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「平権懇」☆関係書籍☆残部僅少☆

  • ●大内要三(窓社・2010年): 『日米安保を読み解く 東アジアの平和のために考えるべきこと』
  • ●小林秀之・西沢優(日本評論社・1999刊): 『超明快訳で読み解く日米新ガイドライン』
  • ●(昭和出版・1989刊): 『釣船轟沈 検証・潜水艦「なだしお」衝突事件』
  • ●西沢優(港の人・2005刊・5000円+税): 『派兵国家への道』
  • ●大内要三(窓社・2006刊・2000円+税): 『一日五厘の学校再建物語 御宿小学校の誇り』
  • ●松尾高志(日本評論社・2008刊・2700円+税): 『同盟変革 日米軍事体制の近未来』
  • ●西沢優・松尾高志・大内要三(日本評論社・2003刊・1900円+税): 『軍の論理と有事法制』

平権懇 シンポジウム

2013/02/21

自衛隊イラク派兵10年を問う

自衛隊イラク派兵10年を問う

2013215日 平権懇学習会報告

志葉 玲

 もうすぐ10年前になりますが、イラク戦争開戦2日目に私は現地に入ったんです。今はシリアは大変なことになっていますけれども、当時は平和的な町だったダマスカスから陸路でイラクに入りました。「人間の盾」という、要するに戦争を止めるために世界の平和運動家たちがバグダッドに集結した、その一員としてです。当時はまだサダム・フセイン政権で、メディアに対する規制はけっこう厳しくて、法外なガイド料を要求されたりとかいうこともあったので、私は「人間の盾」のほうに入ることにしたんです。

 夜は浄水場に寝泊まりしているんですが、バグダッドの中心部には爆撃なんかも来るんで、ある程度離れていてもガラスが割れたりする。中心地の市街地では家が何軒か跡形もなく吹き飛んで、一般市民の方々もけがをしたり、市場にも小型ミサイルが落ちまして、片付けた後にも血の跡が残っている。こういう映像は日本のテレビでも放映されましたけれども、血の部分はカットされました。血が流れたり手足が吹き飛んだりするのが戦争なんですけれども。

 イラク中部のヒッラというところで、クラスター爆弾が使われて一般市民に大きな被害が出たというので取材に行きました。米軍が迫ってまして、戦車が走ってくるのが見えていました。負傷者の体には鉄の破片がまだいっぱい食い込んでいるんですね。クラスター爆弾は残酷だなあと思いました。思い切りドカドカと空爆の音がしているのに、慣れてしまって車も普通に走ってるんですけども。

 中東の各国やインドネシアからも、いわゆる「イスラム戦士たち」が集まってきていて、「アメリカと戦うぞ」みたいな感じになりました。イラクの人たちも、空爆が始まってからも「また戦争か」と、のんびりしていたんですけども、さすがにここまで来るとあわて始めた。イラク政府の人から逃げろと言われて、われわれも撤収を決めました。報道陣が集まるパレスチナ・ホテルで反戦アピールをして、でも結局、浄水場のほうへ帰って来たんです。サダム・フセイン政権が崩壊した数日後までここに残っていました。私は仕事の関係でいったん帰らなければならなくて、フセイン政権の崩壊を見逃したんですね。それは今でも悔やまれるんですが。

 10年前を振り返ってみました。今日のテーマは10年目の自衛隊イラク派遣ということですから、やはり自衛隊中心の話にします。みなさん自衛隊派遣に関しては詳しいかと思うので、周辺の話よりは現場の話をしたいと思います。

 2003年の12月から先遣隊がイラクで情報収集にあたり、2004年に入ってから本格的に自衛隊が現地入りをしたわけですね。イラク南部のサマワという町に自衛隊が駐留しました。サマワは比較的に治安が安定していまして、バグダッドなどに行くよりは賢い選択だったと思います。ただやっぱり現場で取材していますと、当時日本で報道されていた内容と著しい違いを感じるところがありました。

 まず、当時かなり日本の自衛隊はサマワで歓迎されているみたいなことが言われていました。それは日本が行くことによってサマワ経済が良くなるんじゃないかという期待があったからです。サマワの人たちは日本企業が来るというふうに勘違いしていたらしいんで、どうもそこのところで齟齬が生まれていたようですね。「何そのセルフ・ディフェンス・フォースというのは」と聞かれたものですから、「ジャパニーズ・アーミーだよ」というと「エッ! 軍隊が来るの? そんなの聞いてないよ」と。このころすでにオランダ軍がサマワに入っていまして、対テロ掃討作戦なんかもやっていたんです。それで地元の威勢のいいグループと銃撃戦をやっていた。そういうこともあって、「軍隊が来るのか」と非常に驚かれたことを、よく覚えています。

 日本の報道の中であまり出て来なかったのは、サマワもかなり米軍の空爆でやられていたことです。製紙工場も学校も一般の住宅も爆撃された。私の案内をしてくれたのは地元のイラク人ですけれども、彼の家も米軍に空爆されまして、弟は瓦礫に埋もれて3日間苦しんで死んだ。そういった人がサマワにはけっこういまして、当然、米軍を憎んでいる。米軍と一緒にくっついてくる自衛隊に関しても、非常に複雑な思いを抱えていたわけです。

 当時よく自衛隊は給水活動をやっていると報道されました。しかしサマワで給水活動をする必要があったのかという疑問があります。サマワの中心部には川があるし、浄水場もあるんです。自衛隊がわざわざ日本から浄水設備を持っていっても、基地の中でできる浄水なんて、ほとんど自衛隊が使っているんですよ。なんかパフォーマンス臭いなと思ったわけです。日の丸のマークをつけた給水車がサマワ周辺の集落へ水を運んでいました。川から離れていて水がないと困るところは確かにありました。

 私は自衛隊が水を配っているというアル・ガルビエ村に行ってみました。「オレたちこんなの飲んでるんだぜ」と子供たちが見せてくれたのは、オイルかと思ったくらいの泥水です。「エエーッ、これ自衛隊が配ってる水じゃないよね」と聞いてみたら、「自衛隊の給水車なんて来ないよ」という。よく調べてみると、給水車の運転をしてるのは自衛隊員じゃないんです。イラク人のドライバーに任せている。ドライバーが水をどこかに売ったりとか、自分の住んでいる集落に持っていくとか、そういうことが多々あったわけです。自衛隊の宿営地の真ん前にある集落に行っても、なんで給水車がここに来ないんだと憤慨している人もおりました。

 学校修復の現場でも同じようなことがありました。自衛隊が直している学校があるというのでアルハシム村に行ってみたんですけど、自衛隊員はいないんです。働いているのはイラク人の労働者の方で、帽子にイラクの地図がありまして、イラクの国旗と日の丸が握手している。そういう帽子をかぶって学校修復をしているんです。ところが、必要な建材が届いていないんです。だから私たちが取材に入ると、必死に訴えてくるわけですね。鉄骨が全然足らないのに工事を進めているから、このままでは学校が崩れて子供たちが死ぬ、何とかしてほしいと言われるんです。自衛隊の通訳は悪い奴で、ちゃんと伝えてくれないというので、私はそのことを記事に書いて防衛省に送りました。

 この工事現場にも自衛隊は110分しか来ないんです。さっと来て「異常ないですか」みたいな感じでさっと帰っていく。要するにセキュリティの話なんですね。長いこと止まっていると現地の武装勢力が噂を聞きつけてやってくる。襲撃されるかもしれない。そういうことがあって現場に止まることがないわけです。ましてや現地で自衛隊の隊員が活動することはほとんどない。はっきり言うとプレス向きのパフォーマンスです。私はこの話を日本のテレビにいろいろ売り込んだんですけれども、なぜかその映像は使われませんでした。スクープでも何でもなくて、自衛隊の活動している地域に行けば自ずと分かる話なんですが。

 日本のメディアは何をやっていたかというと、宿営地のほうにいて、自衛隊のお弁当はどうだとかお風呂はどうだとか、そんなことを一生懸命報道していたわけです。セキュリティの問題があって、日本の新聞記者さんなんかも、あんまり外を出歩かないようにしていたわけです。確かに襲撃される恐れがなかったわけはないんです。実際私もサマワから取材に帰る途中で、ドライバーが真っ青な顔をして飛ばし始めたことがありました。「どうしたのか」と聞いてみたら「バックミラーを見てくれ」と言われて見ると、対戦車ロケットを抱えた武装勢力が追っかけてきていたんです。ハリウッド映画ばりのカーチェイスです。なんとか振り切って逃げたわけですけれども。

 日本の報道を見ていると牧歌的なサマワですが、意外と手強かったなというところはあります。私は直接対話が好きなものですから、街頭に出ていろいろ話を聞いてみたんですね。「FUJI」という、日本の外務省だか防衛省だかの広報紙が壁新聞みたいに貼ってあったんですが、破られているんです。なんで破いたのかと地元の人に聞いてみると、自衛隊は何をやる、かにをやるといろいろ言うけれど、実現したためしがない、だからこんなものはいらないということで破かれてしまった。さらに後で聞いた話では、このあと日の丸がバッテンされて、さらに黒く塗りつぶされた。

 このときも、最初は穏やかに話をしていたんですけど、だんだんみんなエキサイトしてきて、イラク人の通訳、色黒な彼が真っ青な顔をしはじめて、「レイ、もうそろそろ逃げたほうがいいぞ」と。私としてはまだインタビューを続けたかったんですけど、途中で話を打ち切って逃げざるを得なくなりました。本当に自衛隊は歓迎されているのかなあと私は疑問に思わざるを得なかったわけです。

 当時自衛隊のイラク派遣に反対しているグループがサマワにいたんです。いわゆるサドル派といわれる人たちで、この人たちは基本的に反政府で、自衛隊のイラク派遣に対しても非常に批判的でした。私は直接話をしたんですけれども、自衛隊の車両がサドル派の勢力圏に来て、いろいろ聞き込みをしていくのが非常に不快だと言ってました。

 当時は米軍やイギリス軍その他の多国籍軍が、執拗に家宅捜索をやっていたわけです、対テロ掃討作戦ということで。夜中にバーンと小型爆弾でドアごと吹き飛ばして突入してきて、家の中を全部ひっくり返して、ソファーを破いて中を調べたり、その間家の人は後ろ手に縛られて袋をかぶせられている。自衛隊はそこまでひどいことはしなかったわけですが、そういう米軍の荒っぽい家宅捜索の情報提供をしているんじゃないかと地元の人たちは思っていました。

 もう少し私は聞きたかったんですけど、例によって通訳の顔が真っ青になってきて、「逃げたほうがいいんじゃないですか」みたいなことになりました。周りの人たちがエキサイトし始めて、自衛隊を送った日本人はもう友達じゃない、敵だ、みたいな大騒ぎを始めたわけですが、みんなその場に銃を持っているんですよね。

 ファルージャというところにも行って来ました。ファルージャは2004年の4月に町ごと包囲されまして、米軍にものすごい攻撃を受けたわけです。無差別攻撃でたくさんの人が殺されました。当時は路上で動いているものは何であれ撃たれて殺されてしまう、すさまじい状況だったということで、中心部の建物は見事に崩れ去っていました。米軍のイラク占領が始まった2003年の4月以来ずっと、ファルージャ近辺では米軍と武装勢力の攻防がいろいろあって、その中に住民も巻き込まれたわけですね。

 サマワでは基本的に街中を歩いていても、そんなにものすごい身の危険を感じるほどではなかったんです。ところがバグダッド南部とかファルージャ、要するに米軍の掃討作戦が激しい地域では、ものすごく反米感情が強くなっていました。当然ですよね、テロと何の関係もない家がどんどん家宅捜索で目茶苦茶にされて、その家の男性はみんな連れ去られてアルグレイブ刑務所なんかに収容されて、その中で虐待されたり、殺されるケースもいっぱいあったわけですから。

 私は2004年の2月にファルージャに入って取材をしていたんですが、インタビューをしている最中に、向こうのほうにトランシーバーを持った人が見えたんです。瞬時に私はインタビューを打ち切って、通訳に「帰るぞ」と言って車に乗り込んだ。ところが運悪く交差点で止まってしまった。そうしたらカラシニコフ銃を持った10人ぐらいがワーッと走ってきて車を取り囲んで、「おまえは日本人か!」とすごい勢いで怒っているわけですね。「外国人は敵だ!」と。

 やっぱり自衛隊、軍隊を送ることはとくに反米感情の強い地域では、敵対行為なんです。それまで日本人というとイラクでは「オー、ヤバーニ!」とすごい歓迎されていたんです。日本人はすごいね、ヒロシマ、ナガサキもあったのにがんばって復興して、オレたちのヒーローだよ、みたいな感じだったんですが、それが様変わりした。反日感情と言ってもいいぐらいの強い感情があったわけです。

 私の通訳はファルージャで救援活動をやっていた人でした。家を失った人たちに食糧や物資を配ったりしていたんです。「ちょっと落ち着いてくれ、こいつはいいジャーナリストなんだ、 ファルージャでどんなに米軍がひどいことをやってるか伝えたいんだ」と説得してくれたので、私は拘束されないで済んだんですけれども。

 ファルージャには懲りずに何度か入って、ファルージャの武装勢力のボスにも会いました。アブドゥラ・アル=ジャナビ師という人で、米軍からけっこうな懸賞金をかけられていた人です。会ってみると意外と話の分かる方で、「日本人を敵視しているわけではない、ただ、軍隊を送ってきてわれわれに害をなすのであれば話は別だ」と言っていました。ちゃんと対話をすれば話は通じるというか、こっちの態度次第で、はじめから「おまえらテロリスト」みたいな感じでけんか腰で行くと、向こうもけんか腰になるんだなあということが分かった次第です。

 次は米軍の掃討作戦の様子です。バグダッド中心部で武装勢力と米軍が衝突しているという話を聞きまして、現場にかけつけたところ、従軍記者と勘違いされまして、一緒に行動する羽目になりました。私としてはけっこう迷惑な話で、写真を撮れるのはいいんですけれども、標的と一緒にいるようなものなんですよね。だから非常に怖かったのを覚えています。単独で取材しているぶんには、周りをよく見て気をつければ、ある程度は危険は回避できるわけですけれども。

 家宅捜査は、とにかく無差別です。とにかく家の男どもを全員引っ張り出して、収容所に放り込んで尋問する。容疑もなにもあったもんじゃないですよね。一家の主が子供たちの目の前で、屈辱的な恰好をさせられる。そういうことから考えれば、反米感情が生まれるのは当たり前の話なんですね。

 アメリカに「メタリカ」というヘビメタバンドがありまして、これが米軍に対してクレームをつきつけたんです。なぜかというと、米軍がメタリカの曲を大音響で流して収容所の囚人を苦しめたという。この話は日本のネットでも流れました。実際に経験した人の話によると、「ミュージック・パーティー」というそうです。縛り上げたうえでヘッドホンをかけて、強制的に何時間も、ものすごい大音響の音楽をかける。発狂しそうな感じになるそうです。ヘッドホンを取られた後も頭の中で音楽が鳴り響いていて、それが収まるまで何日もかかる、というようなことを米軍はやっていたわけです。

 しかも、テロにかかわった人たちがそういうことをやられていたわけではなくて、ごく普通のお父さんやお兄さんが連れ去られて、そういう拷問を受けたりします。電気ショックとかもありますし、殴る蹴るは当たり前ですね。裸にするのもよくみられたものです。私の通訳やその他、アルグレイブ刑務所の中に入っていた被害者の人たちに話を聞きました。そういうことを米軍は日常的にやっていたんですね。

 こういった米軍を一生懸命サポートしていたのが、じつは航空自衛隊なんです。「エアフォースリンク」という米空軍のサイトに、こういうニュースが出た。「ジャパニーズ・ミリタリー、キーメンバー・オブ・コアリション」。米軍を含む多国籍軍のなかでも自衛隊はキーとなるメンバーだという、大絶賛なんですね。当時、陸上自衛隊がサマワから撤退する一方で、それまでサマワ近辺までしか行っていなかった航空自衛隊が、バグダッドとか北の方のアルビルだとか、より前線に近いところまで活動範囲を広げた。そのことを絶賛しているわけなんです。

 これはどういうことか。名古屋の市民団体の方たちが情報開示要求を粘り強くやって分かったことです。航空自衛隊は復興のための物資や国連職員などを運んでいるんだと、当初国会でも説明されていました。ところが輸送人員を全部見てみると、米陸軍、米空軍、米軍属、ほとんど米軍です。さらにオーストラリア軍、その他多国籍軍、合わせて70パーセントぐらいです。あと陸上自衛隊、空自、統幕、日本政府関係者。国連関係は6パーセントしかいない。これはもう詐欺です。輸送人員もそうなんですけども、輸送物資もほとんどが米軍と自衛隊なんですね。

 問題はこの人たちが武装していることです。航空自衛隊が運んだ米軍兵士たちが何をやっていたかというと、掃討作戦をバグダッドやイラク西部、中北部のあたりでやっていたわけですね。自衛隊が運んだ兵士が復興事業だけにかかわったとか、そういう話ではまったくないんです。

 私は防衛省にいろいろ電話で聞いてみたんですけれども、「いや、テロ対策も復興のうちですから」と、統幕の広報がペロッととんでもないことを言ってくれたんですね。本音を吐いてくれてありがとうございます、っていう感じなんですけれども。いろいろ驚くことがいっぱいありました。

 私が通訳を頼んだひとり、仮に「マルワン」としておきましょうか、そのマルワンは家族が米軍に殺されましたので、自衛隊のイラク派遣、駐留に関しても批判的でした。ところが、そのことが彼に予想だにしないような危険をもたらすことになります。ある日彼はイラク警察に連れて行かれまして、そこで尋問を受けます。「お前はなんで自衛隊のイラク駐留に反対するのだ」ということで。いっときは首元にナイフをつきつけられて殺されそうになったんですけれども、イラク警察に知り合いがいたので、その場はなんとかなりました。ところが解放されてから家に帰ると、イラク政府シンパの武装民兵グループ、バドル団が家を取り囲んでいた。彼が出て来たら撃ち殺してやろうと包囲しているわけです。そこでマルワンは民兵グループが交替する一瞬の隙を見て、パスポートだとかお金とか、最低限のものをつかんで、そのまま国外に逃げました。

 それ以来マルワン8年間、イラクに帰れないでいます。彼はイラクの情報機関にいる友人からいろいろ情報収集もしているのですけれども、帰ったとたんに拘束される、たぶん殺されるだろう、だからイラクに帰れないと言っています。気の毒な話なのですけど、彼には16年間つきあった許嫁がいたんですね。結婚したいけど、いまは家族が大変だからもうちょっと待ってくれと言っているうちに、サマワで政府系民兵グループに目をつけられて国外に逃げた。その後、許嫁は子宮がんにかかって子宮を摘出したんですね。私はもう子供が産めない身だからと非常にその許嫁も落ち込んでいたわけなんですけど、会いに行くこともできない。結局、マルワンは許嫁や家族と連絡を絶ってしまいました。「あの子はもう死んだ」と言われるのがとても怖い、だから連絡していないということです。

 自衛隊のイラク派遣によって人生を狂わされたイラク人もいるという話です。自衛隊のイラク派遣に反対することは、イラク人にとってとても危険なことだったわけです。何人かにインタビューしましたけれども、人の目のあるところでは自衛隊批判は、とくに初期にはあまりしなかったわけですね。下手に批判すると 自分や自分の家族に害があるかもしれない。そういった中で「自衛隊のみなさん、ウェルカム」みたいなことを言っている人たちだけが日本のメディアに出て来た。

 結局、自衛隊のイラク派遣って何だったんだろうと思うわけです。陸上自衛隊はほとんど基地に引き籠もり状態でした。莫大な経費がかかったのですが、仕事はイラク人に任せきりで、現場監督すらしていなかったんです。

 イラクから帰って来た自衛隊の人に聞いた話ですけども、緊張が続いたため精神を病んだ人もいるということです。確かにイラク帰りの自殺率は自衛隊の中でも異常に髙いんですね。そのへんのことはもうちょっと今後、調べていけたらいいなと思っています。

 だんだん口を開いて話をしてくれる人も出てきました。たとえばこの前取材したのは、元空自隊員の池田頼将さんという方で、彼はクウェートの基地でマラソンのイベントがあったときに、米軍のロジスティックをやっている民間企業のバスにはねられて、大けがをした。ところがろくに治療も受けられず、結局後遺症が残って、いま国に対して賠償を請求する裁判をやっています。

 彼がバスにはねられたのは、ちょうど「キーメンバー・オブ・コアリション」の時、航空自衛隊がまさに活動範囲を広げようとする矢先の話だったんですね。このときは日本政府も米軍も非常に神経を使っていた。本当はこれは集団的自衛権 にひっかかるもので、実際に名古屋高裁でそういう判決が出ていますけれども。戦争で大事なのはロジスティックスつまり兵站ですから、戦術の基本はその補給路を断つことです。それぐらい戦争において人員や物資の輸送は大切なわけです。池田さんがろくに治療も受けられず、日本に帰ることも許されず、日本に帰ったら帰ったで口封じさせられていたというのは、やっぱり自衛隊の活動範囲を広げるために障害となるものは隠蔽するということだったんじゃないかと思います。

 池田さんも自衛隊イラク派遣で人生を狂わされた人ですね。アゴが開かなくなったために、流動食だけで生きているんです。左半身にものすごい痛みを感じて、近所に買い物に行くのもひと苦労。右手はブルブル震えて、自分の名前すら書けない。そんな状態ですから、結婚されてお子さんもいたんですけれども、まともに働けなくなってしまって、離婚してしまった。以前は野球観戦が趣味だったんですけど、もう一日中家の中に閉じこもっている。そういう池田さんに対して国からの支援は何もない。聞けば聞くほどひどい話で、国会で問題にされていいケースじゃないかと思うんですが、メディアは記者会見にちょろっと来て話を聞くだけなんですね。

 そういうわけで、まだまだ日本人が知らない自衛隊イラク派遣の実態というものがあると思います。派遣から10年が経とうとしているわけなんですけれども、今からでも遅くないです、やっぱり自衛隊イラク派遣の中身を検証していく必要があるんじゃないかと思います。

志葉 玲(しば れい) フリーランスジャーナリスト、イラク戦争の検証を求めるネットワーク事務局長。1975年東京生まれ。著書『たたかう! ジャーナリスト宣言 ボクの観た本当の戦争』社会批評社、2007年。ブログhttp://reishiva.exblog.jp/

2011/08/09

7.29 ヴァインさんの話を聞く会 記録②

●北村
では、会場の方からご質問を受けるコーナーに移りましょう。
●会場から
 有意義なご講演、ありがとうございました。聞いていて思った感想、質問がありますのでさせていただきます。
 まず、こういう国が中国や北朝鮮の人権について言う資格がそもそもあるのかな、と思いました。あと、米軍基地の位置ですね、日本の原子力発電所にきわめて似ているなという印象を持ちました。
 今日は軍事の話だったので本筋からはちょっと外れると思うんですが、いまあまりニュースになっていませんが、TPPの問題が日本ではあります。これは経済的な問題ですが、アメリカはとことん外国を支配することにばかり興味があるのかな、と強く思ったんですが、それがまったく変わっていないという印象を持ちました。どうでしょうか。
●ヴァイン
 TPPについてどのポイントをおっしゃっているのか良く分からないので、もうちょっと詳しく、あなたの意見も言っていただいたらと思います。
●会場から
 僕もそんなに詳しいわけではないんですが、TPPは農業問題のことばかり言われているんですが、要するに日本の経済の植民地化がたぶんこれの本質だと思っています。ですから軍事の植民地化、ディエゴガルシアと非常に似ている。今もってイラクで行われていること、アフガニスタンで行われていること、そういうことも。そういう印象を持ったということです。
●ヴァイン
 非常に面白い質問をありがとうございました。何人かの方にご質問をいただいてから、まとめてお答えしてもよろしいでしょうか。
●北村
 では手の挙がっている方。
●会場から
 アメリカの基地がいかに多いかが地図で分かりました。最近聞いたところによると、キューバのグアンタナモ基地を縮小していくということです。それの代わりにディエゴガルシアにテロ容疑者を移すことを考えているのでしょうか。
●会場から
 札幌から来ました。2つほど。
 北海道はアイヌがおりまして、国際先住民年とかありまして、けっこう活発に私たちも行事をしています。国連のやり方がいいということではないんですが、そういう国際機関に訴えることはできないのでしょうか。軍事とからむと国連なんかは難しいのかなということがひとつ。
 それから、イギリスのトライデント・プラウシェア2000の人を前にお招きしたことがあります。アンジー・ゼルターさんという方ですが、スコットランドの核施設をハンマーで壊して無罪になったんです。というのは、インドネシアの東ティモール弾圧を援護に行くための原子力潜水艦の施設を、壊したのは悪いけれどもそれを防いだということで、3人の女性が無罪になったんですね。トライデント・プラウシェアは「剣を鋤に変えよ」という行動の会ですが、イギリスではかなり頑張ってやっているところです。そういうところは動いていないんでしょうか。
●ヴァイン
 最初のご質問ですが、確かに米国が他の国の人権蹂躙に対して批判する資格はないと思います。TPPの話も出ましたけれども、私も関心を持っている問題です。軍事と経済の関係についての問題です。私の本にも書いたのですけれども、第二次世界大戦以前と以後では帝国主義の形が変わった。軍事的に植民地を抑えるよりも、経済・政治という道具による帝国主義支配になってきているのではないかと思います。それでも地図をごらんになって分かりますように、軍事の重要性が減っているとはいえ、米国の基地は世界に1000以上あります。ですから戦後の帝国主義支配のなかでも、軍事基地をどこに置くかはやはり重要な問題であり続けています。
 日本でも世界でもそうなんですが、米軍基地を置くことでその国、あるいは周辺の国に政治的・外交的圧力をどのようにかけているか、これは非常に興味を持って見ています。たとえばそのなかのひとつに、自由貿易協定にサインさせることもあるのでしょう。交渉の場になると米軍基地が、やりとりの道具になるかもしれません。
 日本を担当していたある米国の高官と話したことがあるのですが、「私は日本に交渉に行くときに、沖に空母が浮いていると非常にやりやすい」と言っていました。空母はもちろん海上の米軍基地です。ですから米軍基地の存在がその国、その周辺国の経済的・政治的な交渉にどのような有利な影響を与えているかという研究をしてみたいと思っています。米軍基地があることで間接的に政治・経済を支配している、その様子を具体的に研究するということです。
 グアンタナモとディエゴガルシアの話に移ります。
2001年9月11日、9.11の直後は、ディエゴガルシアもグアンタナモもテロ容疑者収容所として考えられていました。9.11の直後はその2つのうちグアンタナモが選ばれて、そこが収容所になりました。けれども2006年以降、米国政府も英国政府も認めているように、最低2人のテロ容疑者がディエゴガルシアに収容されています。米国軍部の高官の発言によって、他にもディエゴガルシアに容疑者がいることが分かっています。他の証拠によると、8人から10人ぐらいは収容されていると考えられます。他の人によると、ディエゴガルシア島のなかではなくて、たとえば港とか沖合の船に収用されているという話もあります。真相がなかなか分からない理由は、米軍の兵士でない限りディエゴガルシアには行けないからです。赤十字さえも行けません。ジャーナリストも行けません。20年間もそのような状況が続いています。
先住民族の問題に戻ります。チャゴシアンは国連で先住民族として認められました。非常にそれは助けにもなっています。それでも国連全体で話題にするためには、一国が提案しなければなりません。しかしどこの国もそれを提案していないのです。
市民運動については教えていただきたい部分もあるんですけれども、私のいまの研究のメインは、米軍基地に反対する運動とその発展についてです。
●会場から
 3点うかがいます。
ひとつは『ワシントン・ポスト』が1975年に社説でこれを取り上げたとき、圧力がかかって発表の時期を遅らせたというような話がありました。実際に強制移住が終わるまで発表しなかったのか。それから、この社説以外にも『ワシントン・ポスト』は継続してこの問題を追及しているんでしょうか。それから、『ワシントン・ポスト』以外の新聞とか雑誌も、この問題を取り上げているんでしょうか。
 もう1点は、アフリカのジブチに日本の自衛隊が基地を持っているという話があるんですが、ジブチは「アフリカの角」の付け根にありまして、紅海の入口でもあって戦略的な要衝だと思います。米軍がアフリカに基地を強化しているという話がありますが、米軍もジブチに基地を持っているんでしょうか。もし持っているとすれば、自衛隊との関係についてもお話しいただければと思います。
 3点目は、国際人権裁判所に訴えているというお話がありましたけれども、その見通しとか、あるいは先ほど国連では一国の政府が取り上げないと取り上げられないというお話がありましたけれども、国際人権裁判所ではそういうことはどうなっているのかということをうかがいたいと思います。
●会場から
 今日は興味深いお話をありがとうございます。1点だけうかがいたいと思います。ディエゴガルシアではチャゴシアンが自分たちの島に戻ろうということで運動をしておりますけれども、沖縄では基地を返還してほしい、自分たちの土地を自分たちに戻してほしいという根強い要求で運動もかなり高まっています。私が見ているところによると、どうも日本政府が沖縄を裏切っているような気がするんですね。結果的に現在、日本政府がアメリカに従属しているから今の沖縄の基地返還がうまく進んでいかないんだと思うんですけれども、どういうふうにお感じになっていらっしゃるか、教えていただきたいと思います。
●会場から
 お話ありがとうございました。私の意見と質問なんですけれども、アメリカの市民というのはアフガン戦争とかイラク戦争のことには関心があるし、退役軍人はたくさんいるけれども、海外の米軍基地のことはほとんど知らない。逆に日本とか韓国とかドイツに住んでいる人たちは、米軍基地のことは良く知っているけれども、イラク戦争とかアフガン戦争に対する関心はどんどん低下してきている、と私個人としては思っています。軍事主義にはいろいろな側面があるので、それをつなげて考えることが必要だと思うのですけれども、具体的な私からのサジェスチョンとしては、アメリカの退役軍人の人たちと、海外でアメリカの米軍基地によって被害に遭った人たちが具体的に交流を進めて、その人たちの話を私たちなりアメリカの市民が聞く、というような動きが必要だと思います。それは軍事主義というものをひとつの全体の仕組みとして捉えるために必要だと思うんです。
 質問がひとつありまして、2009年の3月にワシントンD.C.で海外基地に関する市民の会、国際会議がありましたが、その後アメリカ国内の反戦平和運動のなかに、海外基地に関する関心というのはどうなっているのか、というのが質問です。
●ヴァイン
 皆さまの質問もコメントも非常にすばらしいです。私の今後の研究の方向性にもヒントを与えて下さいました。
 まず、『ワシントン・ポスト』と米国政府の問題です。圧力というのは1960年から65年にかけてなされました。チャゴシアンに関する報道はこの間全くありませんでした。1975年に『ワシントン・ポスト』に記事が載ったのですけれども、たまたま『ワシントン・ポスト』の記者がモーリシャスに、問題のことは知らずにホリデイとして行ったときに知ったことです。悲惨な状況をその記者が書いて、それが載って、問題になったのですが、残念なことに1975年に米国国会で1回だけヒアリングが行われて、その後何も起こりませんでした。メディアの関心が非常に低かったのが70年代から90年代の様子です。
 でも2000年になって、英国の裁判所でチャゴシアンが勝利を収めたときに、国際的な関心が爆発的に大きくなりました。それは英国メディアであって、米国ではまだまだメディアの関心も低いです。
 ジブチの質問、どうもありがとうございました。米国は世界中にある在外基地の95パーセントを支配しています。その他はフランス、ロシア、中国、そして日本が外国に基地を造っています。私の理解ではジブチの日本の基地は、つい最近完成したと理解しています。米国はジブチにかなり大きな基地を持っていまして、自衛隊はその一部に駐屯しています。米国の政府高官が日本の政府高官に、ジブチに日本の基地を造ったらいいと奨励したと聞いています。
 それを見ても、米国が軍事費があまりにも大きくて経済的に苦しいので、日本や韓国に対して、軍事費をもっと増やして軍事活動をもっと増やして、アジアで軍事活動をもっとさかんにするように勧めているように思えます。もしよろしければ、皆さんからジブチの自衛隊基地についてどう思うのか、戦後初めて日本の基地が海外にできたことについてどう思うのか、知識と意見をお聞かせいただければと思います。
 ヨーロッパの人権裁判所の件に移ります。非常にそのプロセスがゆっくりで、判決は昨年出るはずだったんですけれども、今だに出ていません。ヨーロッパの人権裁判所は一国からの提案がなくてもチャゴシアンの人たちが訴えることができますが、国際裁判所に持っていくためには一国の提案が必要になります。このような件を裁判所が扱いにくくしているのは、たぶん2つの理由があります。ひとつは帰還の権利は世界のいろいろな国が抱えている問題だからです。もうひとつは補償問題があるからです。
 誤解があるかもしれませんが、沖縄の地主に土地を返還すること、米国の基地をなくすことを邪魔している日本政府の役割というのは、非常に大きいと思います。米国が何かをやりたいときに、日本政府と英国政府は似たようなジュニア・パートナーの役割を果たしています。汚い部分を英国政府、日本政府がやっているのではないか。
 いま思いだしたのですが、チャゴシアンと沖縄の大きな相違があります。チャゴシアンは自分たちが苦しんだ末に、いつか帰還したい、補償が欲しい、というのが主な要求です。帰還と補償についてはチャゴシアンはみな一致しているのですけれども、米軍基地をそのまま置くべきか、誰がそこで主権を持つべきかについては、意見が割れています。ディエゴガルシア基地の労働者は、元の島民はそこで働くのは禁止されていて、その代わりにフィリピンやスリランカ、モーリシャスから人を連れてきています。チャゴシアンは赤貧ですので、島に帰ったとしても豊かな生活ではない。だから米軍基地で働くほうが豊かになると考える人たちもいます。
 3人目の方のご質問です。確かに米国人は海外の米軍基地について知らない。米軍基地の隣に住むことがどんなに大変かも知りません。エクアドルにも米軍基地があって、長いこと借地協定があったのですけれども、それを打ち切ったとき、エクアドル大統領がまさにその点を指摘しました。彼は言いました。「私たちが米軍基地の借地協定を更新するとしたら、ひとつ条件がある。エクアドルの基地をマイアミに造らせてくれるなら、米軍基地をエクアドルに置いたままでもいい。」そのようなことを考えることもできないのが米国市民です。
 私は新しい本を企画していますが、それは米軍基地のネットワークに関するものです。そこでは外国の基地がある生活というのはどんなに嫌なものかを、米国市民に知らせたいと思います。いろいろな問題があります。環境、健康、安全性、そして犯罪に巻き込まれる危険性、とくに女性がレイプされる危険性などです。もっと複雑な社会的・経済的な側面、とくに米軍基地があることによる平和と安全への影響についても書いていきたいです。米軍基地が必要だと考えている人たちは、米軍基地があるからこそ世界が平和なのだと信じています。でもその主張をがんばって分析していきたいと思います。
 2009年に開かれた国際会議は私も主催者のひとりですが、非常に良い結果をもたらしたのではないかと思います。日本からも韓国からも大きな代表団が来ましたし、他にも6カ国から人が来ました。会議自体は非常に盛り上がったのですが、米国社会に与えた影響のちいささに非常にがっかりしました。200人ぐらいが参加したのですけれども、その人たちには影響を与えたにせよ、その他には影響をこれっぽっちも与えられなかったのではないかと思ったこともありました。
 しばらく経って分かったのは、実際に参加した人たちには仕事場でも生活の場でもずいぶん影響を与えたと。そしてこの夏になって、米国の上院がその会議で使われた資料、半話の内容を材料にして、経費節減のために、世界の米軍基地をもっと閉鎖すべきだと主張したのです。やはりこの夏、米国のジャーナリストが同じような記事を書いたのですけれども、その材料は2009年の会議でした。米国がほとんど破産状態になっている今になって、やっと海外の米軍基地を閉鎖するという討議が始まったわけです。
 私も記者でもあり研究者でもあるわけですが、今やっていることがすぐに結果を出すわけではない、けれども、いつか意外なところから結果が出るかもしれない。これはずっと心に留めるべきことだと思います。ですから先ほどの話の中で、退役軍人と基地周辺に住むたちとの交流、それを始めるときにも、このようなことを考えれば良いと思います。
●北村
 最初のご質問であった、『ワシントン・ポスト』は継続的に報じているのか、他のメディアはどうか、という点はいかがでしょう。
●ヴァイン
 米国に「シクスティ・ミニッツ」というテレビ番組がありまして、政治にも影響を与えるような重要な番組です。この番組でチャゴシアンの問題を2003年に取り上げました。同じ2003年にはイラクへの攻撃が始まりました。チャゴシアンの番組は完成してもすぐには放映されずに、結局放映されたのは6月でした。米国では夏の休暇でみなビーチに行きますから、あまりテレビは見られないときです。番組が完成したのは2003年の初めだったのですが、そのころはまだイラクを攻撃をするかどうかという時期です。6月は、攻撃が始まった後です。もし完成してすぐ放映していれば、イラク問題に影響を与えてしまう恐れがあって、ブッシュ政権を刺激しないように放映を遅らせたと考えられます。
 その他はメジャーな放送局ではほとんど報道されていません。ひとつ、公共ラジオ局で流されたことはありました。メディアで取り上げられないので私は、これを研究して皆に知らせなければ、というモチベーションが上がりました。
 私の本『アイランド・オブ・シェイム(卑しめられた島)』が、少しでもチャゴシアンの運動の力になればと思っています。日本語版はまだ出ていません。これから出る本は、日本語だけでなく世界中で翻訳されたらいいなと思っています。ここに参加されている皆さんも、ぜひチャゴシアンの話を知り合いの方に広めてください。口コミが運動を広めてきたわけですから。私がやっている非常に小さな運動ですが、印税はすべてチャゴシアンに寄附しています。英語を読める方、英語の読める人を知っている方は、私の本を買っていただけたらそれがチャゴスの人たちを支援することになります。自分の本の宣伝をするのは恥ずかしいのですが、その利益を自分が得ているのではなくて、チャゴスの人の利益になるので、ここで宣伝させていただきました。アマゾン・ドットコムをよろしく。
●北村
 アマゾンで簡単に買えますから、英語のできる方はぜひ。
 2番目の方から、沖縄の基地問題で日本人が裏切っているのではないかという質問がありました。さっきのお答えのなかで、英国も日本もアメリカのやりたい汚いことを請け負ってやっているという話がありました。日本の沖縄基地問題は、いわゆる本土、沖縄以外のところに住んでいる日本人が沖縄のウチナンチューの痛みが分からない、この問題を自分のものとして感じていない、そういう意味で日本人が沖縄の人たちを裏切っている、そういうことだと思います。そのへんについて、もし良かったら教えてください。
●ヴァイン
 非常に重要で貴重なご質問です。私の本の狙いも、それを読んだ人が、自分がチャゴシアンだったらどう感じるだろう、自分が沖縄の人だったらどう感じるだろうと、その人の身になって考えやすいように書いています。1冊目でも2冊目でも、狙いとしては、私たちの生活はすごく遠くの人の生活とかなり直接につながっているということです。例えば私が税金として払うお金がチャゴスの人の強制退去、帰れない状況を長引かせている。私が払う税金が、沖縄の人を苦しませている。それはお金の問題だけではなくて、人としてのつながりについても書いていきたいです。ですから、地球の裏側の人と、同じ人間としてつながっているということです。
 それが米国のメディアの罪なところで、メディアの人もそこで報道されたことを読む人も、米国市民は地球の裏側に住んでいる人に何が起こっても自分たちには関係ないと思いがちです。それは悪循環で、知らないから気にかけない、気にかけないから知ろうとしない。その悪循環を断ち切りたいと思っています。
●北村
 結局、われわれ本土に住む者は、沖縄のことが分からないから自分のこととして認識できない。まだ知らないでいる。そういう意味で、今日はここにいる人はディエゴガルシアのこと、チャゴシアンのことが分かったわけですから、それを口コミで知らせていくことが必要だと思います。
 先ほど逆に聞かれたジブチの基地の問題です。「週刊金曜日」は、これは初めての自衛隊の海外基地であるということで批判的に報道していますが、日本のメディアでは残念ながらほとんど報じられていません。本格的な基地というような表現をとっていません。ですから大半の日本人は知らないというのが現状です。これをどう思いますか、と聞かれましたので、どなたかに語っていただけたらと思います。
●会場から
 ジブチの基地のことについて詳しいというわけではないんですけれども、とても悲しい出来事だなあというふうに思っております。今日のお話の感想も含めてなんですけれども、チャゴシアンのような少数民族の人たちが基地によって追い出されたり、人権を奪われていることについて、研究しておられるアメリカの方がおられるということに、とても励まされました。
 基地の問題を考えるときに、日本の中でも基地で利益を得ている人と、それで苦しんでいる人といるし、それからアメリカというひとつの固まったものではなくて、やっぱり現地でも貧しいがゆえに軍人にならなければいけない人もいて、それで家族から離れて基地で楽しい生活をしているわけではない、そういう意味でひとつの国の中でもそれで利益を得ている人と辛い思いをしている人がいて、辛い思いをしている人たちがつながっていく方法を、これからいろいろ考えたいなあと私は思っています。
 ジブチの問題ですけれども、日本で海賊対処法ができました。日本の商船が積荷を奪われるような危険があってはならないというので、初めてアフリカに日本の軍隊を送ったわけですけれども、その時からずっと心配していました。それがひとつの布石になって、そこを守るために日本も、それで利益を得る人たちのために、基地を造るような国になってしまったんだなあと。絶対に阻止しなければならないことだと思い続けてきました。海賊対処法ができたときに、日本が外へ出る第一歩だなあと思った、その延長線上にあって、これは決して日本だけではなくて、アメリカからも示唆をされ、ヨーロッパ諸国からも示唆をされて、一緒にやっていることだと思います。どんどん軍事力で日本も力を外に出して行こうとすることについては、日本の多くの平和を愛する人は反対しています。
●会場から
 デービスさん、今日は貴重なお話をありがとうございました。ジブチの基地に関して私が初めて知ったのはもう2年ぐらい前でして、だから「週刊金曜日」もずいぶん遅いなあと思ったんですけれども、どなたかのウェブサイトか何かで見たんです。本来ならば海外に基地を造るというのは国会を通してやらなければいけないものだったのに、これはジャーナリストの方もご存じなかった交換公文という、外交上のウルトラCを使って、知らない間に造っていた。外務省のホームページには、いちばん下に書いてあるんですよ。
外務省の地図には載っていないんですけれども、ジブチは地理的な重要性で、ソマリアの海賊に対処するためにあると言っているんですけれども、ジブチの重要性は海を隔てた対岸にイエメンがあるんですよね。『ニューヨーク・タイムス』の記者とかは、いまアメリカがイエメンで戦争を行っている。イエメンを攻撃している無人攻撃機というのは、ジブチの米軍基地から飛び立っているという詳細な報告が出ています。
これは私の補足なんだけれども、アメリカが外国を支配するときにひとつのパターンが見えるんですね。それは支配する国の軍隊とまず密接な関係を作る。80年代は中南米を支配する、中南米に対してテロ行為を行ったときに、エル・サルバドルとかグアテマラとか、グアテマラは1960年代に遡りますけれども。憲法改正とか日本では言っていますけれども、もう既成事実として日本の自衛隊は海外で、沖縄もそうかもしれないけれども、米軍と情報を密に交換して、軍隊が一体になっているんじゃないかという、そういう危惧を抱くんですよ。最後の最後に憲法改正。どんどんそういう流れが、日本の外で、僕らの見えないところで起こっているような気がします。
今日は本当はジブチの話が聞けるかと思って来たんですけれども、私はそういう危機感をすごく抱いています。
もうひとつ話をさせていただきたいんですけれども、いちばん最初に質問された方のヒントになるかもしれないのですけれども、私もこれだけ米軍基地があるのは変だと思うんですけれども、アメリカの戦後の歴史をたどっていくときに、第二次大戦後にアメリカが世界の最強国として台頭してきたときに、戦後世界をどのように作っていこうかという構想を立てたんですね。
有名な文書に、国務省の政策企画部門トップのジョージ・ケナンが書いたPPS24だか22だかという文書があるんですね。これはトップ・シークレットの文書で、戦後アメリカがそれぞれの地域をどのように支配していくか、地域ごとに全部書いてあるんですよ。アジア地域のなかに日本という項目があるんですね。そのなかにとくに印象に残っている文章がいちばん下の方にあって、これは1946年に書かれた文書なんですけれども、「われわれの人口はわずか世界の6パーセントに満たないが、われわれは世界の50パーセントの富を独占している。今後われわれはこの不均衡な状態をいかに維持していかなければいけないか、その戦略を立てなければいけない。」
ジョージ・ケナンはアメリカではどちらかというとハト派で、このレポートを書いたあと左遷されるんですね。その後はもっと頭のおかしいアチソンとかが入ってきて、もっと変な文書を書くんですけれども。
私が知る限りアメリカが1946年に策定した対外政策を、路線を変更した形跡はまったくないんですよ。そうすると、どうしてこんなに基地があるかとか、なぜTPPのような経済的な方法で支配しようとするか、それが見えてくるような気がするんですよ。
冷戦時代、1980年代には基地というのは、ソビエトや共産主義に対抗するためにあると言われていた。だけど冷戦が終わっても、本来ならば平和の配当があって、基地が少なくなっても良かった。米軍基地が冷戦とはまったく関係がないことがいま言えると思うんですね。アフガニスタンのオサマ・ビンラディンがいなくなったのに、アルカイダはほとんどいなくなったのに、デビッドさんの(世界の米軍基地の位置を示した)地図ではアフガニスタンの輪郭が分かるぐらいにまっ黒じゃないですか。だからそういう根本的なところを見ていかないとダメなのか。だから国対国、日本対アメリカという図式じゃなくて、ウィキリークスで外務省の人たちがアメリカの国務省の人たちにアドバイスしていたということがあるように、アメリカの支配層プラス日本の支配層・対・日本とアメリカを含む世界の人々、そういう考え方をしなくちゃいけないのではないかなと思いました。
情報提供ですが、私がディエゴガルシア島のことを初めて知ったのは、インターネットにジョン・ピルジャーさんというイギリスの優れたジャーナリストが作った「スティーリング・ア・ネーション(Stealing a Nation)」という、このことだけを取り上げた1時間ほどの映画があるんですけれども、それが無料でいつでも見られます。
●会場から
 今日はいいお話をありがとうございました。私はこのことを全然知らなくて、恥じる思いで聞いたんですけれども、例えば本土の人が沖縄の人に思いを重ねられなくて、沖縄基地の返還に力を注がないという事実があります。でも、そうじゃない人もある。その違いは何かを考えるときに、私は例えば20世紀の半ばに新たに植民地ができるというその事実を考えるときに、ではそれをどこから断ち切っていけばいいのかを考えると、本当にいろいろな運動がたくさんあったけれども、なかなか難しかった。すると、これが先の人々にどういう国民が、市民が育ってそれを変えていくのかというところにしか、希望が持てないんじゃないかというのが、私の大きな思いなんですね。
 それでとても気になるのが、良い教育を受けるかというところに行き着きます。教科書の問題にも関心があるのですが、今日、ヴァインさんが今後、調査をしたり研究をしたりする中に、ひとつ付け加えていただくとありがたいと思うのは、それぞれの国でどういう教育がなされているか、どんな教科書が使われているかという問題です。たとえばモーリシャス島に移住させられた人々はいまどんな教育を受けているのか。イギリスに1000人ぐらい行っておられるということですが、その人たちはどんな教育を受けて、いまどんなことを考えているのか、ということ。それからもうひとつは、たとえばアメリカの子供たちが広島に、長崎に、爆弾が落とされたことについて、どんな教育を受けているのかということを、関心を持って調べていただけると、何かもうひとつ別の切り口で、新しい、もっと人権を大事にする地球人が生まれることにつながるんじゃないかと思えます。
●会場から
 質問をしたいのはやまやまですが、ちょっとガマンをして、お知らせだけしたいと思います。「宇宙の核格差に反対するグローバル・ネットワーク」です。
 いま辺野古よりもっと熱い地区がすぐ隣にあります。韓国の済州島です。ここにいらっしゃる皆さんに広めていただきたいのは、いま済州島で農民が基地拡張に反対の運動をしようとしても、逮捕されて裁判にかけられたり、軍隊や警察が根こそぎ反対運動を弾圧しています。このことは日本でも一時期新聞に載ったんですけどいままた載らなくなって、知られていないんですけど。とにかく今、済州島で、恐らくイージス艦の基地になるであろうという海軍基地の拡張工事が進もうとしているという状況があります。ヴァインさんは沖縄に行かれると思うんですけど、ぜひその帰りにでも改めて韓国に取材に行っていただいて、それを全世界に広めていただきたいと思います。
●北村
 済州島にはもういらっしゃっているようです。
●ヴァイン
 あらためてご質問、そしてコメントをありがとうございました。本当に私の研究に取り入れていきたいと思います。本日意見を言って下さった方も、ここでは言えなかった方も、もし他にも研究に対してこうしたらというご提案がありましたら、ぜひここにご連絡ください。これは日本と沖縄、済州島でいろいろなことに関して、今日この場でもうちょっと教えて下さってもいいですし、ぜひご連絡ください。日本語でもOKです。すばらしい仲間がいて日本語と英語のバイリンガルです。
〔E-mail: vine◎american.edu ◎をアットマークに変えて送信してください〕
 済州島のことをお話しくださってありがとうございます。私もそこに行って、火曜日に戻ってきたばかりです。もうちょっと研究してみないとはっきりは言えませんが、済州島、ジブチ、いろんなところで行われている共通点があると思います。済州島の基地というのは、公式的には韓国の基地です。それでも米軍がその基地を使おうとしているだろうと疑いがあって、それは非常に濃い疑いです。ジブチと同じように、米軍が地元の政府にかけあって、武器をもっと買うように、そして基地をもっと拡張するようにと働きかけています。
これはホンジュラスでも見たんですけれども、地元の基地を拡張することで、実際には米国がそれに影響を与えているんだけれども、その米国の役割を隠すことができる、というのを狙っているのではないか。ですからホンジュラスでも国軍の基地をいくつか見てきましたけれども、実際の米国のプレゼンスがどれくらいのものか、そして将来的にその基地が米軍がどれだけ使うのかというのは灰色でした。
先ほどおっしゃってくださった方に大賛成で、ぜひ済州島のことをもっと知っていただいて、村人、農民の人たちの支援もして下さればと思います。いつでも韓国には行くことができるので、韓国軍が入るなというところもあるでしょうけれども、村人の人たちから情報を得ることはいつでもできると思います。もうひとつは8月にピース・キャンプがありまして、フロンティアーズという韓国の団体が組織しています。これに参加していただいてもいいと思います。ピース・キャンプについての日本語情報も、いま訳しているところです。週末にはウェブサイト〈www.davidvine.net〉でご紹介できると思います。
ピース・キャンプと辺野古の運動の人たちがもっとつながればいいなと思います。非常に共通点もあるからです。環境グループもぜひ済州島にも辺野古にも行って、本当に共通点が多いので、そこから運動を広げてほしいなと思います。
どうもありがとうございました。
●北村
 先ほど、ジブチの問題、教育問題のご発言がありました。
●ヴァイン
 先ほど教科書の話が出ましたが、戦争と平和について、そして基地について、どう教育を受けるかというのは、非常に大きな影響を与えると思います。いい提案をありがとうございました。私もいろいろな国を訪れますが、そこでは調査を進めたいと思います。たとえば米国のプレゼンスがどのように教育されているのか、など。
 ジブチとイエメンについての非常に有益なコメントも、ありがとうございました。そこにもディエゴガルシアとの共通点があると思いました。ディエゴガルシアでもジブチでも、どちらでも民主的でない方法で強制的に基地が造られました。ディエゴガルシアの場合は、米国議会も英国議会もどちらも承認はしませんでした。それは基地を造ることも、チャゴシアンを強制退去させることも、どちらも議会では承認されていないわけです。それどころか議会からの監視を非常にうまく避けて造られた基地でした。ですから民主主義も守るためにも、政府が何をするかに目を光らせる必要があると感じます。
 米国の基地も日本の基地も、地理戦略的に考え抜かれているわけです。イエメンの基地もアフリカ大陸に影響力を持つために造られたものだと思います。確かに地元の国軍との連携を強くしていくことが、米軍には見られます。エル・サルバドルでもそうですし、ホンジュラスでもそうです。グローバルに見ていく必要があるのだと思います。たとえば日本がジブチに基地を造ったことで、もしそこに日本の基地がなかったら米国がやっていたようなことを日本がやるわけで、だから基地の問題はその国だけのもんだいでなくて、グローバルに見ていく必要があると思います。米軍基地が何を行っているかというと、米国の世界支配を維持しているわけです。
 いま米国が外国基地で何をやりたいかというと、中国への牽制です。今日、全然中国の話が出なかったのが驚きなくらい、中国を米国は意識しているわけで、ですから米国と中国の関係、それから米中韓日の関係などをいろいろと見ていく必要があります。
 2つ懸念があります。もしかしたら基地の建設・拡大競争が行われているかもしれない。それは米国と中国とロシアの間でです。米国とその同盟国である日本と韓国で、アジアの軍拡を行っていると聞いています。でもそうやって基地を拡大することで、アジアの中での緊張が高まって、戦争が起こる危険がかえって高まることを懸念します。
 米軍が中国との戦争に備えて訓練をしたり基地を造ったりすることで、かえって中国との紛争が起こりやすくなると感じています。もちろん米軍の拡張は、お金がないのでそろそろ止まるかもしれません。ですから将来的にその軍拡競争がどうなるかは分かりませんが、少なくとも済州島の人、沖縄の人、ディエゴガルシアの人、その支援者の人たちの反基地闘争を見ていると、非常に励まされます。
●北村
 時間が来てしまいました。僕のほうからもうかがいたいこと、とくに中国のことをまさにうかがいたかったんですが、残念ながらが来てしまいました。今日は本当に刺激的なお話をたくさんしていただいて、ありがとうございました。ぜひまたメールででも、みなさんもご連絡してください。今日は本当にどうもありがとうございました。

7.29 ヴァインさんの話を聞く会 記録①

●北村肇
 ディエゴガルシアとかチャゴシアンといっても、今日いらっしゃっている方々はお分かりかもしれませんけれども、なかなか日本にはまだ浸透していないと思います。しかし今日、ヴァインさんのお話を聞くことによってよく分かると思うんですけれども、アメリカの軍事戦略上、ディエゴガルシアのことを追求するということは、沖縄の問題を考える、あるいは日米の軍事同盟に我々が反対しているわけですけれども、そういうことを考えていく上で、非常に貴重なお話になると確信しております。今日は僕のほうから質問させていただいて、それでお答えをしていただく、このやりとりで参りまして、ヴァインさんのお話が伝わるようにお手伝いをしたいと思っております。よろしくお願いいたします。
 最初に、少しアウトラインを少しお話ししていただこうかなと思います。ディエゴガルシア島、チャゴシアン、そしてそこにある米軍基地、CIAのテロ容疑者収容所、こういう問題についての概要といいますか、歴史的な経緯も含めて20分ぐらい、お話をしていただきます。
●デビッド・ヴァイン
 今晩は。どうもありがとうございます。
 お招きいただいてたいへんうれしいです。この会を開いてくださいました実行委員会、協賛の「週刊金曜日」、そして賛同団体のみなさま、通訳のお2人、北村さん、そして何よりもここに聞きに来てくださった皆さん、どうもありがとうございます。
 今晩皆さまにお話しできるのは、私としてもうれしいことです。というのは、米軍基地のネットワーク、世界中のネットワークについて、新しい研究を始めているからです。今晩は北村さんからも質問をいただきますし、皆さんからも質問をいただきます。その質問を通じて、私もまた皆さんから学んでいきたいと思います。
 それでは始めに概略をお話しします。
 ディエゴガルシア島については、世界中でも、そしてここに基地を置く米国人でさえ、あまり知りません。これはインド洋の真ん中に位置する島で、アフリカとインドネシアの中間にあります。チャゴス諸島のなかのひとつの島がディエゴガルシアです。
皆さんがこの島の名を聞いたことがあるとしたら、イラクやアフガニスタンへの出撃基地になっているという面からでしょう。非常に大きな米国の海軍基地、空軍基地があります。イラク・アフガニスタンへのいちばん主要な出撃基地となりました。近年はイランを脅かすための基地になっています。
 ブッシュがテロとの戦いを始めてから、その戦犯とされる人々がディエゴガルシアに収容されていると信じられています。何年間も、基地を持つ米国政府も、そしてもともとこの土地を持っている英国政府も、テロの容疑者がここに収容されていることは否定してきました。しかし2006年にテロ容疑者の一部がここに収用されていることを認めざるを得なくなりました。でも、どんな容疑者がどれだけの間、どんな条件で収用されていたのかは、まだ真相が見えていません。歴史的にも闇に葬られてしまう問題かもしれません。
 米軍基地がディエゴガルシアにあることを知る人は非常に少ないので、その基地を造るために先住民が強制退去させられたことを知る人は、より少ないでしょう。その強制退去のひどさについては、なおさら知られていないでしょう。そこに住んでいた人たちは、2000キロ離れたモーリシャス、そしてセイシェルに追放されたのです。『ワシントン・ポスト』がそれを報じたのですけれども、強制退去させられた先住民はひどい赤貧のなかで暮らしています。
 それでも米軍はディエゴガルシアのことを「自由のためのフットプリント」、自由のための基地がある場所と呼んでいます。強制退去させられた人々はチャゴシアンと呼ばれますが、その人たちの痛みをまったく感じないわけです。
 強制退去前の様子を、何枚かの写真でご紹介します。リタさんのお話は私の本の中でも紹介しています。イーストポイントはディエゴガルシアの首都でした。1960年代の写真です。ごらんのように教会がありました。役所も学校もありました。すばらしく機能している社会が、18世紀から存在していたわけです。理想郷とも言えるような島だったのです。
ここにはアフリカやインドから移住してきた人々の子孫が住んでいました。初めは奴隷として連れて来られました。あるいは奴隷ではなくとも、強制労働のために移ってきました。それでも自由を得て、すばらしい社会を作っていたわけです。理想化しすぎてもいけませんが、プランテーションの労働者として働いていたところで、ここでの生活が終わってしまいました。プランテーション労働者であっても、自分たちの島に住んで、安定した生活が送れていました。労働の対価として社会保障もしっかりしていました。給料は現金、食物としてあたえられて、教育も無料でした。保険もありました。年金も出ましたし、葬儀のお金も出ました。
そのようなチャゴス諸島での生活がどのように終わったかといいますと、1960年代の初めに、米国海軍がディエゴガルシアに基地を造る計画を始めました。戦略的にディエゴガルシアを選んだのは、インド洋の真ん中という位置にあったからです。1963年にケネディ大統領がディエゴガルシアに基地を建設することを認めました。1964年にアメリカの高官とイギリスの高官が秘密裏に話をしました。というのはここは英国領で、そこに米国の基地を造るからです。その時代は植民地が独立していった時期でしたが、そのなかで新しい植民地を作る計画を立てました。セイシェルとチャゴスはひとくくりだったのですが、それを2つに分けました。チャゴス諸島は英国領インド洋諸島という、新しい植民地になったのです。
島にはチャゴシアンが住んでいたわけですけれども、米国の高官は、誰も住んでいない状態で引き渡せと主張しました。私が見つけた文書ですけれども、米国高官が英国高官に対して、もし人が住んでいたら強制的に退去させろと要求した文書があります。英国政府はそれに従いました。そして1400万ドルを支払うという約束で、英国は強制退去に賛成しました。その協定は1966年に署名されています。1400万ドルを払うことで米国はディエゴガルシアに基地を建設する権利を得たのです。英国はそのお金を受け取って、自分たちの手を汚して、チャゴシアンたちを強制退去させたのです。
1968年以降、チャゴシアンでたとえば医療を受けるために島を離れた、あるいは旅行で離れた人たちは、二度と帰って来られなくなりました。すぐ帰れると思って出て行ったのに、いざ島に帰ろうとすると、「あなたの島はもう売られてしまいました、戻ることはできません」と言われたのです。その後英国は、島に入ってくる薬とか食料を止めてしまいました。物資が不足することで仕方なく出て行く人たちが増えてきました。でも、いつか帰って来られると信じていました。
米海軍の最高権威が、残っているチャゴシアンの全員を強制退去させようと、1971年に命令を下しました。命令書はわずか3語です。Absolutely must go. 「絶対に行かなければいけない。」その後、アメリカ海軍が監視するもとで、イギリスの官僚がチャゴシアンを探して、見つけたら強制退去させる、ということを始めました。そして貨物船に詰め込んで、モーリシャス、セイシェルに送り出しました。
このとき、イギリス官僚はチャゴシアンがペットにしていた犬を燃やしました。飼い主の目の前で犬を燃やしたのは、命令を聞かずに居残るならお前たちもこうなるのだ、というメッセージでした。そのようにチャゴシアンの弁護士が言っています。彼らは強制退去に対する補償金はいっさいないままに連行されて、そのまま放っておかれました。ですから突然、非常に貧しい状態になったわけです。
強制退去のときの写真をいくつか見ていただきます。
持っていっていいものは、この箱一杯のものでした。モーリシャスやセイシェルでは、こんなところに住まわされていました。
いくつかのデータをご紹介します。平均収入は1日2ドルです。モーリシャスやセイシェルの人たちはもっとずっと高い収入があります。識字率は54パーセントです。アルコール依存症あるいはドラッグ依存症は、自己申告だけでも20パーセントです。これは私が仲間のアメリカ人と3人で行った調査によります。
チャゴシアンはその後、ほんの少し補償金を英国政府から受け取りました。でもその補償金を得るまでは、強制退去させられた人はモーリシャス、セイシェルでもどん底の生活を送っていました。
●北村
 ありがとうございました。質問をさせていただきます。
 まず、チャゴシアンが帰還の権利、金銭的な補償、戻った後の基地での雇用という要求を掲げて2000年に米国・英国両政府を訴えたと報道されています。この要求がどうなったか、お話しください。
●ヴァイン
 強制退去させられた後、チャゴシアンは抵抗運動を行って、帰還させよと主張しています。沖縄の人たちが運動を展開しているように、町中でデモをしたりハンガーストライキをしたり、署名を集めて英国政府・米国政府に提出したりしています。そしてここ15年、いくつかの訴訟を、米国政府、英国政府を相手に起こしています。訴訟を通して求めているのが、島に帰る権利を与えよということ、そして補償、さらには米軍基地があるならそこで労働させよというものです。
そのなかのいくつかは2000年に英国政府に対しては歴史的な勝利を得ています。経過は複雑ですが、ここ8年間でチャゴシアンは英国政府を相手に3回勝っています。英国の裁判所で満場一致で、強制退去が非合法であると言われたわけです。3回、チャゴシアンは勝ったのですけれども、その後英国政府が上告して、最高裁判所で1回は英国政府が逆転勝利してしまった。そのときは3対2という評決でした。
チャゴシアンは国際人権裁判所にこの件を持っていって、今度は勝つように努力しています。
●北村
 1975年に『ワシントン・ポスト』が強制移住について初めて報道したと。集団誘拐行為だという、かなり批判的な報道をしたということですけれども、この裁判闘争も含めて、そういうメディアの報道によって何か広範な運動が起きて、チャゴシアンをバックアップするというようなことが、米国あるいは英国で起きているんでしょうか。あるいはメディアの報道というのは、ほとんど影響がなかったのでしょうか。
●ヴァイン
 メディア報道はやはり影響が大きくて、1975年に英国で支援運動が広がりました。最近になってチャゴシアンが英国の裁判所で勝利を得たことを受けて、支援運動はさらに広がっています。それでも最後のチャゴシアンが強制退去させられてから2年もたってからようやくそういったニュースが出たのは、米国政府・英国政府の政策があったように思います。ディエゴガルシアの米軍基地を造ること、そのために強制退去をさせることは秘密裏に進められました。米国でも英国でも、国会には政府が嘘をついていました。その間、メディアが本当に行われていることを明らかにしないように、という政策が施かれていました。実際に米国国務省が『ワシントン・ポスト』に対して、基地に関する詳細を報道するのを遅らせるように命令しました。悲しいことに、『ワシントン・ポスト』はそれに従ったわけです。
●北村
 ウィキリークスが最近報じました。在ロンドン公使館の公電に秘密事項があると。そのことを少し、内容も含めてお話しください。
●ヴァイン
 ウィキリークスの件を見ても、ディエゴガルシアに限らず、米国がいかに秘密裏に物事を進めているかがよく分かりますし、ウィキリークスを支える運動の重要性が分かります。英国はチャゴス諸島に最近、海洋保護エリアを作ることにしました。海の環境を守るという、聞こえの良いものです。それでもチャゴシアンとその支援者たちにはすぐ分かりました。それは守るという名目でチャゴシアンが戻って住むことを妨害するためのものだったのです。質問に対して英国高官は、「いや、これは環境を守ることだけが目的だ」と言いました。でも、そこでウィキリークスが来たわけです。
 ウィキリークスが暴露した文書のやりとりのなかで、やはり海洋保護という名のもとでチャゴシアンが帰れなくしようということを、英国・米国政府が話し合っていました。英国高官からの文書のほうでは、チャゴシアンを非常に差別的に呼んでいました。1960年代によく使われていた言葉ですけれども、「あのターザンたち」とか、「あのフライデーたち」と。フライデーは『ロビンソン・クルーソー』のなかに出てくる、白人の言いなりに使える現地の人たち、という意味です。
 私にとって凄いなと思え、自分も頑張らなければと思うのは、チャゴシアンが40年経った今でもこの運動を続けていることです。私たちももちろん、自分たちの故郷の環境を守りたいです。私たちも、そこにいて守りたいです。
●北村
 海洋保護エリア、MPAと呼ばれていますけれども、これはもうできてしまったんでしょうか。
●ヴァイン
 英国政府によると、もうできたと宣言しているそうです。ただ、具体的に何かが進んでいるかというと、私が知る限りありません。環境を保護するなら、自分たちをそのための管理人にしてくれというのが、チャゴシアンの主張です。
●北村
 海洋保護エリアと米軍基地とは、きわめて矛盾した存在になると思うんですけれども、この点について米国はどういう見解でしょうか。
●ヴァイン
 ウィキリークスが暴露したなかにあった米国高官の文書には、まさにそのことが書かれています。「そのうち一般民衆がたぶんこういう質問をするだろう。どうして環境保護地区なのに大きな米軍基地があるのかと。そういう質問に対してどう説明しようか」というふうなやりとりもありました。
●北村
 結局、どう説明しているのでしょう。
●ヴァイン
 国家の安全保障のためには、例外も必要なんだと言っています。
●北村
 話は変わるんですけれども、これは日本でも大きく取り上げられました、ケビン・メア発言、当時の国務省日本部長の発言ですが、沖縄の人たちが「ゆすり名人」だというようなひどいものです。ヴァインさんは学生の作成したメモは正確であるとか、オフレコはなかったとか書かれていますけれども。実際にケビン・メアの沖縄の人たちを愚弄する発言は、先ほどのお話に引きつけて言えば、チャゴシアンに対する差別的な感覚を持っているんだと思いますが、ケビン・メアの発言を実際に聞かれたときにどのような印象を持たれたか、教えていただきたいのですが。
●ヴァイン
 ケビン・メアの発言を聞いたときに、私自身が侮辱されたような気もしましたし、日本の皆さんに心からお詫びしたいと思います。私の国の高官がそんなことを言うとは、非常にショックを受けました。彼がケビン・メアと学生たちの会見をセットしたのですけれども、そのセットした日がちょうどウィキリークスで米国の国務省の公電が暴露された、その日でした。彼が日本に学生を連れて来る前に、国務省日本担当の人に話を聞かせて下さいと、こういう話が出るとは知らずにセットしたんですね。そのときに米国の高官のほうから最初に「自己紹介をしてください」と言ったときに、学生たちは「ウィキリークスから来ました」とジョークを言ったそうです。高官も笑ったし、私たちも笑いました。それが下手なことを言ってはダメという牽制にもならずに、その後に彼はああいう差別発言をしたわけです。
それでも私たちの前で彼が本心を言ってしまったのは、いいことだったと思います。それがみんなに知れ渡ったから良かったということで、彼の態度、物の見方というのは残念ながら米国では珍しくはありません。彼がとくに「沖縄は日本のプエルトリコだ」と言ったのは、高官レベルで沖縄をどう見ているかをよく暴露していたと思います。プエルトリコも沖縄もどちらも島ですけれども、どちらも植民地的だった歴史を持ちます。プエルトリコの人も沖縄の人と同じように差別を受けています。どちらでも米軍基地を造るために住民が強制退去させられています。
このリストは、米軍基地のために強制退去させられた人々のリストです。沖縄では沖縄戦から始まって、1960年代まで強制退去させられています。ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんけれども、沖縄の人が何千人も何万人もボリビアとか南米に移住した歴史があります。プエルトリコのビアケスというところでも、20年間にずいぶんたくさんの人が強制移住させられました。リストは続いてつい最近でも、韓国の平沢では米軍基地の拡張のために人々が強制移住させられています。これは2006年から2008年という、つい最近の出来事です。
誰が強制退去させられているかを見ると、ひとつのパターンが見えてきます。植民地化された人々。そして西洋人ではない人たち。少数民族で政治力のない人々。そしてこういった人種差別がチャゴシアンだけではなく、世界中の強制退去させられた人たちに共通した話だと思います。
●北村
 今のお話の延長線上でちょっとおうかがいしたいんですが、沖縄はまさに1972年の施政権返還以後も、占領状態になっているというふうに、多くの人たちが思っている。僕自身もそう思っています。今の話で類似点は分かりましたけれども、ディエゴガルシアと沖縄と、相違点はどういうところがありますか。
●ヴァイン
 類似点をもう少し言いますと、強制退去させられたときに、差別的な態度を権力側にとられたのは類似点です。強制退去させられたときに家がそのまま確保できなかった人と、いちおう用意をしてもらった人という違いがあります。
日本でも人種差別があったということがはっきりするケースがひとつあったということですけれども、小笠原には19世紀以来、西洋の人を祖先に持つ人たちが住んでいます。第二次世界大戦のときに、そこに住む人たちを全員、日本が避難させました。避難したあと、日本を祖先に持つ人々も、欧米を祖先に持つ人々も、どちらも島に帰れなくなりました。その当時は米国海軍に占領されていた島です。でも本当に帰らせてもらったのは、欧米の人を祖先に持つ人だけでした。白人ということです。そこに地方自治体政府もできて、食料などの支援も受けました。ですから、米軍基地の隣に住んでもいいと許された人々と、同じところから来たのにそこに住んではいけないとされた人たちがいたわけです。その2つのグループの違いは人種でした。
先ほどのご質問に戻って、沖縄とディエゴガルシアの違いですが、強制退去させられた人数がだいぶ違います。沖縄のほうが多く、ディエゴガルシアのほうが少なかった。チャゴシアンの人数が非常に少なかったので、その人たちを強制退去させても誰も気にしないだろう、あるいは誰も気が付かないだろう、というのが米国政府・英国政府の考えでした。
もうひとつの違いは、始まった時期です。沖縄は第二次世界大戦の終わりぐらいから始まって、そもそもここに来たのはここに米軍基地を置きたかったからです。でも強制退去は戦争が終わった後も続きました。米軍が戦後になっても米軍基地を拡張し続けたので、退去も続いたわけです。
●北村
 沖縄にしてもディエゴガルシアにしても、島を利用した米国の軍事戦略というものがあると思いますが、それについて少し解説をしていただけますか。
●ヴァイン
 これは本を書くために見つけた文書です。ディエゴガルシアができたのはもう思いつきでできたわけではなくて、そもそものベースが、戦略的軍事施設を島に置いておこうというコンセプトに基づいています。第二次世界大戦中はもちろんその前から、主要な場所に位置する島に軍事施設を置くというのが、非常に重要なことになってきました。とくに太平洋戦争ではそうでした。それでも1950年代、60年代に、いろいろなところで植民地が独立するにつけ、米国政府は米軍基地も追い出されるのではないかと心配するようになりました。植民地が独立すれば、どうせ米軍基地も出て行けと言われるだろうと。そこで米国政府が考えたのが、戦略的軍事施設を島に持っていくコンセプトです。
 米国政府は世界地図を眺めて、米軍施設を置ける島としてどこがいいか、探し始めました。探した島は、戦略的に場所がいい、人口が少ない、政治力・経済力がないというものでした。その場所を探すときの鍵になったのは、たとえば東京とかソウルのような大都市の近くだと反対運動も起こってしまうから、できるだけ離れた、孤立した島を探しました。ディエゴガルシアはその大計画の最初の島だったんですね。その後も沖縄やグアムには米国は執拗に固執し続けています。
 ここに人口概数の欄があるんですけれども、ディエゴガルシアは500人とされています。これは米国政府が出している資料ですけれども、実際にはディエゴガルシアのメインの島には1000人が住んでいて、諸島には1500から2000人が住んでいました。私が見つけたCIAの文書には、また違う記録があります。チャゴシアンの人数を4文字を使って表記しています。NEGL、「無視するに足る」という意味です。非常に少ないからとくに考えなくても良いと。それは政府高官がどういう目で見ているかをよく表していると思います。今では強制退去させられた人たちの子供たちも含めて、約5000人がチャゴシアンです。
 先ほど、英国の裁判所で勝利したケースがあったと申し上げました。何を勝ち取ったかというと、英国の完全なる市民権です。ですから彼らはイギリス人として堂々と英国で生きていける。2002年以降、約1000人のチャゴシアンがロンドンの周辺に住んでいます。

2011/08/05

「ヴァインさんの話を聞く会」のご報告とお礼

「米軍基地問題をグローバルに考える~ディエゴガルシアから沖縄まで~

「ヴァインさんの話を聞く会」のご報告とお礼

残暑に負けずにご奮闘のことと拝察いたします。

表記集まりはスタッフなどを含めて約65名の集まりとなりました。これも一重に賛同団体の方々のご尽力によるものと心より感謝申し上げます。

賛同団体のみなさまは、実際に会に足を運ばれ、積極的に討議に参加してくださいました。「平権懇」は小さな組織ですのでこれからもお付き合いいただければ幸いです。

賛同団体 
沖縄意見広告運動(第二期) /イラク自衛隊派兵違憲訴訟全国弁護団連絡会議/基地はいらない!女たちの全国ネット/核とミサイル防衛にNO!キャンペーン/国際会議「占領下における対話 DUO V(デュオファイブ 沖縄)」/JUCON(Japan-US Citizens for Okinawa Network) /第9条の会・オーバー東京/ピースリンク広島・呉・岩国/許すな!憲法改悪・市民連絡会/横田基地問題を考える会/PARC・NPO法人アジア太平洋資料センター

会議は2時間30分に渡りました。ヴァインさんの映像を駆使されたお話により、ディエゴガルシアや世界の米軍基地などについて理解を深めることができました。質疑についても真摯に対応していただきました。

インタビュアーの北村さんはご自分のインタビューだけでなく“回答漏れ”について質問者に代わってヴァインさんに再質問するなど会を盛り立てていただきました。

通訳の古山葉子さん、メリ・ジョイスさんは、お二人で力を合わせて通訳してくださいました。

みなさまのご協力で素晴らしい集まりとなりました。どうもありがとうございました。

詳細は、この「へいけんブログ」に掲載いたします。記録の小冊子の作成については「平権懇」の運営委員会で検討させていただきます。

ご協力に重ねてお礼申し上げます。

    
2011年8月5日
                     
平和に生きる権利の確立をめざす懇談会
 http://comcom.jca.apc.org/heikenkon/
へいけんこんブログ
http://heikenkon.cocolog-nifty.com/blog/

2011/07/22

米軍基地問題をグローバルに考える~ディエゴガルシアから沖縄まで~ 

「ヴァインさんの話を聞く会」にぜひ、ご参加ください  

沖縄をはじめ世界各地にある米軍基地の現状を報告し、基地のあり方を考える国際会議「占領下における対話」が、8月4日~8日の4日間、沖縄で開催されます。この会議は、過去にシカゴやエルサレムなどで開かれ、アジア圏での開催は初めてです。

私たちは、この会議に参加するために来日する米国ワシントンのアメリカン大学准教授、デビッド・ヴァインさん(36歳。研究分野は米国の外交政策、人権)の話をうかがい、米軍基地問題をグローバルな視点から考える機会をつくりたいと思います。

ヴァインさんは、アフガン・イラクへの出撃拠点となっているディエゴガルシア米軍基地の問題に詳しい方です。当基地建設のために追われた先住民族が起こした訴訟に寄り添いながら、米国での人権運動、軍事費削減運動を通じて基地問題の解決のために活動しています。沖縄も何度か訪れており、昨年アメリカの学生などを連れて訪れた際、学生たちが「メア発言(*)」に関して証言をし、沖縄の反基地運動に大きく貢献しました。

 皆さま、ぜひご参加ください。

*「メア発言」:ケビン・メア前米国務省日本部長が昨年12月、アメリカン大学で日米同盟に関して講演した際、「沖縄はゆすりの名人で怠惰」と差別発言をした

日 時 2011年7月29日(金)午後6時30分から
会 場 毎日ホール(東京・竹橋 毎日新聞社内)
*東京メトロ竹橋駅下車。パレスサイドビルの地下一階にあります
資料代 500円

お 話 デビッド・ヴァイン
インタビュアー 北村 肇(『週刊金曜日』発行人)
通 訳 古山葉子(PARC自由学校講師)
メリ・ジョイス(ピースボート国際部)

主 催 ヴァインさんの話を聞く会
賛同団体 沖縄意見広告運動(第二期) /イラク自衛隊派兵違憲訴訟全国弁護団連絡会議/基地はいらない!女たちの全国ネット/核とミサイル防衛にNO!キャンペーン/国際会議「占領下における対話 DUO V(デュオファイブ 沖縄)」/JUCON(Japan-US Citizens for Okinawa Network) /第9条の会・オーバー東京/ピースリンク広島・呉・岩国/許すな!憲法改悪・市民連絡会/横田基地問題を考える会/PARC・NPO法人アジア太平洋資料センター

協 賛  『週刊金曜日』  

  
お問合せ連絡先 平和に生きる権利の確立をめざす懇談会 
    杉山隆保 E-mail: nora@cityfujisawa.ne.jp mobile: 090-5341-1169
参考・ヴァインさんのサイト http://www.davidvine.net
お願い 会場の準備がございますので、ご参加の予定が立ちました方はご一報いただければ幸いです。

2011/06/25

アフガン・イラクへの出撃基地、ディエゴガルシアを知っていますか?

アフガン・イラクへの出撃基地、ディエゴガルシアを知っていますか?   
「ヴァインさんの話を聞く会」を開きます ぜひ、ご参加ください 

米国は中東での権益を擁護する拠点として、1966年にインド洋上の英国領ディエゴガルシアの賃借契約を結び、ここに広大な軍事基地を建設しました。これに伴って同地の先住民チャゴスの人々は1200キロも遠方の島々へ強制移住させられました。ディエゴガルシアはいまや米軍がアフガン・イラクに出撃する拠点として使われ、またCIAのテロ容疑者収容所も設置されていると言われています。

米国ワシントンのアメリカン大学準教授、デイヴィッド・ヴァインさん(社会人類学専攻)は、チャゴスの人々がロンドンで提起した郷里を奪還する訴訟に寄り添いながら、米国での人権運動、軍事費削減運動を通じて基地問題の解決のために活動しています。

その彼が沖縄で開催される学術会議に参加するために東京に立ち寄ることになりました。そこで、私たちはこの機会にヴァインさんのお話をうかがい、米軍基地問題をグローバルな視点から考えたいと思いました。下記の企画の呼びかけ団体としてご参加下さいますようお願いいたします。東京での会合ですので、ご参加いただけない場合は、どうぞメッセージなどお寄せください。

会合名 アフガン・イラクへの出撃基地、ディエゴガルシアを知っていますか
主 催 ヴァインさんの話を聞く会
    代表・榎本信行(弁護士)
    事務局・杉山隆保(平和に生きる権利の確立をめざす懇談会)
呼びかけ団体 広く募集中
日 時 2011年7月29日(金)午後6時30分から
会 場 毎日ホール(東京・竹橋 毎日新聞社内)
    *東京メトロ竹橋駅下車。パレスサイドビルの地下1階にあります  
お 話 デイヴィッド・ヴァイン
インタビュアー 北村肇(週刊金曜日)
通 訳 古山葉子

問い合わせ・連絡先 杉山隆保 E-mail: nora@cityfujisawa.ne.jp mobile: 090-5341-1169
参考・ヴァインさんのサイト http://www.davidvine.net


2011/03/14

イージス艦「あたご」事件の公正な判決を求める2.26横浜集会③

質疑・討論

中杉喜代司 検察官の調書の取り方は交通事故の刑事裁判と同じだと思いましたが、海の場合の実況見分はどのように行うのでしょうか。

田川 海でも現場検証はやります。ただ、陸上では事故の痕跡が残りますが、海上では風や潮の流れがあるので、30分もたてば場所の特定のしようがない。そういう困難があります。

竹中正陽 被告人側は大弁護団を組織したり、多くの証人を立てたりしていますが、自衛官個人で裁判ができるとは思えません。何かバックアップする組織のようなものがあるのでしょうか。また、海難審判での海上自衛隊の主張と防衛省報告とが矛盾している、整合性がないように思うが、どうでしょうか。自衛隊内でも逆転させたいという思いがあるのでしょうか。

大型船を持つ船会社では会社側の意見として、漁船が多くてかなわん、小さい方が避けるべきだという声もあります。会社の利益からすれば大型船優位にしたいと。

大内 防衛省は関係者の処分をして、「あたご」側に責任ありとはっきり認めました。裁判で被告人が無罪を主張しているのは、防衛省の態度とは異なります。だから被告人側は、自衛隊組織を挙げての支援は得られません。ただ、防衛省の処分決定に納得できない人々が自衛隊内にたくさんいて、その人々からのカンパがあるのだろうと思います。

田川 組織だっての支援があるとは思えません。ただ、「なだしお」事件でも艦長支援のカンパがたくさん集まって残ったので、それを今回も使っているとも言われます。今回は3人の弁護士は大阪から来ている。被告人はまだ30代ですから、多額の弁護士費用を自分で払えるはずがないのは事実です。

栗原三郎 自衛隊は海技免許がなくても船を動かせるというのはおかしな話ですが、外国ではどうなのか、国際ルールはどうなっているのでしょうか。もうひとつ、民事裁判はどうなるのでしょう。

大内 海上自衛隊は海技免許なしですが、独自に試験を行って資格を与えています。外国でも同じだと思います。

 民事裁判ですが、すでに遺族には防衛省から賠償金が支払われて示談が成立したと聞いていますので、裁判はありません。 

匿名希望 刑事訴訟法の改正で、被害者側も検察側から裁判に参加できるようになったはずですが、本件ではどうでしょうか。被害者遺族が田川先生に依頼すれば可能ですか。

田川 可能だと思います。

小幡利夫 仮に今回の事件で自衛官が無罪になった場合、自衛隊の戦意と言いますか、大きな影響があると思いますが。

大内 防衛省トップは慎重ですが、たとえば尖閣諸島問題などでは、自衛隊内部にはもっと強硬な態度を取るべきだ、自衛隊が出動すべきだと考える向きも少なくないと思います。今回の判決結果によっては、そのような強硬派を元気づけるという危険なことになるかもしれません。

大内 「あたご」事件はネット社会でも多くのブログ等で扱われていますが、「自衛隊が悪い」という意見に対してはすぐに、「民間船は軍艦を優先させるのが当然、それが国際ルールだ」などという書き込みがされます。そんな国際ルールがあるのでしょうか。

田川 かつては軍艦に出会った時には船旗を半旗にして敬意を表するような慣習もあったということですが、海上衝突予防法のような交通ルールは世界共通です。事故があれば軍艦も民間船も同じ法で裁かれる。ただ、艦隊を組んで進む軍艦の間を横切るのは危険ですから、この場合は先に通すのが慣行です。

吉清祥章 軍艦は灰色なので、海では非常に見えにくいんです。灯火も民間船と違って見えにくいと思います。

高橋二朗 大型船だと、前と後ろに灯火をつけても、その間には何もないと思って向かって来る船があります。それを避けるために中間にも灯火をつけます。

吉清祥章 自衛隊は「清徳丸」が24ノットで走ったと言いますけれども、漁場に向かう船がそんなにスピードを出したらエンジンがだめになる。(会場から、「高い油を無駄にするし」の声)

「あたご」は定数以下の人数で見張りをしていた。探照灯で警告したと言いますが、僚船の船長に聞いたところでは、漁船が避けた後で探照灯を照らしている。漁船のほうで避けるべきだという考えがあるのではないでしょうか。

竹中正陽 「あたご」は衝突当時、艦長は仮眠していたということですが、商船では入港する1時間以上前に「全員起こし」をします。だから東京湾入口近くなら当然、全員が起きて配置に着いている。寝ているなど考えられません。

イージス艦「あたご」事件の公正な判決を求める2.26横浜集会②

報告2 田川 俊一

あたご事件の論点

 私の方は細かい点と言いますか、当日3時以降のことに絞って、なぜ衝突したのか、どこに原因があるのか、という点を中心にお話をさせていただきます。

 本件に関しては、「あたご」の速力、進路については、それほど大きな論点はないのですが、問題は「清徳丸」の衝突にいたる航跡です。どういう状況でどう進行して衝突したのか、という点につきましては、海難審判、検察官の論告、被告人の弁論、それぞれ主張があって事実認定が違います。

 審判の裁決と検察官の論告は、両船の航跡、接近模様からして、海上衝突予防法15条の「横切り船」の航法が適用になり、「あたご」に避航義務があったということでは一致しています。

 被告人側は、「清徳丸」が衝突の3分前から急に右転をして、速力を増大させて、「あたご」の前方に自ら出てきたのであるから、これは 「清徳丸」に衝突の全面的な原因がある、このような主張をしたわけであります。

 裁判で争われましたのは、航跡を分析することによって、どちらの船が避航義務があるのに避航義務を尽くさなかったのか、陸上で言うと赤信号、黄色信号はどちらの船であって、どちらの船が青信号であったかというふうに、大まかに言えばなります。

 いま申し上げましたように、本件では、後に航跡図をお示ししますが、「あたご」は323とか328度のコースで北上しておりました。一方「清徳丸」は215度のコースで西のほうに向かって進んでいた。そうしますと、北上する「あたご」からは「清徳丸」は右舷前方に見る関係になります。

 世界の共通ルールである海上衝突予防法の15条に規定がありますが、他の船舶を右舷側に見る船舶、本件では「あたご」が、「清徳丸」を右舷側に見ているので、衝突を避けるために避航動作をとらなければならないことになります。陸で言えばブレーキを踏むなりしなければならない。船舶にはブレーキがありませんので、エンジンを使って速力を減速させる、あるいは大きく右に舵を取る、ということで避航することになっております。

 海上衝突予防法のもともとは、大昔に英国から発生したわけですけれども、昔の帆船は港に着く場合は左舷を着ける。避航する場合は右舷に見る船を避航する。帆船ではそのほうが良いということであるようです。右側通行の原則です。船では左側のことを今でも「ポートサイド」というふうに呼ぶんですが、岸壁に左を着ける。飛行機に乗っても、左側が出入口です。逆はない。

あたご側の“無罪”との主張

 さて被告側の主張は、「清徳丸」が衝突の3分前に大きく右転して、速力を増して「あたご」の前路に出てきたというものです。被告側の主張する「清徳丸」の航跡図ですが、衝突3分前ころに大きく右に変針して、20度ぐらい右転しているのですが、それからさらに進んで、衝突直前になってもう一度右転している。こういう航跡で出てきたので避けようがなかった、というにあります。宮田鑑定による航跡図に依拠していると思われます。

 なぜそういうふうな航跡図ができるのか。一言で言えば「結論ありき」で、結論に合わせて図を引いている、ということです。

恣意的な宮田鑑定

衝突すると思えば船員は、本能的に右舵を取ってエンジンを止めます。危ないと思ってアクセルを踏むようなことは絶対にしない。「清徳丸」が急に前路に出てきたと言うからには、右転したことにしなければならない。最初の宮田鑑定は「清徳丸」が衝突前に1回右転する図を裁判所に出した。そうしますと「清徳丸」は22とか24ノットの速力でないと衝突地点に至らないんです。24ノットでは、それまでの15ノットの速力から9ノットも増速することになりますが、これは考え難いので、約5ノット増速して20ノットぐらいの速力に押さえて作図し、結論としては、衝突時刻に衝突地点に至るように、つじつまが合うようになっております。

宮田さんはもと高等海難審判庁長官で、船長経験がありますので、つじつまの合うように図を引くことについてはベテランです。ただし恣意的な図ではだめなのです。

海難審判でも当初、自衛艦側は清徳丸が右転して増速したという主張はしていませんでした。途中から、いや、あれは「清徳丸」に衝突原因があったと言い出しました。艦長の舩渡さんの発想といいますか、原案を作ったようですが、それに基づいて弁護団が宮田さんに鑑定依頼をしたと、こういうことになるわけです。

宮田鑑定、自衛艦側の主張の基本的な欠点は、清徳丸のコースを2度に分けて右転させていることです。当初の1回の右転説では「清徳丸」は22から24ノットもの速力を出さなければ衝突地点に至らない。試運転のときには最大速力として出します。だけども一般航行中に2224も出すはずがないのです。それで修正された航跡図では、15ノット程度で進行中、20ノットに増速した、というふうにしています。

千葉県勝浦の港から出て三宅島でマグロの餌を獲りますので、漁港から沖へ出ますと、そこから行き先を入れて、215度とか220度とかの進路に設定します。それから餌場に午前8時に着くとすれば、15ノットという速力も、算出します。そこで針路と速力を設定して自動で航行します。海上のことで道路ではありませんので、風波によって船がぶれて動くのはその通りであります。速力も常に15ノット、ピッタリとはなりません。新幹線ですとレールの上を走り、コンピューター制御をしておりますから、現地点、速力は何キロか、秒、メートル単位で出ますが、海上ではその必要もないのです。

清徳丸が東京湾に向かうのではないのに、三宅島に向けて航行中になぜ20度も急に右転して速力を5ノットも上げるのか。海上では10から15ノットくらいがごく普通の速力です。「あたご」もこのときは約10.5という速力です。

 いずれにしても、両船はごくごく普通の航行をしていました。したがって「清徳丸」が急に右転して増速する必要はないのであります。

あたご側の見張りの欠落

 陸上でも飛び出しがいちばん避けにくい。これは海上でも同じで、急に自分の前路に増速して出てきたら、これは避けにくい。しかし、海上では急に速力は上がりません。見張りさえ十分にしておれば、他船の接近状況は分かります。

「あたご」ではブリッジ(艦橋、操舵室)に11人の人がいたということですが、普通の商船ではいても2人、多くて3人です。なぜ11人もいて、「清徳丸」が右舷方から近づいてくるのが分からなかったのか。まさに縦割り体制の弊害ではないでしょうか。操舵、舵を握っている人は舵を握ることが任務で、横を向いてはいけないんです。右舷見張り員は、前方と右舷側以外を見ることはないのです。それぞれ自分の職域を全うするのですが、11人いたうち誰も「清徳丸」が右舷から接近してくるということを見ていなかったことになります。見ていれば、清徳丸の接近は分かります。見えないはずがありません。

検察航跡の弱点

 海難審判庁の裁決、それから検察官の論告、それから弁護側の弁論、3通りの航跡が引かれていますが、われわれ船関係の者が見ると、いちばん矛盾がなくて、こうではなかろうかと思うのは、海難審判庁の裁決です。検察官の航跡で弱い点は、康栄丸から左7度、3マイルに清徳丸をおき、近くになってから「あたご」の乗組員の2人が、70度・200メートルに見えた、70度・100ヤードに見えたと供述しているのを、きちんとピンポイントで置いてそこを必ず通すという作図をしたものですから、やや無理が生じています。しかし海上での目測ですから、そのようなピンポイントで定める必要はないのです。

被告人側の検察に対する揚げ足取り

 もうひとつ、検察が弁護団から追及されたのは、「康栄丸」という同僚船の証言についてです。これはGPSがありますので比較的はっきりポジションが出ている。その船長が、「清徳丸」を約7度、3マイルに見たと検察は主張。本人は法廷で「73マイルと言ったことはありません」と証言しました。きちんとレーダーでカーソルを当てて見ない限り、7度なんて分からないんです。だいたい5度から10度の範囲内ということなんですかね。それを海上保安官が後に、船長が言ったことをチェックすると7度になるということで7度にした。距離もレーダー上の目測で3マイルピッタリということは読み取れないのであり、それを3マイル前後と見て、その当時の態勢が合理的になるということで3マイルにしたと思われます。ところが調書では「康栄丸」の船長が「7度、3マイルに見た」となっている。海上保安官の調書作成の仕方が適切ではなかったのです。初めから本人は「7度、3マイル」とは言っていないけれども、証言を細かくチェックしていくと7度、3マイルに落ち着くと、そう調書に書いておけば十分であったと言えます。

 また検察側が追及されたのは、取り調べの時にいろいろと最後の調書の前にメモを取るんですね、それを捨ててしまった。当時、大阪地検の前田検事が証拠の改ざんをしたり、いいかげんな捜査をしたということが問題になっていました。また海上保安官も尖閣諸島問題がありました。弁護団から、検察、海上保安官作成の調書は信用できないと言われたわけです。被告人は、検事は作文をしていると、はっきり法廷で言っているんですね。検事が書いた航跡図は、お絵かきだとも言う。私は弁護士を長年やっておりますが、「無罪だ」と言う人はたくさんいますけれども、ここまで言うのは珍しい。

被告人は、自分個人のためだけではなくて、海上自衛隊、国のためにもがんばり通さなければいけないと思っているようです。長岩被告人は、私は今後も国民の付託にこたえ、国防という職務に邁進すると述べました。海軍の伝統で、菊の御紋を背負っているという発想があるのではないかと思われます。

交通ルールを遵守するべきは陸上も海上も同じです。戦車であれ潜水艦であれ、赤信号では止まらなければならないのです。

「なだしお」事件の教訓を生かしていない

「なだしお」事件は19887月の事件ですが、「あたご」はその教訓を生かしていないのであります。海上自衛隊側は、海難審判の1審では勧告、2審の高等海難審判ではそれはなくなったんですが、勧告をなくすために何を言ったかというと、見張りを十分にするなど安全教育を徹底的に行うということでした。

そこで、「なだしお」事件と「あたご」事件を比較してみます。

    両艦とも優秀艦船である。

イージス艦はできて2年でしょうか、1隻が1千億円以上もする艦です。非常に優秀な艦船で、レーダーで複数の標的を一気に捕まえることができる。「なだしお」も優秀な潜水艦でした。「あたご」の艦長も「なだしお」の艦長も、海上自衛隊のエリートでした。

    平和な海で自衛艦が民間船と衝突し、重大な結果が発生した。

「なだしお」事件では30名、遊漁船の乗客28名と乗組員2名が死亡。「あたご」事件では乗組員2名、親子が死亡しております。

    本件には世界共通の海上交通ルールである海上衝突予防法が適用になる。

    いずれも自衛艦側に避航義務があった。

航跡図からすると、いずれも自衛艦側に避けなければならない義務があったというふうに、交通ルール上なるわけです。「なだしお」は「富士丸」を発見しておりましたが、驕り高ぶりでしょうか漁船が避航すべきとして、ただちに適切な衝突を避ける動作、速力を落とすとか進路を変更することをしなかった。「あたご」では、どうも見張りができていなかった。

    海上自衛隊は、両事件とも事実を迅速に発表することなく情報操作をしていた疑いがある。

衝突直後に「あたご」からヘリコプターで、キーパーソンを防衛省に呼んできて、事故の事情聴取をしていたようです。その内容は公表しなければいけないのですが、していません。防衛省は、はじめ2分前に「清徳丸」を見た、いや12分前だった、じつは30分前だったと二転三転して発表をしていますが、混乱のままであったのか、どの時間を取れば自分に具合がいいのか考えていたのではないかとも思われます。

しかし防衛省は最終報告で、はっきり「あたご」に原因があったと認めています。にもかかわらずと言いますか、「あたご」の当直士官は完全無罪を主張し、防衛省発表は残念だ、と漏らしているようであります。

「なだしお」事件では、衝突してまだ海に投げ出された人を助けなければいけない時に、艦長らは艦内で航泊日誌を書き換えていた。事故直後から情報操作と言いますか、証拠隠滅をしていた。私どもは公文書偽造ということで横浜地検に告発したのですが、検察庁は取り上げませんでした。

 自衛艦側は、1988年の「なだしお」事件でも、この「あたご」事件でも、いずれも審判あるいは刑事裁判で「無罪」を主張しています。言い方が似ています。「なだしお」でも、漁船がわが艦の前に出てきたと主張していました。「あたご」でも、速力を落として右に舵をとって避航すればいいものを、それをしないで、「清徳丸」が飛び出してきたのが悪いというような主張をしております。彼らは大きな事故を起こしたけれども、それを謙虚に反省して次の機会に生かすというふうなことがないのでしょうか。

再発防止につながる判決を

「なだしお」の艦長は禁錮26月、執行猶予4年の判決でした。「富士丸」の船長は禁固16月、執行猶予4年です。「あたご」両被告人とも、禁錮2年という求刑ですが、これが軽い、重い、ということは問題ではありません。

何が原因で衝突したのか、真実の発見を裁判所にしてもらいたい。そのことが再発防止につながる。このことが大事ではなかろうかと思っております。

 裁判の進行を見ていますと、弁護側に主張、立証をつくさせ、ていねいに訴訟指揮をしております。

本件が仮に無罪となれば、検察は控訴するでしょう。有罪となれば、禁錮2年・執行猶予4年が穏当と思われますが、被告人は完全無罪を主張していますから、控訴するのではないでしょうか。

 私どもとしては、裁判所がどういう事実経過を認定して、どういう理由で有罪とするか、大いに注目して見守りたいと思っております。

イージス艦「あたご」事件の公正な判決を求める2.26横浜集会①

報告1 大内 要三

裁判までの経過

 裁判経過のご説明の前に、事件の性格について説明しておく必要があるかと思います。この悲惨な事件が起こったのは2008219日のことでした。ほぼ3年前ということになります。千葉県勝浦市川津港から出た漁船「清徳丸」には、吉清治夫さん(58)と息子さんの哲大さん(23)が乗っておりましたけれども、三宅島沖で餌のサバを獲って八丈島沖まで行ってマグロ延縄漁をするつもりで出て行ったところ、千葉県野島崎沖でイージス艦「あたご」にぶつかられて沈没してしまった。船は左舷が大破して真っ二つに割れてしまいまして、人が乗っていた操舵室とともに2人は行方不明のままになりました。

 非常に早くからこの事件の本質を捉えていた人があります。朝日新聞出身の軍事評論家、田岡俊次さんが、事件が起こった日の夕刊に書いています。回避義務はあたご側にあったはず。見張りをしていれば肉眼で十分に発見できた。「房総半島南方と伊豆大島東方の海面は東京湾に出入りする船が多く、未明にそこに差し掛かればもっとも緊張して見張るべきで、艦長、当直士官、見張り員らは何をしていたのか、ふしぎなほどだ。」その日のうちにこういうことが分かってしまうくらいに、明々白々な事件だったんですね。

 私ども「平和に生きる権利の確立をめざす懇談会(平権懇)」も、この事件を市民の手で解明しようという集会を持ちました。事件からほぼ1年後の200937日のことです。「赤旗」が報道してくれました。このとき私は報告をして、これは単なる事故ではなく事件であると強調しました。なぜなら、①見張りの不備があったほか、②なぜ衝突回避をしなかったのか、③なぜ救難をきちんとしなかったのか、④防衛省・総理への報告の遅れ、⑤証拠隠滅の疑い、⑥情報隠し、情報の二転三転、⑦そもそも安全対策がなかった、といった問題があったからです。かつて1988年には「なだしお」事件がありました。2001年には「えひめ丸」事件がありました。軍艦と民間船がぶつかった悲惨な事故が過去にあったにもかかわらず、自衛隊は何を学んだのだろうかと。

 では次に、今回の「あたご」事件の真相究明がどのように行われて、どのように責任追及がなされたのかについて、少しお話をします。

 2008321日、事件から1月あまり後に防衛省の艦船事故調査委員会が、「あたご」の乗組員から聴取をした結果として、中間報告を出しています。同時に海上幕僚長は退任、防衛省の幹部7人が処分されました。早々と上の方では処分がなされたわけです。この中間報告ですでに明らかになっていたのは、次のようなことです。「衝突前の見張員の配置やCIC(戦闘指揮所、ここでレーダーで見張りをしています)における当直員の配置状況も含め、艦全体として見張りが適切に行われていなかった」「あたごに避航の義務があったが、あたごは適切な避航措置をとっていない。また、衝突直前にあたごがとった措置は、回避措置として十分なものでなかった可能性が高い」。

 その後、海難審判が行われました。海難審判所は海の事故の原因究明をするところですね。08627日に横浜海難審判所に申立てが行われました。事件の当事者、指定海難関係人となったのは5者です。海上自衛隊第63護衛隊(のち第3護衛隊に組織改編、代表・同隊司令)、艦長、当直士官、前直士官、そして戦闘指揮所の責任者。1022日までに6回の審判が行われました。

 海難審判の結果ですけれども、2009112日の裁決では、非常に明らかに「あたご」側に責任があると言っています。「あたごの艦橋とCICの間に緊密な連絡・報告体制、並びに艦橋及びCICにおける見張り体制に複合的な背景関係にあって本件が発生したもので、総合的に改善する施策を整備し実効有る取り組みを行わなければ事故再発防止は図れない。個人には勧告しないが、第3護衛隊組織全体に対して勧告するのが相当である」。このように自衛隊組織に対して、きちんと改善しないとまたこういうことが起こる、と結論を出したわけです。

 では防衛省の結論はどうか。中間報告を出した後も聞き取りを続けて、2009522日に最終報告を出しています。報告書は書いています。「第2直当直士官の見張り指揮、見張り、行船上の判断・処置及び艦内における指揮は不適切であり、事故の直接的要因と考えられる」。まず衝突時の見張り責任者に責任がある。「艦長の運行に関する指導は不十分であり、事故の間接的要因と考えられる」。衝突当時は仮眠していたけれども、艦長にも責任がある。「隊司令のあたごに対する訓練管理及び安全管理に関する指揮監督は不十分であり、事故の間接的要因と考えられる」。つまり、自衛隊組織にも問題があると、防衛省そのものが認めたということです。

 再発防止策として、①見張り及び報告・通報態勢の強化、②運行安全に係るチームワークの強化、③運行関係者の能力向上による運行体制の強化、④隊司令による指揮の徹底、その他を挙げています。

 処分としては、前艦長と当直士官に停職30日、停職・減給・戒告・注意・口頭注意を含めて、計38人に処分がなされました。

 このように、海難審判においても、自衛隊内部においても、あたご側に責任があることは非常にはっきりしたうえで、裁判が行われたということです。

「あたご」という船がその後どうなったかについても、少しだけお話をしておきたいと思います。2008328日付の人事で、新艦長として清水博文一佐が就任しました。前艦長の舩渡健一佐は、0971日付で広島県江田島の海上自衛隊第一術科学校研究部長に左遷されました。そして「あたご」は昨年、カナダ海軍創設百年記念国際観艦式に参加した足で、6月から8月までリムパック2010演習に参加しています。環太平洋の多国籍合同演習ですが、米国の航空母艦「ロナルド・レーガン」を守る役目で「あたご」が参加しています。

 昨年12月には新防衛大綱が10年計画として発表されたことはご存じと思いますけれども、同時に発表された中期防衛力整備計画、5年計画の中に、「あたご」の改修計画が盛り込まれました。イージス艦といっても「あたご」は今まで、敵ミサイルをレーダーで捕捉して仲間に知らせることはできても、落とす能力は持っていなかったんですが、それができるようになります。相当に強力な軍艦になります。

裁判の枠組みと経過

 さて、裁判の話に戻ります。すでに事故の原因究明は海難審判で行われ、自衛隊内部での処分も行われているわけですから、残るは社会的責任の追及ということになります。これが刑事裁判です。

 今回の裁判では、衝突当時の当直士官(長岩友久三佐)と、その前直、すなわち交代する前の当直士官(後潟桂太郎三佐)、この2人だけが起訴されました。艦長(舩渡健一佐)の責任は追及されていないし、自衛隊の上部組織の責任者も起訴されていません。海難審判の裁決では前直は事故の原因とは関係なしとされていたのですが、検察の判断は違って引継ぎに問題ありとしています。艦長が責任を追及されないのは、衝突当時に船の運航に関わっていなかったからだということです。刑事裁判で「海上自衛隊」が被告にならないのは仕方のないことですが、当時の防衛相とか第3護衛隊司令のような、上部組織の責任者が被告人となることはあり得たはずですけれども、検察はそれをしませんでした。

 最近の刑事裁判では事前整理で、公判が始まる前に検察と被告側弁護人との間で、どこを争点とするかが決められています。今回の事件では、見張りの不備と「清徳丸」の航跡の2点に争点が絞り込まれています。それにしては相当に長い、18回の公判というていねいな裁判が行われましたけれども、2つの争点以外は始めから問題にされていませんでした。衝突の直接的原因については追及するけれども、間接的原因については追及しない裁判であったということです。

 2人の被告人は無罪を主張していますけれども、情状酌量でなく無罪主張ということは、裁判の結果以前に、すでに自衛隊に対する反逆ということになります。自衛隊はすでに処分も発表して、「あたご」側が悪いと自ら防衛省は認めている。被告人の無罪主張は、自衛隊の決定に不満であると言っていることになります。ですから自衛隊全体からの支援は受けられないわけです。

 横浜地方裁判所で2010823日に裁判が始まりました。裁判では勝手に写真は撮れませんのでお見せする写真はテレビ画面からのものです。冒頭に3分間だけ全く動かない映像を撮る。これも不思議なもので、この画面に被告人はいない。人権を守るのはいいことですけれども、誰が何をしている場面なのか、よく分かりません。

 横浜地裁の第6刑事部に係属しています。業務上過失往来罪と業務上過失致死罪の疑い。裁判官は3人です。秋山敬裁判長、林寛子・右陪席、海瀬弘章・左陪席。恐らく左陪席が判決を起草して合議、裁判長が最終的にまとめるのでしょう。

 主任検事は今村智仁さん、検事側は2人が出席していますけれども、弁護側はなんと峰隆男主任弁護士など5人という大弁護団です。傍聴には毎回、自衛隊の方も来られているようです。しかしこの裁判が意外に注目されていないというか、注目のしようもない形になっているのは、たいへん残念なことだと思います。というのは、全国紙に報道されたりテレビで報道されたのは、裁判が始まった時と求刑のときくらいで、18回の公判ごとに何が行われていたのかは、新聞の地方版にしか出ていないんです。比較的ていねいに報道していたのは神奈川新聞と毎日新聞、そして赤旗です。神奈川地域以外の方は、どのような裁判が行われていたのか、ほとんど知ることができなかったということです。傍聴人も、最後のころはわずかに20人いるかいないか、くらいでした。

 しかも刑事裁判では、被告人の人権擁護の立場から、当事者以外は裁判に提出された文書も裁判記録も、閲覧することも複写することもできないんですね。時にはくじ引きになる傍聴券を手に入れて傍聴をしても、録音もできないし撮影もできない、メモを取るだけになります。

 では裁判で何が行われたのか。まず検察側の主張です。

「清徳丸」の航跡が争点になっていますけれども、残念ながら「清徳丸」は沈没したためにGPSによる記録は失われています。そのために「清徳丸」がどのように動いたかは、仲間の船に残された記録と、他の船からどのように見えたかという証言とから再現するほかはありません。そのうえで検察側は、①「あたご」に回避義務があった、②当直士官は衝突防止の注意義務を怠った、③前直は誤った引継ぎをした、と主張しました。

 起訴状を見ますと、「後潟被告(前直です)は接近中の漁船の動きを正確に引き継ぐ注意義務を怠り、停止操業中と誤った申し送りをした。長岩被告(当直士官です)は誤りに気付いた後も衝突を防ぐ注意義務を怠り漫然と航行を続けた。2人の過失の競合により漁船に衝突し沈没させたことは、業務上過失往来危険罪にあたる。また沈没した清徳丸の吉清治夫さん、吉清哲大さんを死亡させたことは、業務上過失致死罪にあたる。」とされています。

 これに対して被告側は、「清徳丸」が直前に右転しなければ衝突しなかった、という主張をしています。それを裏付けるために、元高等海難審判庁長官の宮田義務憲氏が作成した航跡図と、前艦長の舩渡健氏が作成した「存在圏図」、つまりいろいろな証言を重ね合わせると「清徳丸」がいた可能性のあるところはここだ、という図を出してきました。

「あたご」がどこで見張りをしていたかというと、ひとつはCIC(戦闘指揮所)です。ここからは外は見えませんが、レーダーで監視しています。もうひとつは艦橋です。窓から外が見えます。

 長岩被告は次のように証言しています。前直からの引継ぎについては、「交代後は私の責任で運行している」ので影響はない。自分の操船は「百点満点ではないが平均より十分上」だった。事故の原因は「考えても考えても思いつきません」。いちばんの反省点は「艦長の目の届かないところで事故を起こさせてしまったこと」。

 後潟被告は次のように証言しています。漁船が停船・操業中との判断は「見誤ることは常識的に見て考えられない」。「横からいきなり前に出てくる船は予想できるものではない」。「衝突と聞いて、どこから来たのかと思った」。

 被告側は、見張りや引継ぎは適切であった、検察側の強引な立件による冤罪事件であると主張しました。実際に取り調べをした海上保安庁の保安官や検察側の人を呼んできて、どのような取り調べをしたのか、その取調のメモは残っているのかと、延々と証人尋問をしました。そのときに、残念なことですけれども、海上保安庁・検察の取り調べに相当に杜撰なところがあったことが暴露されました。

明らかになったこと、争われなかったこと

 裁判で明らかになったことは何か。まず、監視が不十分であったことです。実際に見張りをしていた人の証言がありました。右舷、すなわち漁船群がいちばん見えるところで見張りをしていた人間が、このように言っています。「水平線上に3つの白灯を見、近づいていると認識したが、交代時に引継ぎをしなかった」。同じ右舷の衝突時の当番は、「3漁船と思われる白灯・赤灯を見たが、すでに前任者が報告済みと思い、当直士官に報告しなかった」。これでは監視していたとは言えません。CICで監視していた人の証言には、これは衝突前後のことではありませんけれども、「夜間訓練のためにCICに誰もいなかった時がある」とのことです。見張り体制に不備があったことははっきりしました。

 そして被告側が出した宮田航跡図ですけれども、これが非常に恣意的に作られたものであることもはっきりしました。「清徳丸」は最終的に24ノットという非常な高速で走ったとされています。ところが「清徳丸」は漁船ですから、24ノットで走ることなど不可能なんです。このような航跡図が本物であるはずがないですね。

 そして、どのように被告側が言ったところで、「あたご」が漁船群に注意を払わずに、自動操縦のまま突っ込んできたという事実は消せません。

 このことに対して、たとえば東京水先人会会長の佐藤克弘さんは朝日新聞に載せた文章で、次のように言っています。「船団がこちらに向かっているとなれば、その行動を警告するため汽笛を5回鳴らす。さらに注意を喚起するために探照灯で合図する。ここまでやれば相手の船長が自動操舵でたとえ居眠りしていても目を覚ます。そして状況に応じて大きく右に舵をとり、相手の漁船団の後ろを迂回し、漁船団をやり過ごす。実は、こうした対応は常時、多くの商船がやっていることだ」。「東京湾では横須賀に出入港する自衛艦、米艦船が過密状態の航路をスピードアップして横切る行為がしばしば見られる」。軍艦がいかに無茶なことを常時しているかが分かります。

 また航海訓練所の竹井義晴氏が証言しましたけれども、「あたごはスーパーカーの感覚で操縦している」「操船は平均点以下」「早めに避航していれば衝突は避けられた」と言っています。

 となると、「あたご」は軍艦であるということから、優先意識を持って、当然、漁船の側で避けるだろうと思ってまっすぐ突っ込んできたとしか言いようがないだろうと思います。そのことは「あたご」側も一部、認めています。舩渡前艦長は証言者として法廷に出ていますけれども、「あたご」が舵を取らなかったことに関して、「清徳丸があたご艦首を左にかわすという期待があったのではないか」と口走っています。

 124日の論告で、検察側は2人の被告人に対してともに禁錮2年の求刑をしました。131日の最終弁論では、被告側は無罪主張を繰り返しました。判決は511日に出されます。

 では、裁判で争われなかったことは何か。

 まず、防衛省が事件発生当時に証拠隠滅をした可能性があります。裁判では最初からまったく問題にされませんでした。これは防衛省幹部まで証人とする、あるいは被告人とすることによってのみ究明が可能だろうと思いますけれども、検察はこれをしなかったという問題があります。

 そして自衛艦が優先意識を持つために、民間船とは相当に違った扱いになっています。自衛艦には船舶自動識別装置(AIS)、これは民間の大型船はみな持っているのに、自衛艦にはこれを搭載する義務がありません。もっとひどいのは、自衛艦は海技免許状なしに、自衛隊内部で与えられた免許証によって艦の操縦をしています。陸上では誰でも、自動車は免許証がないと運転できませんけれども、海上では免許証なしに自衛艦が運航されているということです。

 あるいは、自衛艦には人命救助の準備が不足しています。「なだしお」事件のときにゴムボートを浮かべるまでに非常に時間がかかって、「助けてくれ」と叫んでも助けてもらえなかったという証言がありました。今回も潜水員、つまり海にもぐるフロッグメンがちゃんと「あたご」に乗艦していたにもかかわらず、練度が低いので出動させなかった。2月の海です。投げ出されて11秒を争うときに、助ける準備がないので助けられませんでした、ということです。

 そういった自衛艦のあり方が、今回の裁判ではまったく、初めから問題になっていませんでした。

再発防止のために

 裁判は仇討ちではありません。被告人2人、罪に対しては相応の罰が与えられるべきだと思いますけれども、刑が重いほどいいのかと言えば、そういう問題ではないだろうと思います。私たちが求めるのは、絶対にこういう事件、事故を起こさせない、再発防止に役立つ判決です。ここがいちばん大切だと、私は考えます。

 例えば、思いだしてください。JR福知山線の事故がありました。2005425日のことです。たいへん悲惨な事故で、107名が亡くなりましたけれども、この事件の裁判ではJR西日本の社長まで被告人にしています。JRの運行態勢自体に問題があったのではないかと、裁判ではそこまで追及されています。これと比較して今回の「あたご」の裁判は、いかにも手落ちではないかと言えると思います。

 かつて「なだしお」事件があったときに、私ども平権懇はいちはやく本を出して真相追及の運動を進めました。「えひめ丸」事件でも、宇和島での集会に協力をいたしました。二度とあってはならない事件がもう3度目です。どういうことなのか。これはやはり海上交通において、軍事優先の思想が蔓延しているということではないでしょうか。

 陸上ならば、大型車でも交通ルールをちゃんと守って道路を走っています。市街地では子供もいるし老人もいるし車椅子もいますね。そういう人たちに十分注意しながら、ダンプカーであろうが大型バスであろうが、みんな走っているんです。海上でも、巨大なタンカーや大きな商船は、小型船はどけというような運行はしない。右に見る船を避けなければならないとなればちゃんと避ける。自衛艦だけがなんで例外でいいのだろうか。それがいちばんの問題ではないでしょうか。

 そして、自衛艦に安全確保・人命救助の思想が不足していていいのでしょうか。陸上では自衛官でも無免許運転なら取り締まられます。例えばこれは2008719日にあった事件ですけれども、戦車隊の自衛官が無免許運転でつかまった事件がありました。戦車は運転できても二輪免許を持っていなかったんですね。海では自衛官は海技免許を持たないで船を運転していていいんだろうか。それも、そこのけそこのけで運転していていいんだろうか。

 今回の事件で、「あたご」はハワイから帰ってくる途中でした。イージス艦は飛んでいるミサイルをレーダーで捕捉して僚艦に伝える能力を持っています。イージス・システムは米国製でブラックボックスのまま、日本では中身が分からない装置です。「あたご」はそのシステムを積んで、ちゃんと働くかどうかチェックしてもらうために、わざわざハワイまで行って装備認定試験を受けて、報告のために横須賀に向かっていました。イージス艦は敵ミサイルを撃墜するために役立つ軍艦です。たとえば北朝鮮からハワイを狙うミサイルが発射されれば、それをレーダーで捕捉して米軍に伝える能力を持っています。すなわち、日本防衛だけでなく米国まで守る能力を持ったという驕りが、東京湾の入口近くまで来て漁船群に突っ込んでくるという行動に現れたのではないでしょうか。

 そのような部分まで含めて、自衛艦の横暴を許していいのかというところまで踏み込んだ判決が、ぜひ欲しい。そういう判決でなければ、「清徳丸」の親子は浮かばれないと、私は考えます。

2011/02/27

イージス艦「あたご」事件の公正な判決を求める 2.26横浜集会 終了しました

出席くださったみなさま、ありがとうございます

すみやかに記録としてまとめ次第、この文書は、「あたご」事件裁判の裁判官にお届けいたします。また「へいけんこんブログ」でもアップいたしますので、すこしお待ちください。

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