砂川事件最高裁判決は「憲法の神髄」から見て誤っている
砂川事件最高裁判決は「憲法の神髄」から見て誤っている
内藤 功
――前回の新井章先生のご論考に続き、私たちは砂川事件最高裁判決についてさらに考えてみたいと思います。以下は、8月8日に内藤功先生の事務所で行われたインタビューの内容をまとめたものです。(O)
1959年3月30日に東京地裁が、米軍駐留を許す政府の行為は憲法違反であるという判断(いわゆる伊達判決)をして、1959年12月16日に最高裁大法廷が全員一致でこれを破棄しました。その破棄の理由は2つあります。日本に駐留するアメリカ合衆国軍隊は日本の指揮管理する軍隊でないから、憲法が禁止する戦力に当たらないと、こういう形式的な理由がひとつ。もうひとつは、日米安保条約のように高度に政治性のある問題は、司法審査権になじまない、範囲外だと。この2点で破棄したわけですね。その傍論としての、憲法は自衛権を否定しない、自衛の措置を禁止しないという部分を、安倍政権は戦争法案が違憲でないという根拠にしています。
問題は日本国憲法前文のとらえかたにあります。第1審判決は、前文第1段の「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないように」という戦後政治の原点のところを引用して、これを第二段の「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚」、ここにつないでいる。「人間相互の関係を支配する崇高な理想」とは、人と人が殺し合わない、ということです。武力を使わないことです。
第1審判決はさらに憲法前文第2段の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を維持しようと決意した」、これは前を受けますから、武力によらずに各国民の公正と信義に信頼するというふうにつながる。だから第1審判決は、「自衛権を否定するものではないが、侵略戦争は勿論のこと、自衛のための戦力を用いる戦争及び自衛のための戦力の保持も許さない」という憲法解釈をしているわけです。武力を用いないという思想が一貫している、これが憲法の制定経過、帝国議会の論議を経てきた憲法の真髄だと思います。
ところが最高裁判決の文脈はどうかといいますと、まず憲法前文第1段の「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないように」というところを引用しながら、かんじんの第2段の冒頭の「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚」、この部分は引用していません。そして前文第2段の伊達判決が言わなかったところを引用している。どういうところかというと、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占め」たいと、この部分を引用している。次に最高裁判決は憲法前文から、「全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と、平和的生存権を引用している。さらに続けて自衛権の存在を認めたうえで、憲法前文第2段の前のほうに逆戻りして、「わが国の防衛力の不足」は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」することによって補うのだから、米国などに安全保障を求めることは禁じられていない、としている。
つまり砂川事件第1審判決も最高裁判決も、憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」して「われらの安全と生存を保持」というところを引用しています。けれども、伊達判決は戦争の惨禍の反省から人間は殺し合ってはならない、だから世界の国民の公正と信義に信頼、とつながっている。これに反して最高裁判決は「名誉ある地位を占める」と「平和のうちに生存する」の2つを、防衛力の不足を補うため「諸国民の公正と信義に信頼」と、こういうふうに結びつけている。
「憲法の真髄」というものは、ポツダム宣言以来の歴史的、政治的経過の下で捉えるべきだし、5か月にわたる帝国議会両院での審議と政府の説明によって判断すべきです。やはり伊達判決の方が正しい、最高裁のほうが憲法前文をねじ曲げたものだと思います。ですから最高裁判決は「憲法の真髄」から見て誤っていると断定していいと思います。
さて、いま国会で審議されている戦争法案に関して政府は砂川事件最高裁判決から、2つの誤った態度をとっています。ひとつはいま申し上げた、個別的自衛権の名の下に武力を行使する、平和的生存権をその論拠にするということです。もうひとつの誤りは、日本自体が武力攻撃を受けていない場合でも密接な関係のある他国への武力攻撃の応答でも武力をもって参戦できるという、集団的自衛権の根拠にしているということです。
自衛権や自衛措置という最高裁の論理は個別的自衛権の中でも米軍の駐留を認めるという、せいいっぱいそこまでを認めたものであって、日本の自衛隊が海外に出て行って、密接な関係にある他国への攻撃を排除する、このような集団的自衛権行使はここからは出て来ない。あの裁判は米軍駐留が違憲かどうかが争点だったのであって、立川基地に当時自衛隊は全然いなかったのですから、論議になるわけがないですね。当時、我々弁護人、検察官、裁判官の共通認識として、自衛権と言えば個別的自衛権だけで、集団的自衛権を含めた自衛権を論議するなどという頭は全然なかったのです。
なお、自衛隊イラク派遣についての名古屋高裁の2008年4月17日の判決は、日本の判例として初めて、平和的生存権について具体的な定義をしております。自国の行う戦争あるいは軍事活動によって国民の権利・生命・自由が脅かされないようにする、これを差し止める国民の権利として認めているわけですね。砂川事件最高裁判決は、平和的生存権を、集団的自衛権の武力行使の根拠にしているので、考え方が全然間違っていると思います。
平和的生存権という考え方の発祥は1941年8月の大西洋憲章だと言われます。チャーチルとルーズベルトの共同宣言。文脈の第1は、ナチの圧政を頭に置いて、「すべての国民がその国境内で安全に居住することを可能とし、すべての国、すべての人類が恐怖と欠乏から解放され、生命を全うすることを保障するような平和」を求めるとしている。第2はグローバルな観点ですが、「世界のすべての国民が実際的、精神的のいずれの見地から見ても武力使用の放棄に到達しなければならない」と述べています。これは後の国連憲章の精神に通じるものです。第3は、「軍備が国境の外における侵略の脅威を与える国」について、これは日本とドイツですが、これがある限り「将来の平和は維持されない」と述べています。第4は、「広範で一般的な安全保障制度が確立されるまでは、このような国の武装解除が不可欠」だと。最後に第5、「平和を愛好する国民のために、軍備負担を軽減する、すべての実行可能な措置を援助する」と続けています。
この文脈からみても、やはり、平和的生存権というものはすべての国民に与えられており、武力行使の放棄や軍備負担の軽減につながるものだと受け取れます。これが平和的生存権の出発点です。
平和的生存権というものを歴史的な本来の意味からまったく逸脱して、こともあろうに武力による自衛の根拠にしていることの誤りをいま強調することは大事な点であると、砂川事件の弁護人のひとりとして思っています。
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