である。

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