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「平権懇」☆関係書籍☆残部僅少☆

  • ●大内要三(窓社・2010年): 『日米安保を読み解く 東アジアの平和のために考えるべきこと』
  • ●小林秀之・西沢優(日本評論社・1999刊): 『超明快訳で読み解く日米新ガイドライン』
  • ●(昭和出版・1989刊): 『釣船轟沈 検証・潜水艦「なだしお」衝突事件』
  • ●西沢優(港の人・2005刊・5000円+税): 『派兵国家への道』
  • ●大内要三(窓社・2006刊・2000円+税): 『一日五厘の学校再建物語 御宿小学校の誇り』
  • ●松尾高志(日本評論社・2008刊・2700円+税): 『同盟変革 日米軍事体制の近未来』
  • ●西沢優・松尾高志・大内要三(日本評論社・2003刊・1900円+税): 『軍の論理と有事法制』

平和的生存権

2015/12/30

「おおすみ事件」不起訴の不当決定!

「おおすみ事件」不起訴の不当決定

12月25日、広島地方検察庁は、「おおすみ事件」の不起訴処分を発表した。14年1月15日に自衛艦「おおすみ」が瀬戸内海で釣船に衝突し2人が死亡、2人が負傷した事件について、裁判をする必要はない、という決定だ。発表文書によれば、「捜査により収集した証拠を検討したところ」釣船側が直前に右転したことが衝突の原因だからと考えられ、自衛艦側は予見も回避もできなかった、業務上過失往来危険・業務上過失致死傷の嫌疑不十分のため不起訴。釣船の船長は死亡しているため責任が問えないから不起訴。
納得がいかない。「真相究明を求める会」がこの事件に関する運輸安全委員会の船舶事故調査報告書(1月29日)の問題点を指摘してきたのに、公開の法廷で審理することをせず、わずか1頁の発表文書で「終わり」にしようとしている。自衛艦が6分前に進路を変えなければ進路が交叉することはなかったし、見上げるような大きな船の側面に自らぶつかっていく者はいないだろう。
検察庁発表を「中国新聞」は1面トップで報道、「朝日新聞」東京版は第3社会面に1段15行だった。

2015/08/10

砂川事件最高裁判決は「憲法の神髄」から見て誤っている

砂川事件最高裁判決は「憲法の神髄」から見て誤っている
内藤 功



――前回の新井章先生のご論考に続き、私たちは砂川事件最高裁判決についてさらに考えてみたいと思います。以下は、8月8日に内藤功先生の事務所で行われたインタビューの内容をまとめたものです。(O)

 1959年3月30日に東京地裁が、米軍駐留を許す政府の行為は憲法違反であるという判断(いわゆる伊達判決)をして、1959年12月16日に最高裁大法廷が全員一致でこれを破棄しました。その破棄の理由は2つあります。日本に駐留するアメリカ合衆国軍隊は日本の指揮管理する軍隊でないから、憲法が禁止する戦力に当たらないと、こういう形式的な理由がひとつ。もうひとつは、日米安保条約のように高度に政治性のある問題は、司法審査権になじまない、範囲外だと。この2点で破棄したわけですね。その傍論としての、憲法は自衛権を否定しない、自衛の措置を禁止しないという部分を、安倍政権は戦争法案が違憲でないという根拠にしています。
 問題は日本国憲法前文のとらえかたにあります。第1審判決は、前文第1段の「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないように」という戦後政治の原点のところを引用して、これを第二段の「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚」、ここにつないでいる。「人間相互の関係を支配する崇高な理想」とは、人と人が殺し合わない、ということです。武力を使わないことです。
 第1審判決はさらに憲法前文第2段の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を維持しようと決意した」、これは前を受けますから、武力によらずに各国民の公正と信義に信頼するというふうにつながる。だから第1審判決は、「自衛権を否定するものではないが、侵略戦争は勿論のこと、自衛のための戦力を用いる戦争及び自衛のための戦力の保持も許さない」という憲法解釈をしているわけです。武力を用いないという思想が一貫している、これが憲法の制定経過、帝国議会の論議を経てきた憲法の真髄だと思います。
 ところが最高裁判決の文脈はどうかといいますと、まず憲法前文第1段の「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないように」というところを引用しながら、かんじんの第2段の冒頭の「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚」、この部分は引用していません。そして前文第2段の伊達判決が言わなかったところを引用している。どういうところかというと、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占め」たいと、この部分を引用している。次に最高裁判決は憲法前文から、「全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と、平和的生存権を引用している。さらに続けて自衛権の存在を認めたうえで、憲法前文第2段の前のほうに逆戻りして、「わが国の防衛力の不足」は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」することによって補うのだから、米国などに安全保障を求めることは禁じられていない、としている。
 つまり砂川事件第1審判決も最高裁判決も、憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」して「われらの安全と生存を保持」というところを引用しています。けれども、伊達判決は戦争の惨禍の反省から人間は殺し合ってはならない、だから世界の国民の公正と信義に信頼、とつながっている。これに反して最高裁判決は「名誉ある地位を占める」と「平和のうちに生存する」の2つを、防衛力の不足を補うため「諸国民の公正と信義に信頼」と、こういうふうに結びつけている。
「憲法の真髄」というものは、ポツダム宣言以来の歴史的、政治的経過の下で捉えるべきだし、5か月にわたる帝国議会両院での審議と政府の説明によって判断すべきです。やはり伊達判決の方が正しい、最高裁のほうが憲法前文をねじ曲げたものだと思います。ですから最高裁判決は「憲法の真髄」から見て誤っていると断定していいと思います。
 さて、いま国会で審議されている戦争法案に関して政府は砂川事件最高裁判決から、2つの誤った態度をとっています。ひとつはいま申し上げた、個別的自衛権の名の下に武力を行使する、平和的生存権をその論拠にするということです。もうひとつの誤りは、日本自体が武力攻撃を受けていない場合でも密接な関係のある他国への武力攻撃の応答でも武力をもって参戦できるという、集団的自衛権の根拠にしているということです。
自衛権や自衛措置という最高裁の論理は個別的自衛権の中でも米軍の駐留を認めるという、せいいっぱいそこまでを認めたものであって、日本の自衛隊が海外に出て行って、密接な関係にある他国への攻撃を排除する、このような集団的自衛権行使はここからは出て来ない。あの裁判は米軍駐留が違憲かどうかが争点だったのであって、立川基地に当時自衛隊は全然いなかったのですから、論議になるわけがないですね。当時、我々弁護人、検察官、裁判官の共通認識として、自衛権と言えば個別的自衛権だけで、集団的自衛権を含めた自衛権を論議するなどという頭は全然なかったのです。
なお、自衛隊イラク派遣についての名古屋高裁の2008年4月17日の判決は、日本の判例として初めて、平和的生存権について具体的な定義をしております。自国の行う戦争あるいは軍事活動によって国民の権利・生命・自由が脅かされないようにする、これを差し止める国民の権利として認めているわけですね。砂川事件最高裁判決は、平和的生存権を、集団的自衛権の武力行使の根拠にしているので、考え方が全然間違っていると思います。
平和的生存権という考え方の発祥は1941年8月の大西洋憲章だと言われます。チャーチルとルーズベルトの共同宣言。文脈の第1は、ナチの圧政を頭に置いて、「すべての国民がその国境内で安全に居住することを可能とし、すべての国、すべての人類が恐怖と欠乏から解放され、生命を全うすることを保障するような平和」を求めるとしている。第2はグローバルな観点ですが、「世界のすべての国民が実際的、精神的のいずれの見地から見ても武力使用の放棄に到達しなければならない」と述べています。これは後の国連憲章の精神に通じるものです。第3は、「軍備が国境の外における侵略の脅威を与える国」について、これは日本とドイツですが、これがある限り「将来の平和は維持されない」と述べています。第4は、「広範で一般的な安全保障制度が確立されるまでは、このような国の武装解除が不可欠」だと。最後に第5、「平和を愛好する国民のために、軍備負担を軽減する、すべての実行可能な措置を援助する」と続けています。
この文脈からみても、やはり、平和的生存権というものはすべての国民に与えられており、武力行使の放棄や軍備負担の軽減につながるものだと受け取れます。これが平和的生存権の出発点です。
平和的生存権というものを歴史的な本来の意味からまったく逸脱して、こともあろうに武力による自衛の根拠にしていることの誤りをいま強調することは大事な点であると、砂川事件の弁護人のひとりとして思っています。

2013/01/27

自衛隊イラク派兵10年を問う学習討論会

「平権懇」では、自衛隊イラク派兵10年を問う学習討論会を報告者に志葉玲さん(ジャーナリスト/イラク戦争の検証を求めるネットワーク事務局長)を迎えて、2151830分から予定しております。

会場 福島原発行動隊事務所で(東京都北区滝野川7-7-7サークル伊藤ビル302

埼京線板橋駅東口歩1分)

主催 平和に生きる権利の確立をめざす懇談会(平権懇)

   へいけんこんブログ:http://heikenkon.cocolog-nifty.com/

   お問合 090-5341-1169(杉山)

なお、320日には「開戦から10年 今、問う イラク戦争の10年と日本」(イラク10)というイベントが、同実行委員会の主催で早稲田大学14号館で行われることが決定しており、「平権懇」もこれに賛同・協力いたします。

2009/08/02

平和的生存権の新たな展開

1 ――長沼訴訟からイラク派兵違憲訴訟へ

2009718日 平権懇学習会での講演記録

新井章(弁護士)

 私もこの会(平和に生きる権利の確立をめざす懇談会)の会員です。代表の榎本信行弁護士から要請がありまして、平和的生存権について最近いい意味で賑やかになっているので、弁護士の角度から報告をしてほしいということでした。私は基地問題というと血が騒いで現場に駆けつけないではいられないという作風を持った弁護士の一人ですので、喜んでお引き受けしました。

 私は半世紀前に朝日茂さんの裁判に取り組みまして、生活保護の裁判にも古くからの縁があります。憲法9条も25条も、どちらも私にとっては大事な仕事の分野なのですが、どちらかというと私は9条裁判の弁護士が“本籍”であって、25条のほうは現住所というか、もう一つの住まいという感じがあります、語弊もあると思いますが。

 なぜそうなのかを考えてみたのですが、私自身は金持ち弁護士ではありませんけれど、まあまあなんとか暮らしている。それに比べると、生活保護を受けるか受けられないかというラインで苦しんでいる方々は、私よりも日ごろかなり厳しい条件のもとで生活しておられるので、そういう人たちのために力を貸してあげることができればうれしい、という感覚がどこかにあります。それに比べて、9条問題というと、私自身の問題、私の家族の問題、私の友人や同志たちの問題であって、そういう自分たちのうえに戦争の災いがふりかかってきたらどうするか、平和憲法があるのに、という思いがある。ですから、9条の裁判では頼まれもしないのに北海道まで、あるいは沖縄まで自費で飛んで行く。そういうあれこれの私の思いがありまして、今日の報告も引き受けさせていただいたという次第です。

「平和的生存権」というと、非常に大事な基本的人権に関わる問題なのですが、これについては戦後間もない1946年の段階で、すでに私どもの日本国憲法のなかに謳いこまれていたわけですね。爾来60年あまりになりますが、現在まで、平和的生存権と呼ばれるものの本籍というか、原点というのはまったく変わっていないのです。この60年ほど、誰もそれ自体に指を触れる人はおりませんでした。そのあたりからお話を申し上げたいと思います。

1. 「平和のうちに生存する権利」とは

 最初に、「平和的生存権」という言葉なりコンセプトなのですが、私どもが共有する日本国憲法のなかで、正確にどういう言葉で表現されているかと申しますと、「平和のうちに生存する権利」と日本語で書き表されております。憲法の本文ではなくて前文のなかに、平和的生存権についての定めが置かれているわけです。

 憲法は法律家の目から見ると、いっぱいある法律の中では非常に短い、どちらかというと小さな法律です。本文そのもので100か条ぐらいしかありません。所得税法とか地方税法などという法律になるともう、めったやたらに条文が多くて、最初のほうをみているとお終いのほうが、お終いのほうを見ていると最初のほうを忘れるぐらい、分厚い法律がけっこう多いのですが、憲法はわずか100か条です。その100か条の本文のなかにさえもなくて、その前に位置づけられている「はじめに」的な部分、すなわち「前文」のなかに、「平和のうちに生存する権利」は謳われているのです。

 日本国憲法前文は大まかに申しますと、3つのパートから成り立っています。第1段は国民主権、天皇は主権者ではなくて国民が主権者だということを中心に書かれている部分。第2段は、われわれ日本国民は将来にわたって平和を大事に取り組んでいくという、平和主義の原則。第3段は、戦前の無法な軍国主義時代を反省して、今後は国際協調でいくと強調している箇所。そういう3つの段落から成り立っているのが私どもの憲法前文なのですが、その中の第2段、平和について格調高く謳いあげたパートのしめくくりの部分に、「平和のうちに生存する権利を確認する」という言葉で表現されているわけですね。

「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から逃れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」

元になったマッカーサー司令部原案の言葉、つまり英文で表現されているところを見てみますと、

We recognize that all peoples of the world have the right to live in peace, free from fear and want. ”

こういうふうになっている。これをほとんど直訳したものが日本国憲法前文第2段なのですけれども、アメリカ人が表現した大本の平和的生存権というのは、“the right to live in peace”という、非常に素朴な英語で表現されています。「平和のうちに生存する権利」と言ってもいいし、「平和に生きる権利」と訳してもいい。

 こういう、私どもの共有する憲法の前文、憲法の基本的な精神とか、なぜこの憲法をわれわれは制定するのかという由来を、格調高く謳い上げた前文のなかに、「平和のうちに生存する権利」の定めがあるわけですけれども、この状態は60年間、まったく変わっておりません。誰も付け足した者がいないし、割り引いた者もないということが、最初に申し上げておきたいことです。

 ついでに申しますと、私は今回の報告をするために多少の時間をとって調べたのですが、憲法第9条という私どもが日ごろから親しんで、しかも大いに大事にしようと思っている戦争放棄とか、あるいは軍備全廃の定めも、実はこの「平和のうちに生存する権利を有する」という言葉とともに、マッカーサー原案では憲法前文の第2段に書きこまれていたのです。ところが、前文に戦争放棄とか軍備全廃とかという非常に具体的なことまでを書きこんでしまうとバランスが崩れると、とくにマッカーサーは軍備全廃とか戦争放棄は前文ではなくて本文のなかの重要なパートに位置づけるべきだという、強い意向を持っていたようでして、総司令部の原案が日本政府に提示されるまでの内部過程で、本文の第9条に移されたということが伝えられております。

 それぐらい、われわれがいま憲法9条として慣れ親しんでいる絶対平和の条項と前文の「平和のうちに生存する権利」とは、相互に密接な関わり合いをもっているのだということを、まずは強調しておきたいと思います。

2 2. 「平和のうちに生存する権利」の生い立ち

 では、アメリカさんが原案をつくったというが、誰がつくったのかということは、憲法制定の歴史的な経過を明らかにするうえで、大事な関心事だと思います。それで私も調べてみました。そうすると、これは当時の占領軍総司令部民政局に所属した、ハッシー中佐という軍人が、マッカーサー原案をつくるときに、前文を担当せよと命ぜられて起案したのだということが分かりました。

憲法前文は言ってみれば“ハッシー原案”なのですが、これについては何故か、日本政府に原案が手渡された際にも、第90帝国議会で新しい憲法をつくる審議が行われた際にも、原案のままで議会を通してほしいという、非常に強い要請が総司令部側からはあったようです。したがって、ハッシーさんが一生懸命力をこめて短時日のうちにまとめ上げた、「平和的生存権」と私どもが今日呼ぶ“the right to live in peace”、それを世界の人々が享有しているという発想は、そのまま無修正で私どもの帝国議会を通過し、60年後の今日も日本国憲法前文として生き続けていることになります。

 ですから、「平和のうちに生存する権利」を含む前文を、神様のようにあがめ祀ると捉え方は適当でないと思いますし、そうとはいえ、小沢一郎氏のように「こんな中学生が書くような、バタ臭い翻訳調の前文なんかは、吹っ飛ばしてしまえ」とか、あるいは中曽根元首相のように、「日本人の魂、日本人の歴史観がまったく入っていない、こんな前文は丸ごと書き直したほうがいい」といった考え方も、私は間違っていると思います。私どもは内容的にそれが良ければそれを尊重するし、内容的に問題があればいずれは直そうと考えることに、何のためらいがあるべきではないと思います。

 いずれにしても、この「平和のうちに生存する権利」の生い立ちというのは、いま申し上げたような事情のごとくであります。

3. 制定当時の「平和のうちに生存する権利」への関心は薄かった

 1946年(昭和21年)の夏から秋にかけて、集中的に当時の国会、正確に言えば最後の第90回帝国議会で国民の代表である代議士たちが審議に取り組んだ、その貴重な産物として、憲法前文が、本文とともに私どもの手元に残りました。前文の第2段で、「平和のうちに生存する権利」を互いに確認しよう、地球社会として確認しようという思いが込められた。しかし46年、47年という憲法制定から間もない段階では、「平和のうちに生存する権利」という言葉なりそのアイデアなりについて、大きな関心はどこからも寄せられることがなかった。あるいは意図的な議論が行われるというプロセスはどこにもなかったようであります。

 私は戦後間もない1949年に新制大学に入りました。そのころ、つまり憲法制定直後の大事な時期の憲法の専門研究者、たとえば宮沢俊義教授とか、あるいは東大の憲法問題研究会の先生たちにしても、彼らが書いて残してくださった教科書なり、詳しい解説書のどこを読んでも、「平和のうちに生存する権利」を一項目起こして解説を加えるとか、その歴史的由来はどうかとか、あるいは欧米の先進諸国のどういうところに源があるのかといった点については、何の言葉も費やされておりません。つまり憲法問題の専門家でさえ、「平和のうちに生存する権利」について、問題意識を示したことがなかったことは確かであります。

4. 「平和のうちに生存する権利」から「平和的生存権」へ

 ところが、この憲法前文第2段の最後のパラグラフにちょっと顔を出すだけであった「平和のうちに生存する権利」を、フットライトを浴びるような華々しい場所に引っ張り出した方がおられたんですね。その方は星野安三郎さんという憲法研究者です。

 星野先生が「平和的生存権論序論」という論文を1962年に発表されたんですね。それまでは関心も薄かったから良かったんでしょうけれども、「平和のうちに生存する権利」とか「平和に生きる権利」とか、ちょっと長ったらしい表現で、いっそう人々の関心を薄くすることに役立っていたこの表現が、星野教授によって「平和的生存権」という非常に端的な表現に置き換えられるようになった。つまり別な言葉で言えば、「平和のうちに生存する権利」という権利のありようをまるきり改めて、新しい生命を吹き込ませるに十分な力を持ったコピー、「平和的生存権」に置き換えることを提唱した。

 そういう意味で星野教授は、他にも学問的な実績はいっぱいおありの方ですが、この点だけでも歴史に残る、非常に偉大なコピイストだと(怒られるかも知れませんが)、いくら称えても称えすぎることはないと思います。星野先生が「平和的生存権」という言葉を工夫して、これは新生日本のための礎となる、憲法の“目玉”のひとつだと言ってくださった。このことはその後に向かって非常に価値のある提言でした。今日の報告の最後のほうに出てくるイラク派兵違憲訴訟の名古屋高裁判決、ああいう立派な判決を生み出す大本になったのは、ハッシー中佐ではなく星野安三郎教授だったと言っても、決して言い過ぎではないと思っております。

 多少ヨタを飛ばさせていただきますけれども、星野先生は物事を実質的に広い視野でとらえて、端的にそれを表現し、端的にそれを人に説得することのできる人なんですね。論理的思考に富んでいる学者というよりは、直感的思考に富んでいる学者です。こういう人は法律学者、憲法学者のなかでもそう多くはないんです。ですから星野先生から教わったことはいくつもあって、死ぬまで忘れない。

「新井さん、日本国憲法のなかで『国民』という言葉はふんだんに出てくるけれども、『人民』という言葉は出てくると思うか。法学部で勉強したから分かるだろう」とか言われても、そういう問題意識で宮沢先生に教わった記憶はありませんから分からない。「そうだろう」と、非常にうれしそうな顔をしてですね、「オレだけが気が付いたんだ」といった調子です。たしかに「人民」という言葉は1か所もない。日本国憲法の英文原案を見ると、“people”という言葉がしきりに出てきますが、“people”は必ずしも常に「国民」ではありません。“people”といえば多くの場合、どちらかといえば「民衆」であり「人民」であり「大衆」であるわけです。これをことごとく「国民」と翻訳するのには、ある種の意図が隠れていると考えるほうが、研究的・分析的な、冷静な見方だと私は思います。どこかに多少ごまかしが、マッカーサー草案の英文を訳したときの当時の外務省官僚などの頭のなかにはうごめいていたかも知れないのです。

 いずれにしても、日本国憲法100か条のなかに「人民」という言葉が使われていないのはなぜか、司令部の原案では“people”と表現されていたのをなぜ「国民」とだけ翻訳したのか、そういう問題を、言わず語らずのうちに星野先生は私どもに教えてくれているわけですね。ですからたんなるコピイストではないのです。

 もうひとつヨタを飛ばさせていただくと、「新井さん、法律の文章は味も素っ気もない、悪文の見本だと言われることはご承知の通りだけれども、あにはからんや、日本国憲法100か条のなかに、じつに文学的に香り高い条文があるのを知ってるか」というわけです。「いや、知りません」と言うとニヤッと笑って、俳句のように、575調で謳われている条文があると言うんですね。「学問の自由は、これを保障する」というのが23条にあるのです。よくヒマにあかせて気がついたな、と思うのですが……。

 要するに星野先生はそういう点で非常に物事の本質的なことを直感的に見抜く力をお持ちの方で、それを直接的な表現で表現しきる能力をお持ちの方なんですね。先生が「平和のうちに生存する権利」というコンセプションが誕生してから10年以上たった1962年に発表された論文のなかで、「平和的生存権」として受け止めようと主張された。星野さんの指摘によれば、日本国憲法はよく読むと、平和的生存権という発想・理念を基軸として成り立っている憲法であって、まさに「平和国家の憲法」である。そして、これは前文のなかに謳われているけれども、その権利の保障は、第9条の戦争放棄条項、軍備禁止条項を伴っていることによって、政府に対する具体的な“縛り”となって、現実的に日本国民に対する保障となっている、そういう権利であると。そのように解釈すべきだと強調しておられました。

 この星野さんの着想をきっかけにして、日本の憲法研究者、法律研究者たちの間で、「平和のうちに生きる権利」への問題関心が一気に広がって、いろいろな方が発言され、あるいは研究成果を発表されるようになっていくわけです。この会の代表をお務めになった浦田賢治さんもその一人でありまして、平和的生存権について非常に緻密な憲法学的なアプローチを試みておられます。

3 5. 基地裁判・平和訴訟における「平和的生存権」の提唱

 さて、「平和的生存権」という言葉のもとで新しい生命を吹き込まれた「平和のうちに生きる権利」は、それでは学者の頭脳、学者の研究室のなかに留まってその後生き続けてきたのかというと、そうではなくて、具体的な基地裁判・平和訴訟の裁判闘争の舞台の上にひき出され、その内容を展開するというふうに、次第に発展していきました。

 しかし、裁判闘争の舞台で「平和的生存権」が大きく登場し、その存在意義を発揮するのは、戦後の基地裁判・平和訴訟が始まってすぐではありませんでした。基地裁判・平和訴訟の初期の段階では、どちらかといえば「平和的生存権」は星野さんの提唱にもかかわらず、まだ陰に追いやられていたのです。むしろ、戦後「警察予備隊」として出発し、次第に増強されてきた戦後日本軍としての自衛隊、これは憲法9条が禁止し、政府が保持してはならない「戦力」に該当するのではないか。また、アメリカの軍事力に依存して、あるいはアメリカの核戦力の傘のもとで、日本の安全保障を確立しようと考えるのは、平和憲法の原則から考えたらおかしいのではないか。そういう観点、つまり、憲法9条のなかでもとくに政府に“縛り”をかけている第2項を根拠として、政府の戦後の軍事政策を追い詰めていく。そういう攻め方が生産的、効果的ではないかという問題意識が、基地裁判・平和訴訟の最初の20年ぐらいは支配的であったのです。

 私どもはたまたまそういう時代に属する人間であったわけですが、米軍立川基地の拡張計画に抵抗する砂川の農民の闘い、あるいは戦後開拓農地として開かれた茨城県百里の農村を、自衛隊のための飛行場に作り換えようという企みに抵抗する開拓農民たちの基地闘争、これが1955年ぐらいから始まりました。その砂川・百里をスタート台として始まった戦後の基地・平和の裁判闘争は、いま申したように、どちらかといえば、あれは憲法違反の「戦力」であり、軍隊だという論理を攻め手として闘われてきたわけです。

 ですから、言葉を変えて言えば、私どもその段階の基地闘争に携わった者たちの狙いで申しますと、自衛隊という軍事組織あるいは駐留米軍という軍事組織を、組織として、制度として追い詰めていく、それがなくなるように追及していくという切り口で取り組んでいたと申し上げてもいいと思います。同じ基地問題でも、基地周辺に暮らす人たちの生活を脅かすとか、人権を脅かすという、人権的な観点からの切り口は、当時は用いられてはおりませんでした。

 したがって、「平和的生存権」という考え方なり法的イデオロギーが、基地周辺の住民や住民を支える弁護団・学者の側から大いに唱えられるようになったのは、客観的に見ると、戦後の軍事政策が10年たち、15年たちする中で次第に肥大化し、全国の至る所で国民生活とぶつかるようになってからのことです。軍事演習のために牛の乳が出なくなる、北海道の恵庭牧場でもそうだし、横田の周辺で農業を営む人たちでもそうです。そういう社会情勢の変化が背景にあって、それはおかしいではないか、それは私どもの生活を脅かす政策ではないか、それは私どもの人権を侵害する防衛政策ではないかという問題意識から、人権の問題として平和をとらえることになる、そのとき、まさにそのために用意されたかのようにして、「平和のうちに生きる権利」という発想、「平和的生存権」という権利思想が待ち受けてくれていたわけです。

 それが1960年代に入りまして、戦後20年近くたった段階から以降、たとえば恵庭事件という裁判事件になり、あるいは、それに続いて長沼の町民たちを脅かすミサイル基地への反対闘争や裁判闘争になった。さらには少し間を置きますが、湾岸戦争に90億ドルを橋本首相が無造作に多国籍軍の戦費として提供するという、乱暴な湾岸戦争への加担問題に食い下がった、湾岸戦争反対の裁判闘争ですね。それにさらに続いて、自衛隊をカンボジアに派遣するというPKO派遣の問題、あるいはゴラン高原でPKFの一部として自衛隊を派遣するという問題等々。次第に日本政府が自衛隊の海外派兵を敢えてするような、積極的な軍事措置をとることになって、それを市民の立場で争う裁判が、「市民平和訴訟」というネーミングのもとで展開されたことは、ご承知のとおりであります。「平和的生存権」という法的なイデオロギー、あるいは運動の者から見れば平和闘争のための思想的な武器、これを一気に花開かせることになったのが、市民平和訴訟の登場であったと、私は認識をしております。

 それまで恵庭事件の場合の野崎牧場の人たちにしても、あるいは長沼農民のミサイル基地をつくらせない闘いにしても、やはりまだ、自衛隊は憲法に違反する「軍隊」である、政府が持ってはならないはずの軍隊である、軍隊のための演習で農場の経営を危機に陥らせるとは何事か、という切り口での攻め方でした。そういう中で、どちらかと言えば“脇役”になっていた「平和的生存権」の問題が、市民平和訴訟では、われわれ市民の平和的生存権が、橋本内閣やその後の自民党内閣による、危険な海外派兵の政策等によって脅かされる段階に来ている、裁判所は是非ともそれに待ったをかけてほしいという、そういう差し止め請求として、主要な問題になってきたわけです。「平和的生存権を脅かす」という言い分を一枚看板にして、これらの裁判が全国各地で起こされるようになったということになります。

 しかし、全部では20か所以上で、相当期間の時間をつなぎながら闘われてきた実績をもつ市民訴訟ではありますが、当時の弁護士たちも言っていたとおり、どこでも裁判ではにべもない門前払いの判決で斥けられてきた。「99敗ですよ」と非常に残念そうな表情で、私どもも報告をうかがったことがあるんですけれども。裁判所は、この段階ではまだ、ほとんど原告市民の方たちの平和的生存権にかけた熱い思いをくみ取るという姿勢には到達しておりませんでした。

 このような恵庭あるいは長沼の事件、あるいは市民訴訟の裁判事件で、裁判所がなかなか「人権としての平和」という発想に到達できない、「平和的生存権」という発想について来れないという段階であったときに、憲法学者のなかでは先ほどの星野先生に次いで、深瀬忠一先生が、非常に地道で熱心な研究活動を、憲法9条や平和的生存権についてしてくださいました。深瀬教授の論文(『長沼裁判における憲法の軍縮平和主義』325頁)のなかでは、

「日本国憲法が本来……保障している『平和的生存権』は、人類普遍の自然法に基づく基本的人権〔近代以後の国家のなかで人為的に作り出された人権ではない、そういう意味では将来にわたって誰も奪うことのできない基本的人権〕であり、前文においてそのことを明示的に『確認』したうえ、憲法9条で戦争と軍備放棄という明確な客観的・制度的保障を規定するとともに、憲法第3章の具体的・個別的な諸条項において、その主観的権利の諸態様を保障しているもの」

と提唱してくださっていたわけです(〔 〕内附加説明)。

 星野さんを継いだ深瀬さんたちの研究的努力によって、私どもが弁護士として基地裁判の法廷で裁判所に説得を重ねることができた。その元になるデータや根拠を与えてくださったということになるわけであります。

4 6. 「平和的生存権」の権利性を真正面から認めた長沼訴訟第1審判決

 ところで、この「平和的生存権」は権利なのか、単なる絵に描いた餅なのか。美しい理念をメロディーのようにうたいあげた、フワフワした存在にすぎないのか、そうではなくてこれを根拠にして、ときには裁判手続を通じて政府から具体的な損害賠償なり差し止め命令を獲得できる、しっかりした法的な内実のものなのか、という点が、平和的生存権については、当初から絶えず議論の的にされてきました。そういうなかで、平和的生存権というのは法的な権利として十分に認めることができるということを、学者の議論としてではなく、裁判所の判決として正面から認めるケースが生まれました。これが長沼訴訟第1審判決です。裁判長の名前が福島重雄さんということだったので、私どもは「福島判決」と略称してきたのですが。

 福島さんらが、自分たちの法律家としての生命を賭けて取り組んでくださったこの判決のなかでは、非常に注目すべき考え方が打ち出されたことを紹介しておきましょう。そのひとつは、先ほど深瀬さんのことに触れたときに申したことと同じなのですが、平和的生存権はたんなる政治的な理念の顕現に留まるものではなく、国民の、それも日本国民だけでなくて、もっとワールドワイドな広がりをもったある人権である、世界の諸国民が共有する基本的人権であると。しかも、他の諸々の人権と比べても、平和なくしては人権が存立し得ないことを考えればすぐ分かるように、「平和のうちに生きる権利」の人権性はもっとも基礎的な人権、人権中の人権であると。それがひとつ。

 もうひとつは、長沼町の郊外に馬追山という小高い丘陵があるのですが、その馬追山の頂上にある国有保安林を切り払って、禿山にして、その禿げた部分にミサイル基地を建設する、そういう物騒な計画を国・防衛庁が立てた。それに町民が反対して、その国有林の伐採を許さないでくれという裁判を起こした。これが長沼訴訟のですけれども。このときに、国・農林省がやる保安林の管理について、そして防衛庁の要請にしたがって農林省が保安林の指定を解除する処分について、いわば第三者の立場にある長沼町民が裁判を起こす原告適格があるかということが、長沼裁判では“入口”の問題としてたいへん深刻に争われたわけです。福島判決では、長沼町民には立派に原告適格が認められる、何故なら、町の郊外の山の上にミサイル基地がつくられれば、当然、仮想敵国である当時のソビエト連邦などは、いったん緩急ある際に真っ先に日本のミサイル基地の息の根を止めるために、ここに爆弾を集中するだろうと。ミサイル基地がつくられるということは、仮想敵国の攻撃を呼びこむという危険性を著しく高めるものである、したがって、長沼町の町民には、そういう基地問題に煩わされないで生き抜く、「平和のうちに生きる権利」が、憲法9条や前文で保障されている、取消訴訟を起こした長沼町民には原告適格が認められる、という判断をしてくれたのです。

 当時、私も榎本さんも他の多くの仲間とともに、長沼裁判には最初から最後まで携わっておったのですが、これは私どもの発想をはるかに超える、スケールの大きい判決でした。非常に感激してこの判決を読んだわけです。この福島判決は「平和的生存権」が初めて日本の戦後裁判のなかで“市民権”を与えられた事件であったということができます。

7. 「平和的生存権」の権利性を飛躍的に発展させたイラク訴訟名古屋高裁判決

 今般、私どもが非常な喜びをもって迎えることができたのは、イラク派兵違憲訴訟における名古屋高裁の判決です。これは長沼訴訟の福島判決と比べてどこが違うか。福島判決の場合は、「平和的生存権」というのは絵に描いた餅ではなく、非常にしっかりとした憲法的な根拠のある、法的にも充実した中身をもっている権利、人権だと認めた点では非常に優れていました。名古屋高裁のイラク訴訟判決は、そのことを当然の前提としたうえで、具体的に、それでは平和的生存権に基づいて何をすることが国民に可能か、勝訴を具体的に予想しながら成算のある闘いを起こせるのか、そういう具体的な平和的生存権のいわば“御利益”ですね、具体的・法的なメリット、これについて非常に詳しい、しかも懇切丁寧な考え方・見解を、名古屋高裁は示してくれたわけです。

 青山邦夫さんという裁判長は、聞いてみると福島さんたちとほぼ同世代の人で、良心的な裁判官と目されるグループの一人だそうです。その青山判決のさわりを読んでみます。

「このような平和的生存権は、現代において憲法の保障する基本的人権が平和の基盤なしには存立し得ないことからして、全ての基本的人権の基礎にあってその享有を可能ならしめる基底的権利であるということができ、単に憲法の基本的精神や理念を表明したに止まるものではない。」

 こういうふうに、平和的生存権は立派な定めではあるけれども、それは法の目的や法の理念を書いただけのもので、いわば政治的な努力目標を憲法前文で謳い上げたに止まるというのが、それまでの数多くの裁判所に共通した考え方だったのです。青山裁判長たちは、そのような従来の否定的・消極的な考え方はとらないということを、まずはっきり言っております。そのうえで、

「そして、この平和的生存権は、局面に応じて自由権的、社会権的または参政権的な態様をもって表れる複合的な権利ということができ、裁判所に対して〔政府や軍隊の行動によって、国民の生活や生命の安全が脅かされるようなときには、〕その保護・救済を求め……得るという意味における具体的権利性が肯定される場合があるということができる。」

と言っているわけです。そしてさらに懇切丁寧に、

「例えば、憲法9条に違反する国の行為、すなわち戦争の遂行・武力の行使等……によって、個人の生命・自由が侵害……されるような場合には、〔あるいはさらに、憲法9条に違反する戦争が行われるときに、政府あるいは防衛・警察官庁の命令で国民ひとり一人がそれへの加担・協力を強制されるような場合には、〕……裁判所に対して当該違憲行為の差止請求や損害賠償請求等の方法により救済を求めることができる場合があると解することができる。」

と言ってくれているわけですね。これほど立ち入って「平和的生存権」の具体的な“御利益”を説示してくれたものはこれまでにありません。

8. まとめ

 私は今回のお話の準備にかなり時間を割きました。それでも、私自身が直接携わった、戦後基地訴訟の前半期のことについてはいろんなことが申せるんですけど、イラク訴訟、市民平和訴訟についてとなると具体的に携わったことがございませんので、まだ十分な評価・総括ができておりません。そういう意味では、申し訳ない中途半端な報告です。

 今日の話の最初から申しておりますけれども、「平和のうちに生きる権利」がわれわれの憲法のなかに謳われて以来、ひとつの言葉も足されたこともないし、削られたこともない。それ自体としては全然変わっていないんですね。ところが、昨年417日の名古屋の裁判官の思想や勇気をとおして発表された、「平和的生存権」の内実には、非常に大きなふくらみ、発展があるわけです。これは驚くべきことだと思います。

 振り返ってみると私自身はちょっと理屈に勝った弁護士なものですから、市民平和訴訟という言葉は美しいけれども、まず勝つ見込みはないし、オレは他が忙しいから、というので十分な協力をしてこなかったのです。しかし、政府が無謀な他国の戦争への加担を決めたときに、黙っていないで各地で裁判を起こした人たちがいたおかげで、市民平和訴訟が何か所もで闘われた。

 そういう中では、非常に控え目だけれども、平和的生存権とか憲法9条は絵に描いた餅ではありませんよということを判示した東京地裁判決(平成8510日、凡例時報1579号)なんかもあるんです。それを地下水のなかの、ほんのチョロチョロとした流れの段階ととらえると、さらにそういう国民の頑張りを受けて、今度はイラク戦争が始まったときには、湾岸戦争のときの2倍、3倍の活力で、イラク派兵反対の裁判闘争が各地で起こされている。そういうなかで、深瀬さんとか小林武さんとか、大勢の学者も協力して、非常に優れた平和的生存権の研究成果がもたらされた。

 そこで裁判官でさえ、というと裁判官を馬鹿にしたようですが、青山さんのように、あるいは福島さんのように、まともに考えれば憲法は無視できません、9条は無視できませんという判決を書く人間が出てくるわけですね。それが、憲法前文第2段の末尾のパラグラフにたったひとこと、「平和のうちに生存する権利があることを確認する」という言葉があったのを契機として、豊かな内容を付け加えて今日があるということです。

 権利というのは、黙っていて棚ぼたのように上から落ちてくるのを待っていればいいのというものではなくて、そのために汗をかく人にだけ与えられる。「権利は闘う者のためにのみある」ということを昔の外国のお偉いさんが言いました。「平和的生存権」は単なるスローガンではなかった。あれは具体性が薄いから、おまじないのようなものだと受けとめてしまったら、そのときに、発展の可能性は芽を摘まれるのであって、本当にそれに命を吹き込みたければ、そのために汗をかけば肉が付いてくる。そのことの誰の目にも明らかな証拠が、この「平和的生存権」60年の歩みだったと思います。

2009/03/26

3.7シンポジウム 質疑・討論

会場からのご意見・ご質問      

◎厭戦庶民の会の信太といいます。海上衝突予防法では、右に走っている船を見る船は義務船なんです。左に見れば権利船です。私は海軍兵学校で教わりました。海上自衛隊にもいて、日本航空でも機長をしましたが、まったく同じなんです。難しいことを考えることはない。飛行機でも船でも、右には緑の明かりをつける。左には赤をつける。赤が見えたら義務船、あるいは義務機なんです。無学文盲の見張員でも分かるんです。だからこれはイージス艦「あたご」による殺人行為です。

◎市民ネットワーク千葉県の吉沢と申します。先ほどのお話に出てきた「チャーリー海域」のことについて補足したいと思います。新たに配備された空母「ジョージ・ワシントン」を迎えるために、横須賀港は12号バースの浚渫作業を行いました。米軍が使っていたところは土壌が非常に汚染されておりまして、ここでも重金属を含む大量の汚染泥土が出ました。それを横須賀から「チャーリー海域」に持ってきて捨てていたんです。私たちは県議会で問題にしまして、全員一致で反対決議も出ました。その横須賀港の汚泥を積んだ船が行くときは漁船の航行は控えてもらいたいというのが防衛施設局からの要請であって、千葉県漁協連はそれに対して繰り返し交渉していたという背景があるんです。しかし「ジョージ・ワシントン」の配備が目前に迫ったこの2月の段階で、浚渫のスケジュールが押してまいりました。この事件が起こるほんの1日半前ぐらいに、防衛施設局と千葉県漁協連との間で話し合いがつきまして、双方で航行に注意するということで、浚渫汚泥船と漁船が同時航行して良いというのが決まった。その直後にこの事件が起きたわけです。ミサイル防衛の問題もありますが、こういう「ジョージ・ワシントン」配備など米軍・自衛隊とのからみのなかで、尊い2つの命が失われたことを、地元から強調しておきたいと思います。

◎元神戸商船大学の照井と申します。海難審判の手続のことについて、補足します。田川先生が最後に受審人のことを述べられましたけれども、「あたご」事件では船長さんと息子さんが亡くなられて、受審人が不在ですね。それで海上自衛隊だけが出席した。「なだしお」事件のときは近藤船長が受審人となって、官対民の関係で争われました。そして田川先生が補佐人となって、相手の自衛隊の資料も閲覧することができた。今度は受審人が不在ですから、官対官で、民の立場は出てこないんですね。海難審判規則では海難に利害関係のある者は審判を申し立てることができるはずです。やはり利害関係ある者を受審人の代わりに出席させれば、補佐人とともに官対民の関係をつくることができた、ということを申し上げておきたいと思います。

◎自衛艦は海技免許を持たなくていいというお話がありました。それと安全航行装置ですか、それを自衛艦には配備する義務はないというお話。そのへんの根拠といいますか背景はどういうことなのでしょうか。

◎田川 海技免許の件ですが、一般に船員は国交省の大臣名で1級海技士とか2級海技士の免許を与えられます。それを持っている船員は航海者、要するに船長として認められて操船できるわけですが、自衛隊はそういうわが国の法制度のアウトサイドにいるわけです。したがって海上自衛隊の内部試験に合格すれば艦長として操船できるという仕組みになっておるんです。海上自衛隊は、一般の1級海技士と同等以上の能力がないと内部試験に通らないと言っているんですが、そうであれば海技士試験を受ければいいじゃないかと思いますが。海上自衛隊は軍隊の範疇に入るものですから、内部でやるということなんです。AISも国際的な取りきめで、安全のためにそういう設備をつけるように定められておるんですが、これまた一般の船に対してですから、軍艦のたぐいはその対象になっていないんです。ただAISを積んでいたおかげで、「あたご」がどういうふうに動いたかが、1分単位で分かる。動静を知られたくない自衛隊としては付けたくないという気持ちは分かりますが。

◎私は鉄道の駅員を41年やってきたんですけど、3つ疑問を感ずるんですね。ひとつは、艦長が混んでいることを知らなかったと。これは全くふざけたことですね。ラッシュアワーだったら新宿は7時から9時まですごく混んでいる。それを知らなかったと平然と言っている。それから鉄道では事故が起きると警察沙汰になるわけですが、警察が来る前に全部、運転手がどこでブレーキを止めたか、想定を作っちゃうんですよ。改竄は当たり前。3つ目は、事故が起こったらどうするかと。上りの電車が事故を起こしたら、私たちは下りの電車が来たときのことを考えて、その対策を練るんですね、すぐに。まったく簡単な話です。「あたご」乗組員はなぜすぐに海に飛び込まなかったのか、不思議です。

◎杉原 なぜ飛び込まなかったかという話ですが、僕も最初に報道で見たときに、せめてそういうことだけでもできないものかと、率直に疑問を感じました。「あたご」は特殊部隊用のボート、これはフランス製の高速艇で、船舶立入検査、いわゆる臨検のときに使うためにイージス艦では初めて搭載したらしいんですが、そういう装備を積みながら、衝突事故という基本的な事故に対する対応が何もできなかった。そのギャップというものは本当に激しくて、その問題がどういうふうに解明されるのかということをきちんと見ていくべきだなと感じています。

◎会社員です。実際に衝突してしまったわけですが、この衝突を避けるためには、「あたご」はどのような航法をとれば衝突が避けられたとお考えでしょうか。それともう1点はテレビのニュースの記憶なんですが、事故が起きた当日か翌日かは忘れましたが、注意喚起信号を「あたご」から漁船に、発光でですね、行ったと。その注意喚起信号を、亡くなったお父さんが僚船に対して無線で、「光でピカピカやられたよ」と話したとニュースで聞きました。この注意喚起信号がなぜ生かされなかったかを、どのようにお考えでしょうか。

◎田川 この場合にイージス艦は、船にはブレーキはありませんけれども、速力を落とすと、清徳丸も康栄丸もみんな自分の前をかわして行くので、それから右転しながら進めばよろしい。いずれも操船としてはきわめて容易なことです。余裕があるときに信号が出ておれば、清徳丸も避航する動作がとれたものと思われますが、注意喚起信号が出たかどうか、定かではありません。そういう事実は海難審判では認定されていないんです。

◎海難防止協会の大貫です。私も海事専門家としてこの間、さまざまなメディアで海自に厳しい指摘をしてきましたが、ひとつ気になることがあります。レストランに例えますと、町中のレストランとは違って、自衛隊の場合は全国展開のチェーン店ですね。全体で安全対策をやってもらわないと困る。実は私は防衛庁時代には招かれてよく一般船舶との間の安全対策で講演したんですけれども、市ヶ谷に移ってからはそういうことはなくなりました。この56年の間に教育訓練が疎かになっているような気がするんですが。

◎田川 ご指摘の通りで、いわゆる軍事訓練は何回でも念入りに行われるのですが、海上の航行安全という訓練はないがしろにされているのではないか。「なだしお」のときに十分にやるし継続的にやると高等海難審判庁で自衛隊が供述したので、そのときは勧告をされなかったんです。今度は横浜の審判書もたぶんそういう記録は見ておりますので、今回は勧告をやるべしということになった。ご指摘の航行安全、とりわけ日本近海での一般商船との関係でどれだけ訓練が行われたか、きわめて疑問です。外部から講師を招いて学ぶことをしないもんですから、ますます閉鎖的な傾向は治っていないと言えると思います。

◎自衛隊というのは上から与えられたことしかしないんですね。ソマリアに行く自衛隊も、標的に当てる訓練しかしていないんです。ところが海上保安庁は当てない訓練をしている。ですから非常に危機感といいますか、心配をしています。

◎海上衝突予防法では、衝突の直前の、衝突を避けるための最善の動作をどうとるのか。清徳丸も「あたご」も、どうような動作をとればよろしいとお考えでしょうか。

◎田川 第17条は「保持船」、本件で言えば清徳丸の動作について決めてございますが、衝突を避けるために最善の協力動作をとらねばならない、という規定があります。つまり近い例で言えば、清徳丸は青信号で進んでいたんですが、横から赤信号にもかかわらず入って来る大型の船がいたら、危ないと思えばブレーキを踏まなければいけませんよ、という規定なんです。船にはブレーキはなくて、スクリューを逆回転して行き足を止めるという動作をとります。10万トンクラスのタンカーは、156ノットのスピードで走っておりますと、ストップしようとしても2キロ進むんです。ですからできるだけ早期に、少なくとも3分とか5分前には行動をとらなければいけない。

最後にひとこと

◎大内 私は千葉県嚶鳴村(現旭市)に生まれて小さいころから海に親しんできたので、千葉の海には個人的な感情を持っています。いま御宿町のリゾートマンションに通っていますが、この町から湾の向こうに川津港が見えます。それで今回の事件には思いが深くて、二度とこんな事件を繰り返してはいけない、どこの団体もこの事件を検証する集会をやらないのなら、ぜひ私たちがやりたいと思いました。先週末には川津に行って、吉清さん親子の墓参りもいたしました。今日のシンポジウム会場には、じつは川津からご親族の方にも参加していただいておりまして、このような集会を成功させることができたのを、ありがたく思っております。

◎杉原 最初のお話の中でも強調したんですけれども、本来イージス艦という船は冷戦が終わったときに廃船にすべきだったということです。もう20年前になりますけれども。その後、後付けで新しい任務を付け加えて生き延びている。軍隊自体が敵を作り出していくというシステムなんですが、そういう中でミサイル防衛を非常に大きな「錦の御旗」としてイージス艦が強調されることになっています。つい最近の報道でも北朝鮮がまた人工衛星を打ち上げるという中で、「こんごう」や「ちょうかい」が日本海の作戦区域に出動準備をしていると言われます。今回の事件はある意味で、私たちに対する非常に大きな警告でもあると思っています。もういちどイージス艦という船の正当性というのか、本当に私たちにとって必要なのかということを、しつこく問いかけていくことが必要だと思います。放っておけば「あたご」は新しいSM3ミサイルを搭載してミサイル防衛作戦に加わることが予想されます。アメリカ軍と共同の軍事作戦を担っていく目玉の船として動いていく可能性が高いです。そういう未来が現実のものとしてスケジュールに上ってくる中で、2人の尊い命を奪ったことが、私たちにとっては大きな教訓として、イージス艦自体を見直していく機会になったと思います。

◎田川 海上自衛隊が今度、ソマリアの海賊対処で現地に派遣されるというので、立法作業が準備されております。確かに自衛隊に期待する声もあります。しかしそれは対症療法なんであって、根本的なあの国の政情不安をなくするということをしないで、やられたらやり返せというような風潮は、警戒しなければならないと思っております。

2009/03/25

3.7シンポジウム報告 海難審判で何が争われたか

1_2 田川俊一(弁護士、日本海事補佐人会会長)

「海難審判で何が争われたか」というテーマに沿って、海上衝突予防法の条文の一部と、いくつか資料を用意してきましたので、まずこれを説明します。

資料1の海図W61B、これは本物の海図の一部分をコピーしたもので原寸です。図の下のほうにと描いたところがありますが、これが衝突地点です。野島埼灯台から190°22.9マイル。衝突地点からずっと北の方を見ますと、「野島埼」の灯台のマークがございます。外国から帰ってくる船員がみなこの野島埼灯台を見ますと、たいへん嬉しく思う。ああ、日本に帰って来たな、というところなんです。

右のほうに勝浦から航跡を引いてあるのは清徳丸の針路で、215°の方向になっております。真北が0°、真南が180°なのはご存じのとおりです。その清徳丸は針路215°、速力15.1ノット、これは海難審判での事実認定から描きだしたものです。1ノットは1852メートルを1時間で行くスピードですので、時速約30キロぐらい、たいした速度ではないですが、船としてはそこそこの数字です。

右下から上(北)方に延びているのはイージス艦「あたご」の針路で、328°、速力10.6。このまま進んで行きますと洲崎沖、館山の西端あたりに洲崎灯台がありますが、これを右舷に見て、それから浦賀水道を通って観音崎を見て、北上し東京湾に入って横須賀に入るという、進路になります。

資料2は昨年3月28日付の『赤旗』記事ですが、私、田川が「データ公表は義務である」とコメントを書いております。「事故原因は海難審判庁や裁判所が判断しますが、最終的な判断を下すのは国民です」とあります。

資料3も『赤旗』で今年の1月23日付、海難審判の裁決が出た後のコメントです。海難審判で海上自衛隊に責任があることが明らかになった、したがって「あたご」の艦長にも勧告すべきである、ということです。

資料4も同日付の『日本経済新聞』ですが、最下段に私のコメントがひとこと出ております。「なだしおが教訓とされずに繰り返された事故で、海自が安全な航行を継続できるかは疑問。世論の監視と外部に開かれた再発防止策が必要だ」と。

自衛隊は今後は事故が起きないように教育・訓練をしますと、20年前の「なだしお」事件の時に繰り返し言っていたんです。ところが今回の事故を見ると、安全航行の基本である見張りができていなかった。

資料5は平権懇が「なだしお」事件翌年の1月に発行した『釣船轟沈 検証・潜水艦「なだしお」衝突事件』という本の目次です。なぜ20年前の本の目次を持ってきたのかと言われそうですが、見ていただくと分かります。「海軍化しつつある海上自衛隊」「街の暴走族と同じ」「市民感覚から遠い自衛隊」「起こるべくして起こった事件」「“軍機”より真相を国民の前に」というようなことで識者の方がそれぞれ短い文章を発表していますけれども、これが今回の事件とまったく変わっていません。つまり海上自衛隊は国民の審判といいますか批判をかわしつつ、本質的には従前の体質が変わっていないことが明らかではないかということを言いたいわけであります。

「あたご」事件の概要は、新聞その他で出ておりますことですし、説明は簡単にします。

「あたご」はハワイ沖合で米海軍と共同で、積んでおる武器にかかる「装備認定」、つまり装備がうまく働くかどうかをテストをしたわけです。このテストはたいへん厳しいもののようです。そのような試験を終えて、パールハーバーを発して横須賀に向かった。19日の午前3時ごろには野島埼沖を328°の針路で進んでいた。本当に進む方向は風と波の影響を受けて4°ずれて進んでいたのですが、大きな違いはありません。速力は10.6ノット。

いっぽう清徳丸は、同日0時55分に勝浦の漁港を発して、三宅島方向の海域にマグロ漁業に行くために、同じ海域を針路215°、速力15.1ノットで進行していた。

2 さて、これから見ると明らかなように、「あたご」からは清徳丸を右舷サイド、右側に見ることになります(資料1)。海上交通ルールでは、このように横切る場合は他船を右に見る船のほうが右転をしてかわせというのが原則で、これが世界的ルールとして条約になり、国内法では海上衝突予防法になっています。海上衝突予防法の第15条に規定がございます。道路交通法ならともかく、海上衝突予防法については船員以外の人では知らなくて当然ですが、ここだけを見れば明らかです。「横切り」とは何かと。「2隻の動力船が互いに進路を横切る場合において衝突するおそれがあるときは、他の動力船を右げん側に見る動力船(本件ではあたごになります。「他の動力船」が清徳丸です)は、当該他の動力船の進路を避けなければならない」(予防法15条)。

避けるためにどういうことをしなければならないかというと、第16条に、「この法律により他の船舶の進路を避けなければならない船舶(これを「避航船」と言いますが)は、当該他の船舶から十分に遠ざかるため、できるだけ早期に、かつ、大幅に動作をとらなければならない。」というふうに、明確に書いてあるわけです。

これらは「あたご」の艦長、当直士官、あるいは見張り員も含めて、海事関係者であれば誰でもいちばん最初に勉強する海上衝突予防法で、しかも、もっとも基本的な条項なんです。これを多少でも知っておれば、漁船が右から来ている、このまま行けばやがて衝突する、どちらの船が避航すべきかといえば我々である、ということがすぐに分からなければいけない。「大幅に、早期に」衝突を避けられる動作をしなければいけない。この例で言いますと、イージス艦「あたご」は速力が10.6ノットでしたから、大幅に速度を下げる、あるいは右に曲がって清徳丸の後方(船尾)をパスするようにすれば安全にかわすことができるし、その程度の動作をすることは何でもないことなんです。しかし「あたご」の艦橋には10名とか11名の者がいたんですが、誰もこのことに気がついていなかったということが、結果としては言えるわけです。

一般商船ですと、日本近海に近づいた、東京湾に近づいたとすると、東京湾から出る船、入る船、南北また東西に航行する船舶、船舶交通が輻輳する海域ですから、当然緊張します。一般商船はせいぜい3人くらいですが、それでもきちんと見張りをする。「あたご」はいったいブリッジで何をしていたのか、と言いたくなります。ただ自衛隊というのは縦割りですので、見張りは見張りだけしていて余計なことをしてはいけない。舵をとる人は舵をとればいいのであって、余計なことをしてはいけない。与えられた任務だけやれというのが組織の鉄則のようです。ただその背景は、漁船はいたって構わないと、「私は菊の御紋を背負った軍艦である」という意識があって、真剣に見ていなかったのではないかというふうにも思われるわけです。

そこで、先ほど出ました潜水艦「なだしお」事件とイージス艦「あたご」事件とを比較して見てみたいと思います。潜水艦「なだしお」事件は20年前の1988年7月23日、これは東京湾の横須賀沖でした。イージス艦「あたご」事件2008年2月19日、これも東京湾の入口である野島埼の沖合で事故が起きております。

共通点を見ますと、まず「なだしお」と「あたご」、両艦船ともに自衛隊ではその当時の最優秀艦なんです。「あたご」は事故の前年に生まれたばかりですね。「なだしお」も新しい潜水艦で、優れた機能を有していたわけです。私は「なだしお」事件のとき第一富士丸の補佐人を務めて、現場検証で「なだしお」の艦内まで昇って見ましたが、計器と機械がぎっしり詰まっている。しかしこれは航行の安全というよりも、敵艦を発見してやっつけるという目的のもので、軍艦ですからそういうふうになるんですけれども、じつに見事なものでございました。「あたご」はイージス艦でありますから、100機ぐらいの敵をいっぺんに発見してやっつけることができるという、優れた性能を持っているわけですが、肝心な漁船をよう見つけなかったということは何故かということです。

また、両事件はいずれも平和な海で、自衛艦が民間船と衝突し、重大な結果が発生したという点でも同じであります。「なだしお」事件では、週末に釣りを楽しみたいという乗客が28名、乗組員2名の30名が亡くなりました。「あたご」事件では清徳丸の船長とその息子さんが2人とも亡くなった。まことに重大な、痛ましい結果が発生しています。

次に共通点としては、海上交通ルールを見ますと、いずれも自衛艦側に避航義務があります。「なだしお」事件では、「なだしお」は富士丸を発見していたんですけれども、自動車の運転に例えればまずブレーキを踏む、それからハンドルをとる、という動作が基本ですが、「なだしお」はアクセルを踏んだわけです、富士丸の前を突っ切ろうと。その判断が誤りであって、衝突にいたった。「あたご」も避航義務を守りませんでした。

その前提となる見張りですが、「あたご」はいちばん始めは衝突の2分前、自分の前方右側に緑の灯火(右舷側の灯火)を確認したと言っていました。突然漁船が現れたと強調したいためにそう言ったのかも知れませんが、緑の灯火が見えたら衝突するわけがない。なぜそんな見え透いたことを言うのかと一斉に非難を浴びたら、実は初認は衝突の12分前だったと言い換えた。さらに30分前には右のほうに見えていたと主張を変えてきているわけです。いずれにしても見張りがきちんとできていなかった。

また海上自衛隊は両事件ともに、事実をそのまま発表しないで情報操作をしていたのではないか。「あたご」の乗組員をヘリコプターで呼んできたり、また陸から幹部が艦に行ったり、捜査が入る前にいろいろ動いていたということが明らかになっております。そのこと自体は仮にあったとしても、その中身を公表しないことで、情報操作をしているのではないかと思われても仕方がないわけであります。

「なだしお」事件では『朝日新聞』がスクープしたのですが、「なだしお」は航泊日誌を改竄しておったということを大きく取り上げた。「なだしお」の艦長は富士丸の30名が死にかかっているときに、艦長室で航泊日誌の改竄、衝突時間を2分ずらしたんですが、それをせっせとやっていたわけです。航泊日誌はふつうの商船では航海日誌と言いますけれども、機械的に船の動静をつける公の日誌です。漁船が突っ込んできたと言うためには、衝突時刻を2分ずらした方が言いやすくなるんです。単純に航泊日誌だけ書き換えたのではよろしくないので、チャート(海図)といって、いつどこを通ったということを記載し記録に残すんですが、それを1箇所をずらしたものですから数箇所を変えなければならない。せっせとそういう作業をやっていたわけですから、いかに自己保身を優先させたかということが明らかです。

富士丸では助けを求めて泳いでいる人が多いということが分かっているわけです。「なだしお」には屈強な若者が乗っているわけですから、飛び込むくらいの気概は持てと、海難審判で私も主張したんです。ところが、飛び込みは艦長の命令がない限り、たとえ目の前で溺れている人がいてもできないんだと。艦長は全体的な安全を考えて、飛び込んでも何にもならないから命令しなかったということでした。

また「なだしお」には救命艇、ライフボートがあるんですが、これをなぜ出さなかったか。ライフボートは潜水艦員を助けるためのものであって、民間人を助けるものではないと説明されました。いつ使うかというと、潜水中に何らかの事故で潜水艦が上がらなくなったとき、乗組員が水上に出て乗るのがライフボートであると。軍組織の優先ということを名実共に実践しているところであります。

「あたご」事件で大きな問題なのは、相手の船(清徳丸)の方位が変わらないように見えたので、速力がないと思ったという、乗組員の証言です。方位というのは自分の船から相手の船を見た角度をいうんですが、方位が変わらなければ衝突するわけです。子供が聞いても分かるようなごまかし、つまり自分には責任がないんだということを言いたいんでしょうが、その拠って立つ理論がなっていないのであります。

しかし国民世論、「あたご」はおかしいんじゃないかと言われて、少なくとも表面的には謝罪しなければならないところに追い込まれたわけですから、艦長は遺族を訪れて謝っていた。

海難審判では、衝突の原因、過失はどうであったかということが、第一に争われたわけです。自衛隊は、今まで悪うございましたと謝罪していたのが掌を返すように、あの事件は我々に原因はないと、清徳丸が進路を変え速力を変えたから衝突した、つまりわが艦の前方にわざと出てきたのではないか、ということを海難審判で言い始めました。

海図(資料1)を見ていただきますと、215°で清徳丸は進んでおりましたが、海難審判での自衛隊側の主張では、これを1マイルくらい南にずらすわけです。清徳丸が1マイル南を通ると衝突しない。そういうはずであったのに、「あたご」に近づいてきた清徳丸が今度は右に舵を切って、わざわざ「あたご」の前方に出てきたので衝突した。そう言い始めたわけであります。それはおかしいと審判官から批判されても、最後までその主張を曲げなかった。徹底して主な原因は清徳丸にある、漁船にあると、最後まで言い続けていたわけです。

なぜそうなるかというと、海難審判は受審人とか指定海難関係人が両方にいる場合に  互いの主張を聞けるのですが、清徳丸乗組員は死亡していましたので、それができなかった。したがって片裁判、海上自衛隊の乗組員と、それを補佐する弁護士だけで審判が行われて、厳しく詰めるという作業ができなかった。ある面では自衛隊は言いたいことを言っていたということであります。

そこには、いわゆる海軍意識、菊の御紋を背負っているという意識が根底にあるのではないか。民間船が自衛艦を避けるべきであって、海上交通ルールなんかはわが海軍には通用しないというふうな意識が根底にあるのではないか。本来、民主主義のもとでは国民が主権者で、公務員は公僕なんですね。ましてや自衛隊という大きな権力と暴力装置をもつ組織は、これを徹底的に尊重しなければならない。ところが、我々は国防のために日夜努力しているんだから、国民はその我々を敬って避けなければならないと。

今回、海難審判で海上自衛隊という組織に勧告が出たということで、海上自衛隊がどういう組織になっているか、よく分かるということを申し上げたかったわけです。

2009/03/21

3.7シンポジウム報告 イージス艦「あたご」とはどのような船なのか?

1

杉原浩司(核とミサイル防衛にNO!キャンペーン)

 冷戦終結で廃艦にすべきだった

 「飛んだら、即、死だ」という言葉があります。英語では“if it flies, it dies !”、これがイージス艦のスローガンとして使われているそうです。そもそもイージス艦の「イージス」という言葉の由来は、ギリシャ神話の最高神ゼウスの盾なんです。つまり最強の盾という意味から、こういう命名になったと言われています。イージス艦の能力と特徴は、同時に複数の目標に対処する能力を兼ね備えた、海軍史上最強の軍艦であると説明できます。具体的に言えば、複合的に装備したさまざまなレーダー装置とコンピューターによる制御発射装置を、CICと呼ばれる戦闘指揮所で統合的に運用しています。

 その能力は、半径300マイル、1マイルが1.6キロですから480キロぐらいですが、その範囲の目標100個を同時に探知して、そこにミサイルや速射砲による同時多発攻撃を行って、破壊できると言われています。そこから、冒頭の「飛んだら、即、死だ」というスローガンが出てきています。

 では、どういうミサイルを積んでいるのでしょうか。「あたご」はハワイでの実験帰りに事件を起こしたのですが、その際の実験は「スタンダードミサイル2(SM2)」の実射試験です。これは主に航空機に対する迎撃ミサイルです。そして、SM3というのは、ミサイル防衛(MD)用の新しい迎撃ミサイルです。弾道ミサイルに対する迎撃が可能とされており、あたごには積まれていませんが、「こんごう」や「ちょうかい」というイージス艦には積まれています。加えて、毎分4500発撃てるという速射砲、さらに、海上自衛隊はまだ搭載していないのですが、アメリカのイージス艦にはご存じの通り、トマホークという有名な巡航ミサイルが多数装備されています。現在は、射程が長くより強力な「タクティカル・トマホーク」という最新型になっています。横須賀に数多くの米イージス艦が配備されていますが、そこに搭載されているトマホークの垂直発射管の総数は、500発を超えると言われています。

 歴史を少し遡りますが、そもそもイージスシステムの研究が始まったのは1972年、まだベトナム戦争が終わっていない、冷戦期です。イージスシステムの重要部分は、あたごが就役した直後の雑誌の写真(写真週刊誌『FLASH』)を見ていただくとわかりますが、真ん中の高くなっている艦橋の4面に、8角形の板状のものが付いています。この中に1面あたり4000個を超すレーダーの素子が入っています。これが、イージスシステムの要であるフェイズド・アレイ・レーダー(SPY-1)といいます。この研究が1972年に始まり、1977年には2つの目標を同時に撃墜する試験に成功します。これがイージスシステム誕生の瞬間です。もう30年以上経ちますね。

 どこが作っているかということですが、アメリカのロッキード・マーチンという、世界最大規模の軍需企業が主要な契約企業となって製造しています。とりわけ中枢のシステムは最高の軍事機密の塊で、「ブラックボックス」と呼ばれるのですが、この部分については日本側はいっさい触れることができない。ですから、修理やメンテナンスのときは、いちいちアメリカに持ち帰って修理をする形になっています(「GSOMIA」という日米の軍事秘密保全協定が締結された際、修理を日本の軍需企業に開放するという案があったが、採算上の理由で断念されたと報じられた)。

 そもそもイージス艦は何のために作られたのでしょうか。冷戦時代の仮想敵・ソ連が、とくに太平洋艦隊を中心に、アメリカに対抗して軍拡競争をやっていました。ソ連はバックファイアという非常に強力な爆撃機を開発し、多数の対艦ミサイルを発射できる能力を持っていました。その攻撃から空母を守るためにイージス艦が作られたのです。

 そう考えると本来、イージス艦は冷戦が終わった1989年、そしてソ連も崩壊したその時点で、そもそもの歴史的な役割を終えていたはずの船なんです。イージス艦に留まらず、日米安保条約自体も同様ですが、あの時点で市民の側が「イージス艦はもういらない」「無用な兵器だ」という声を上げて、廃艦にさせるぐらいの働きかけをすべきだったのでないかと思っています。それができていれば、当然ながら今回のような事件は起こりようがありませんでした。

 新たな任務―先制攻撃とミサイル防衛

 では、ポスト冷戦の時代にイージス艦は何をやったのでしょうか。中東での1991年の湾岸戦争、そして2003年に始まって今も続いているイラク戦争において、横須賀から出かけて行って、開戦時に先制攻撃の役割を担いました。湾岸戦争では「バンカーヒル」というイージス艦が、そしてイラク戦争では「カウペンス」というイージス艦がトマホークミサイルを発射して、イラクの人々を虐殺する最初の役割を担いました。その後、ミサイル防衛という新たな任務が加わっていくことになります。

 それでは、日本のイージス艦配備がどのようになされてきたのかを見てみましょう。背景には米国の圧力があると思いますが、海上自衛隊にアメリカの空母をはじめとする第7艦隊を守らせる、さらには共同作戦まで視野に入れていくという流れの中で現在に至っています。1993年の3月に、一番艦である「こんごう」が就役し、佐世保に配備されます。これにより、日本はアメリカに次いでイージス艦の保有国になりました。その後スペインやノルウェー、韓国が保有しますが、ほんの数カ国でしかありません。

 1998年までに「きりしま」が横須賀に、「みょうこう」が舞鶴に、昨年11月にハワイでSM3の実験を行った「ちょうかい」は、「こんごう」と同じく佐世保に配備されました。ここまでが、いわゆる「こんごう型」イージス艦4隻です。

 その後、現在アメリカで最も性能が高いとされる最新型イージスシステム(ベースライン7)を搭載したあたごが、2007年の3月に就役します。そして、衝突事件が起きた後の2008年には、何の反省もないまま、同じ「あたご型」のイージス艦「あしがら」が就役してしまいました。あしがらの就役に対しては、あたご事件の余韻が冷めておらず、問題の究明もなされていない中で、同型のイージス艦を就役させていいのか、少なくとも凍結すべきではないかと言う声を、本来ならば上げるべきだったと思います。残念ながら、むざむざと6隻目のイージス艦の就役を許してしまいました。

 日本のイージス艦には、たいへん巨額な税金が投入されました。こんごう型が約1200億円、あたご型は約1400億円にのぼります。6隻で7600億円もの税金が投入され、システムの維持費だけで1隻に毎年10億円かかると言われています。ロッキード・マーチン製のイージスシステムという中枢部分は特に高額で、約750億円に達し、全体の半分を占めています。船体は日本の軍需企業が製造しており、1隻だけはIHI(旧石川島播磨重工)、その他は三菱重工だったと思います。三菱にとっては非常に大きな契約になっています。

 では、日本のイージス艦に今後どういう役割が想定されているかですが、勝山拓という元自衛艦隊司令官は5つくらいを挙げています(『世界の艦船』2007年8月号)。一つ目は、「周辺重要海域の警戒監視と海洋権益の防護」です。海洋基本法という法律が宇宙基本法より前に作られたんですが、中国などを意識して、権益が競合する海域での日本の海洋権益を守れということで、そのために監視をするという役割です。

 2番目は、「重要海域のシー・コントロール」。中国の潜水艦の動きを封じ込めることなど相手の活動を制限することが想定されています。3番目は、「島嶼防衛」、離島に対する侵攻を抑止したり阻止したりする。4番目が、旧来から言われている石油等の運び道を守るという「シーレーン防衛」。そして5番目が、最近脚光を浴びている「弾道ミサイル防衛」ということになります。

 おそらくこのままいけば、これらに加えて巡航ミサイルの搭載もあり得るでしょう。ミサイル防衛だけでは弱いので、敵のミサイル基地への攻撃能力を持つべきだという声が既に出ています。アメリカからトマホークを購入しイージス艦に積もうという動きが、いずれ浮上することは間違いないと思います。今あるイージス艦のミサイル発射装置もそのまま使えるようです。

 やはり問題とすべきは、ミサイル防衛という新たな任務です。アメリカは、日本をミサイル防衛の格好の最前線基地として、「米国防衛のための盾」として位置づけて、世界の中でも突出した形で、ミサイル防衛の配備を進めています。横須賀基地には、「シャイロー」の配備を皮切りに、計5隻のミサイル防衛に対応したイージス艦を配備しています。すでに日本海に作戦海域を設定して、北朝鮮からハワイに向かうミサイルの迎撃を想定した訓練を何度かやっています。さらに、自衛隊のイージス艦もそれに同行する形の共同訓練も始まっています。

 海上自衛隊の場合は、先ほどお話ししましたが、こんごう型のミサイル防衛対応の改修が進んでおり、現在2隻、さらに2隻の改修が予定されています。

 イージス艦はもともと、同時多発攻撃に対抗できる強力な攻撃能力を持っていたわけです。アメリカの場合はトマホークを積んでいますから、相手に対して脅威を与える艦船だったのですが、そこにミサイル防衛システムという盾を兼ね備えることで、文字通り史上最強の軍艦へと進化を遂げたわけです。ようやくいなくなりましたが、ブッシュ大統領が「ブッシュ・ドクトリン」と呼ばれる先制攻撃戦略を表明して、未だに撤回されてはいないんですが、それを船として体現するのがイージス艦だと思います。

 今やアメリカの軍事戦略そのものが、ミサイル防衛の配備を通して、宇宙空間を支配しながら、地球上のどこにでも1時間以内に先制攻撃を仕掛けることができるようになってきている。「グローバル・ストライク」、地球規模攻撃と言われる態勢を整備するに至っています。その意味では、立命館大学の藤岡惇さんが言われていますが、戦争自体が「イージス化」している。盾と矛を備えた先制攻撃型の戦争に、アメリカの戦争システムが進化しているのが現状です。

 「はらわた」見せ合う危険な関係  

 このミサイル防衛が何をもたらしているのか、問題点をいくつか挙げてみましょう。

 ひとつは軍需産業の問題です。ふだんはあまり報道されていませんが、ミサイル防衛の導入を通して、日本でも「軍産学複合体」が、もちろん日本の場合はまだスケールは小さいのですが、確実に台頭しています。日本の軍需産業が、アメリカのそれと一体化しつつあります。対等に一体化するわけではなく、アメリカの戦略に組み込まれる形で、従属する形で一体化する、統合されていくというプロセスがいま進んでいます。

 象徴的なのが、おそらくあたごが将来的に搭載すると言われている、次世代型の新しい海上配備型迎撃ミサイルである新SM3というミサイルです。それをいま日米が共同開発しています。日本側は、三菱重工を中心に、「ノーズコーン」と呼ばれる、ミサイル先端を保護する覆いなどを開発しています。

 この共同開発を「はらわたを見せ合って」行おうという、すごく象徴的な発言がありました。これは、大古和雄さんという防衛庁(当時)の防衛政策局長による、2006年の日米安保戦略会議での発言です。守屋武昌前防衛事務次官らの軍産疑獄事件で逮捕・起訴された、秋山直紀という軍需産業と政治家をつなぐ「フィクサー」が仕切って行った会議です。2003年に始まり、初期には国会脇の「憲政記念館」という憲法を記念する施設で開催されました。迎撃ミサイルの実物大模型などの兵器展示もしながら、日米の軍需産業や「国防族」議員、シンクタンク関係者が一同に会して、ミサイル防衛をはじめとした日本の軍備強化について議論を繰り広げました。

 私も2003年と2005年に正式に申し込んで入場して、写真も撮ってホームページに載せています。その会議の場で大古局長が、新しいミサイルの開発のためには、日米双方が「はらわたを見せ合う」ことが必要だと発言したのです。「はらわた」とは要するに最高度の軍事機密です。それを見せ合って、世界最先端のミサイル防衛システムを開発していこうじゃないかというわけです。

 将来的には、現在のイージス艦よりもさらに機能を強化した、新しい大型のイージス艦(CGX)、1隻なんと約3800億円かかると言われていますが、その中枢システムの開発を日米でやろうという提案がなされています。リチャード・アーミテージという元国務副長官と、オバマ政権の駐日大使に起用が内定したジョセフ・ナイとが共同議長になって、2007年2月に発表した第二次の報告書に、その要求が書かれています。アーミテージ自身も来日講演で、その必要性を強調しています。そうしたシステムに日本の軍需企業が組み込まれ、それに留まらず、コンピューターなどの日本の民生技術も組み込まれていくプロセスが、いま急速に進展しています。

 そして見逃せないのは、このミサイル防衛を通して、歴代政権に作ることを余儀なくさせてきた憲法9条に基づく平和原則が、なし崩し的に骨抜きにされつつあることです。武器輸出禁止三原則は、ミサイル防衛を例外にするという形で、日本の武器部品がアメリカに渡ります。また、アメリカ向けミサイルを自衛隊が迎撃することも想定されており、集団的自衛権の不行使という原則に違反することになります。さらに、宇宙空間で撃ち落とすわけですから、宇宙の平和利用原則(宇宙基本法成立により崩されましたが)に抵触しています。

 そのことと絡みますが、「スターウォーズの危険」も指摘せざるを得ません。アメリカは2008年2月に、ヒドラジンという有害物質が積まれており落ちたら危険だという口実で、自国の偵察衛星をSM3ミサイルによって破壊しました。ということは、自衛隊が保有するSM3も衛星破壊兵器(ASAT)として転用可能なことを示しています。その意味では、非常に危険なミサイルを自衛隊は持っていることになります。

 加えて、ミサイル防衛の問題点の中で見過ごせないのは、ハワイにミサイル防衛などの航空作戦を統括する司令部が置かれ、それと直結する形で横田基地に日米共同統合作戦センターが作られようとしていることです。府中にある航空自衛隊の司令部を横田に移転させるために、約500億円をかけた工事が進んでいます。年明けの1月15日にも、市ヶ谷の防衛省を中心に、ミサイル防衛作戦も含んだ「キーン・エッジ」という日米共同演習が行われたばかりです。

 「ジョージ・ワシントン」という原子力空母が横須賀に配備されましたが、この空母とイージス艦などが探知情報を共有して、相手の攻撃に対してより強く守りながら反撃していく、CEC(共同交戦能力)というシステムも導入され始めました。「空を見張る巨大な目」と例えられますが、そういう形で、確実に横須賀の第7艦隊の能力も強化されています。

 海は誰のものでもない

 さらに、今回のあたご事件にも関連する非常に大事なポイントですが、あたごが起こした事件の直前に行ったのが、SM2という対航空機用ミサイルの約31億円もかけての実験です。海自のイージス艦が何度もハワイに出かけて行って、30億円もかかる実験を繰り返してきていたのです。

 ミサイル防衛用のSM3の実験も、カウアイ島にある太平洋ミサイル射場という同じ実験場で繰り返されています。その模擬ミサイルの発射施設は、実はハワイの先住民が先祖代々墓地にしていた土地を、事実上強奪する形で建設されています。そもそも、1893年にハワイ王国をアメリカの海兵隊が侵攻して武力転覆させ、1898年に併合したという歴史があります。その後、島の大事な土地に150以上の軍事施設が建設されました。聖なる山々にはレーダーが配置され、海の中にもソナーが設置されて、クジラや魚たちに被害を与えています。ミサイルが発射されるたびに過塩素酸塩などの有害物質が排出され、天然塩田や海に被害を及ぼしている事実も、ハワイの人たちからの告発によって明らかになっています。日本がこのハワイの実験場でSM2やSM3の実験を繰り返すということは、先住民に対する抑圧的な加害行為ですから、ハワイでの実験自体を見直すべきだと思います。太平洋ミサイル射場は閉鎖されるべきでしょう。

 昨年11月にハワイで行われた、ちょうかいによるSM3の実験は、見事に失敗しました。当たりませんでした。それにも関わらず装備が認定されて、ちょうかいに実戦配備がなされるという、まったくデタラメなことが進んでいます。日本のミサイル防衛に投入された税金は、すでに1兆円近くになっていますが、将来的には6兆円に及ぶとの試算(米ランド研究所)さえあります。

 最後に今後の課題を述べます。あたごの事件が象徴しているのは、そもそも海は誰のものでもない、軍艦の居場所など本来ないということではないでしょうか。その原点に返って考えるべき時だと思います。アーミテージは、「アジアはまず何をおいても海軍戦域であり、米国の防衛調達をそのニーズに合わせる必要がある」という発言を『WEDGE』(2009年1月号)という日本の雑誌でしています。まさしく武器商人としての面目躍如というところですが、彼らのなかでは海というのは戦域であり、兵器ビジネスの対象なんですね。しかし、それは大間違いだと思います。海というのはそもそも戦争をやる場所ではありません。自然と人間が豊かな恵みのなかで生きていく、そこを汚さずにそこで暮らしていく、そういう場所に本来すべきであるという視点が、今回あらためて問われているのではないでしょうか。

 ミサイル防衛の問題に即して言えば、ミサイル防衛のように兵器に兵器で対応すれば、軍拡競争が進展するしかないわけです。実際に北東アジアでは、ミサイル防衛やジョージ・ワシントンの配備などが中国を刺激し、中国が非常に多額の経費をかけて兵器を増強するという悪循環がすでに始まっています。そうではなく、やはり今こそ北東アジアを非核地帯、加えて、他国を攻撃できるような能力を持ったミサイルを配備しないという非ミサイル地帯に変えていくために、きちんと議論する場を持とうじゃないかという提案を、本来日本こそがすべきです。まず真っ先に、アメリカのイージス艦が装備しているトマホークの発射態勢を解除させ、順次撤去させていく、そういう働きかけこそが必要でしょう。

 最後になりますが、あたごの事件は、ある意味ではイージス艦をはじめとする海軍が持っている本質を、非常に象徴的な形で残酷に現してしまったのだと思います。ハワイの状況もそうですが、弱くしんどい立場にある人たちや、海に棲む生き物たちにしわ寄せを与えながら、海だけでなく陸も宇宙さえも支配して兵器を張り巡らすというアメリカの動きに、日本が一緒になって積極的に加担しています。けれども、そういうやり方はもう歴史的にも終わりにしなければいけません。特に、世界的な金融危機の最中で、貧困が拡大して環境問題を含めて私たちの生存自体が脅かされる状況になっています。そうしたなかで、税金をどういうふうに使うべきかという視点に立つとき、1隻1400億円のイージス艦や、総額6兆円にも達するような無駄で危険なミサイル防衛システムにお金を使うような時代ではないだろうという声を、より大きく上げていきたいと思っています。

<核とミサイル防衛にNO!キャンペーン>

[HP]http://www.geocities.jp/nomd_campaign/

[第2HP]http://www.anatakara.com/petition/index2.html

[参考図書]

『グローバリゼーションと戦争』(藤岡惇、大月書店)

『宇宙開発戦争~ミサイル防衛と宇宙ビジネスの最前線」

(ヘレン・カルディコット他、作品社)

『狂気の核武装大国アメリカ』(ヘレン・カルディコット、集英社新書)

『覇権か、生存か』(ノーム・チョムスキー、集英社新書)

『ミサイル防衛~大いなる幻想』(デービッド・クリーガー他、高文研)

『イージス艦入門』(イカロス出版)

『「戦地」派遣』(半田滋、岩波新書)

2009/03/19

3.7シンポジウム報告「あたご」事件とは何か

1 大内要三(平和に生きる権利の確立をめざす懇談会)

映像をいくつかお見せしながら、「あたご」事件の概要を説明したいと思います。

今回の事件で沈められた清徳丸は、まぐろ延縄漁船で7.3トン、15メートルの大きさです。第3管区海上保安本部がマスコミに提供した写真では大漁旗を掲げて10人ほどが乗船していますが、事件が起きた昨年2月19日には、吉清治夫さん(58)、哲大さん(23)の2人のみが乗船していました。日本漁業の零細化、人手不足を象徴しています。

 清徳丸の本拠、千葉県勝浦市にはカツオ漁で有名な勝浦港があり、ここには勝浦漁協がありますが、その東西に7つの小規模な漁港があって、新勝浦市漁協を構成しています。東から、豊浜、川津、松部、鵜原、興津、浜行川、大沢。清徳丸は川津の船です。事件のあった日は、同漁協から8隻が午前1時ごろほぼ同時に出漁しました。船団を組むような形になるのは、安全のためです。8隻のうちでも金平丸、幸運丸、第18康栄丸、清徳丸が一団となっていました。

いっぽう、漁船を沈めた海上自衛隊のミサイル護衛艦「あたご」は、07年3月就役の新しい船で、京都府舞鶴の第3護衛隊群所属、7750トン、165メートル、速力30ノット以上出ます。定員は290人ですが自衛隊は慢性的に人員不足で、281人が乗艦していました。「あたご」がハワイから横須賀までの航路をたどるのは、今回が初めてだったということです。

2 衝突は08年2月19日4時7分、現場は千葉県野島埼沖約40キロでした。大海の真ん中ではなく、東京湾に近い海上交通の輻輳する海域です。当日は朝から多くの報道ヘリが飛んで、分断された清徳丸や行方不明者捜索の映像を流しました。

これは単なる「海の交通事故」ではなく、事件性をもつことだと、まず強調しておきたいと思います。出会い頭に偶然ぶつかった不幸な事故、ではありません。「事件」と呼ぶのは、以下のような理由からです。

まず第1に、見張りの不備の問題があります。防衛省の報告文書でも、雨が降ってきたので見張員を甲板から艦橋へ移した。前直は定員を満たしていなかった。操業中の漁船と誤認して、引き続き注目して見張るよう引き継ぎをしなかった。お粗末です。

2に、衝突回避をしなかったという問題があります。少なくとも12分前に漁船群を発見しながら自動操舵のまま直進し、1分前にようやく手動操舵に切り替え、後進に切り替えた。10ノットなら1分で100メートル進み、停止までに数百メートル進みます。間に合うはずがありません。相手が避けるのが当然と思っていたわけです。

3に、救難の不備の問題があります。相手の船が大破したわけですから、当然乗組員を助けなければいけない。しかし誰も海に飛び込まず、2隻の内火艇(救命ボート)が発進したのは救難開始命令13分後のことでした。潜水員もいましたが、練度が低いことから潜水作業はしませんでした。

4に、通報の遅れの問題があります。4時7分に衝突して、4時23分になって第3管区海上保安本部(横浜)に第一報を入れた。3管が救難出動命令を出したのは4時27分、それからヘリと船舶が現場に向かったのです。通報が遅れたため、当然救難出動も遅れました。もう一方の通報は上司あてで、4時40分に自衛隊統合幕僚本部に事故発生報告。それが5時38分になって防衛相に伝わり、ようやく首相に伝わったのは6時でした。

5に、証拠隠滅の疑いがあります。海上保安庁の捜査前に、防衛省は「あたご」の航海長をヘリで呼び、海保に無断で事情聴取しました。このヘリは7時25分に館山基地を発し、9時4分「あたご」着、9時55分市ヶ谷の防衛省に着いています。また入れ違いに、護衛艦隊幕僚長が8時2分横須賀発のヘリで「あたご」に乗り込み、これも海保に無断で事情聴取をしています。当然、事情聴取だけでなく口裏合わせが行われたでしょう。さらに3機目のヘリが8時15分に館山を発して、小指を打撲骨折した「あたご」乗組員を自衛隊横須賀病院へ搬送しました。緊急性の低い患者を、すぐ後に横須賀に回航される「あたご」からなぜ連れ出さねばならなかったのか。「あたご」にはレーダーの記録が残っていないことからも、証拠隠滅の疑いは晴れません。

 第6に、情報隠しの問題があります。当初は国会でも、艦長が事故当時どこにいたか、乗組員が何人だったかも防衛省は答えませんでした。衝突14分前に漁船群を視認していたことが明らかになった後も、防衛省は2分前と言い続けましたが、これらの情報は記者会見ではなく、自民党国防部会の席で初めて公開されました。

そして第7に、安全対策がなかったという問題があります。船舶自動識別装置(AIS)という、船同士の船籍・速度・方向・位置を知らせ合う装置がありまして、04年から国際航海に従事する船はすべて搭載する義務があります。ただし自衛艦は船舶安全法の適用外のため、義務づけられてはおりません。「あたご」はこの装置を07年4月に搭載していましたが、総務省の事前検査の遅れから機能していませんでした。この装置を使った船の海図によると、事件当時周辺海域に装置搭載船は80隻ありました。このように安全装置を機能しないまま放置していたにもかかわらず、自動操舵装置は積極的に導入して使用していたのです。自動操舵はイージス艦では初の導入でした。つまり操船部門の省力化は進めても、安全対策はおろそかにしていたことになります。

 以上に挙げたようなさまざまな問題を指摘されて、「あたご」の艦長は2月27日になって勝浦市の清徳丸乗組員家族のもとを訪れて詫びました。これに先だって2月21日には防衛相が現地に詫びを入れていますが、向かう途中の勝浦市内で自衛隊員運転の公用車が接触事故を起こすというハプニングがありました。勝浦市川津地区に向かう道路は細く入り組んでいますが、事故を起こしたのは国道沿い、表通りです。そして3月2日には福田首相が勝浦市川津に赴いて頭を下げました。

これで国側・自衛隊側は非を認めたかに見えたのですが、海難審判が始まると自衛隊は「漁船側に責任」との主張を始めました。それでも海難審判は本年1月22日に裁決を下し、自衛隊組織に勧告したのはご承知のとおりです。この結果を見て、近くあらためて刑事裁判が行われることになります。

では、これで「あたご」事件は真相が解明され、正しく裁かれるかといえば、そうではないだろうと思います。まず海難審判の限界があります。艦長はおとがめなし、事件解明は不徹底でした。もともと自衛官は海技士国家試験を受ける必要がなく、いわば無免許で船を操縦していますから、免許停止処分もないのです。

 刑事裁判にも限界があります。今回の事件で書類送検されているのは当直士官2人だけです。艦長も上部組織も告発されていないので、被告人になりません。これで再発防止の役に立つのか、はなはだ疑問です。

 事件の社会性をもっと問題にする必要があると思います。事故原因の究明を厳しく行って、情報操作や情報隠しを暴くことはもちろん重要ですが、同時に、イージス艦という存在自体をもっと問題にすること、そして漁業破壊者としての自衛隊の存在をもっと問題にすることが必要だと思います。

 たいへん悔しく思うのは、「あたご」事件には前例があり、その教訓をまったく生かしていないことです。「なだしお」事件と「えひめ丸」事件です。

 横須賀市の海上自衛隊観音崎警護所の敷地内には「なだしお」事件の慰霊碑があります。1988年7月23日、横須賀港沖の浦賀水道で、釣船「第一富士丸」が潜水艦「なだしお」に衝突され沈没し、30名が死亡した事件です。自衛艦が海の交通ルールを守らず事故を起こしたこと、救難・通報の遅れがあったこと、航泊日誌の改竄という証拠隠しがあったこと、海難審判で相手の責任と主張したことなど、「なだしお」がしたことは「あたご」がしたこととまったく同じです。この「なだしお」事件では海難審判と刑事裁判に5年かかりました。その間私たち平権懇は、第一富士丸の近藤万治船長の支援と公正な判決を求め、海で働くみなさんとともに運動を進めました。

 ハワイ、ホノルル郊外のカカアコ・ウォーターフロント・パーク内には「えひめ丸」事件慰霊碑があります。2001年2月10日、オアフ島沖で、宇和島水産高校の練習船「えひめ丸」が米海軍の原子力潜水艦「グリーンビル」に衝突され、教員5名、生徒4名が死亡、12名が重軽傷を負った事件です。米原潜はソナーで上に船がいることを知りながら急浮上して衝突しました。そしてワドル艦長は軍法会議にかけられることなく名誉除隊しました。私たちは「えひめ丸」の本拠、宇和島に赴いて真相解明の運動に協力しました。

 さて、先ほど挙げた「あたご」事件の社会性を追求するうえで、イージス艦という船については別に報告がありますので、漁業との関係を少し述べたいと思います。

 かつて世界に誇る漁業国だった日本ですが、いまや漁業はまったくの斜陽産業になりました。北洋漁業は1988年で終了、南氷洋の捕鯨もなくなり、大手水産会社は冷凍食品製造販売会社に変身しています。いま日本の漁業を支えている20万の漁民は、零細規模の家族経営がほとんどです。農水省の漁業就業動向調査でも、年間作業30日以上の就業者が06年には21万2500人、うち40%が60歳以上でした。船も、『水産年鑑』によりますと、「耐用年数を過ぎた老朽船が目立ち新船の建造は減る一方」です。

『千葉県水産ハンドブック』最新版を見ますと、県内の漁業就業者数は約7000人、漁船は約6000隻ですが、6年前の統計ですから現在はもっと減っているでしょう。就業者が減っているだけでなく、高齢化がもっと問題です。関東農政局千葉統計事務所によりますと、県内の男性漁業者は6000人を割り、うち60歳以上が60%を超えています。漁業は過酷な労働ですから、高齢者には無理です。日本漁業は今後、さらに衰退していかざるを得ない。清徳丸のような船、そして吉清哲大さんのような若い漁業者がいかに大事な存在であったかが分かりますし、その希望の星を自衛隊が消したことの重大性がよく分かります。

 千葉県の漁業者にとって、漁場での操業、そして漁場への往復にあたって、漁船を避けずに突っ込んでくる軍艦の存在は脅威ですし、網を切られる被害も起こっています。そして漁場の中に広大な米軍・自衛隊の射撃演習場があることも、大きな問題です。

 これは「野島埼南方C区域」といいます。もともと米軍の訓練海域で、「チャーリー海域」と呼ばれていました。ここでは夜間演習がない時のみ操業できますが、頻繁に射撃訓練が行われています。その日程は第3管区海上保安本部発表「船舶交通安全情報」に掲載されて、漁業無線を通じて各船に伝えられます。また横須賀港浚渫工事の排出土をここに捨てるとの通告があり、漁場がさらに荒れることが心配されています。

 事件当日も、この「C区域」で海上自衛隊の演習が行われる予定でした。早朝5時という早い時間に「付近を航行していた」護衛艦「しらゆき」と試験艦「くりはま」が捜索に加わったと発表されているのは、この演習に参加する予定だった艦を急遽捜索に向けたものと推測されます。

 さて、清徳丸の本拠だった勝浦市の川津港は、立派な施設をともなう勝浦港とは違ってこじんまりとした港で、家族経営の小規模な漁船が並んでいます。最近の燃料高騰のため、新船建造費の償却は困難だということです。

3  川津港のすぐ近く、小高くなったところに津慶寺という日蓮宗のお寺があります。勝浦市は日蓮聖人誕生の地、誕生寺のある鴨川市に隣接していますから、この津慶寺も古い仏足石があったりする立派なお寺です。ここに吉清家のお墓があります。今回の事件の犠牲者、吉清さん父子は行方不明のため遺骨はありませんが、先ごろ2月21日にはここで一周忌法要が行われました。墓地からは目の下に川津港が見え、太平洋が広がっています。

 事件の現場は野島埼沖でした。房総半島南端の野島埼には、18694 年に日本初の洋式灯台として建設された8基のうちのひとつ、野島埼灯台があります。目の前に伊豆大島が見える景勝の地で、たくさんの観光客が訪れます。沖合はひっきりなしに大型・小型船舶が往来し、その間を漁船が行き来するのが見えます。「あたご」事件はこの美しい海で起こりました。この海の安全を、この海の平和を願ってやみません。

2009/03/09

しんぶん赤旗 2009/3/8 イージス艦衝突事件 市民が検証シンポ

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2009-03-08/2009030814_01_0.html

神奈川新聞2009/03/07 イージス艦「あたご」と漁船の衝突事故をテーマにシンポ

神奈川新聞 2009/03/07
海上自衛隊のイージス艦「あたご」と漁船の衝突事故について考えるシンポジウムが七日、東京都内で開かれた。同事故の二十年前に発生した海自潜水艦「なだしお」事故の海難審判で、遊漁船側の補佐人を務めた田川俊一弁護士がパネリストとして出席し、「海自の体質が変わっていないことは明らかだ」と批判した。

 あたご事故の海難審判裁決を受け、どこまで事故原因などが解明されたかを市民の目で検証しようと、「平和に生きる権利の確立をめざす懇談会」(榎本信行代表、平権懇)が主催し、約四十人が参加した。

 田川弁護士は、自衛艦側に避ける義務があったなどの両事故の共通点を列挙しながら、なだしお事故の教訓が生かされていないと指摘。「(海自には)民間船が自衛艦を避けるべきだという意識が根底にあるのではないか」と語った。

 シンポでは、イージス艦が担うミサイル防衛についても考えた。平権懇の大内要三さんは最後に「これから刑事裁判が始まる。事故を風化させるのではなく、わたしたちも二度と起こしてはならないとの意識をあらためて持たなければ」と呼び掛けた。

 あたご事故は二〇〇八年二月に千葉県沖で発生。漁船の親子が行方不明となり死亡認定された。あたご側が事故の主因だったとする横浜地方海難審判所の裁決が確定し、初めて海自組織に安全航行を求める勧告が発令された。(転載)

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