木下壽國
いま、ぜひこの3冊を
唐突ですが、以下に3冊の書物を推薦します。①「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか」(ダグラス・ラミス、平凡社)②「デフレの正体」(藻谷浩介、角川書店)③「社会変動の中の福祉国家」(富永健一、中央公論新社)です(順不同)。
いま私たちはどういう時代に生きているのかを大きな視点から普遍的に考えるための好著として、上の3冊を(野田総理風にいえば)心から、心から、心から推薦します。
「経済成長がなければ」の著者ダグラス・ラミス氏は、その道ではそこそこ知られた人で、以前は津田塾大学の教授をしていた。いまは退職して来日当時と同じ沖縄に住んでいるようだ。大変失礼なことではあるけれども、私は30代のころ、氏のことをイデオローグだと思っていた。しかしいつだったか「内なる外国――“菊と刀”再考」(時事通信社)を読んだときちょっとしたショックを覚えると同時に、その考えを完全に改めた。当然なことではあるが、氏は学者なのだ。余談だが、難しい文章はどう読んだらいいかというような技術的なことも同書に教えてもらった気がする。
「週刊現代」(4/28)で、大橋巨泉氏は「経済成長が」を「一人でも多くの人に読んでいただきたい名著」(「今週の遺言」)と激賞している。私は本書を、日本初の宇宙飛行士となった秋山豊寛さんが同誌の読書欄で紹介していたのを読んで知ったのだが、巨泉氏も同様だったらしい。氏のコラムを読んだ時「そうだよな、そう言いたくなるよな」と膝を打つ思いがした。「経済成長が」を読むと、つい周りの人に「ぜひ読んでみて」と薦めたくなるからだ。
同書は、人々が決して疑うことのなかった「経済成長」という正義そのものに、極めて説得的な疑義を呈している。私が同書でとくに感銘を受けたのは、2点。経済「発展」という言葉は本来自動詞(発展する)で、「発展させる」という他動詞が使われるようになったのは、第二次大戦後、トルーマン米大統領が相対的に貧困な国々を開発してゆく際のイデオロギーとして初めて用いてからだったということ。もう一つは、人々が経済成長の過程で切り捨ててきたものを振り返り、貨幣では測れない人間的な喜びに価値を見出すことが、新しい豊かな社会(我慢するだけというマイナスのイメージではなく)につながると提言していることだ。
同書が書かれたのは2000年だから、もう12年も前のことになるが、その中身は決して色あせない。それどころか原発事故に関する叙述は極めて適切で「3・11」以後に書かれたものかと思ってしまうほどだ。あの日以降、私たちの社会をめぐる価値観には大きな動揺が生まれた。首相官邸や国会を取り囲んでいる大勢の人々の反原発の訴えには、市民の声に耳を傾けようとしない既存のさまざまなシステムそのものへの不信が込められている。さらに脱原発と、これまで当たり前と思われてきた経済成長型とは異なるエネルギー抑制型の社会をどう構想してゆくのかという課題は切っても切り離せない。「3・11」後、社会が多様な価値観を受け入れやすくなっているように見える中で、私たちの意識に根本的な変革を迫る同書は、執筆当初よりもかえってその輝きを増しているとさえいえよう。
「デフレの正体」はいわば経済書だが、その方面はどうも、という方にも取っつきやすい内容になっている。10年6月に初版が出たと思ったら翌11年2月には16版を重ねるという途方もない売れ行きが示すように、社会にちょっとした衝撃を与えた書でもある。
この本が優れている点の一つは、アカデミズムのオーソドックスな手法により、誰でもが検証できるデータを積み重ねることによって、説得力のある独自の解を抽出していることだ。著者しか知り得ないような(場合によっては、ホントかウソかわからないような)事象に依拠しがちなジャーナリズムとは、この点が決定的に異なっている。
普通、書物の推薦というのは他人が行うものだが、本書では著者自身が「読んだほうがいいと誰にでも薦められる本は、そうそうはありません。…でも今回は心からお薦めします。これ(「デフレの」)は読んだほうがいい本だと思います」と力を込めている。私もその言葉に誇張はないと証言しておきたい。
デフレについてはいまさまざまな分析がなされているようだが、この本の肝は、生産年齢人口の減少が需要の減退=デフレをもたらしていると主張している点にある。またデータは「率」ではなく、「絶対数」で見るべきだと強調している。「人口ボーナス」とか「人口オーナス」という用語が一般的に使用されるようになったのも、同書の功績だろう。ちなみに人口ボーナスとは、生産年齢人口(15~64歳)がそれ以外の人口(従属人口)の2倍以上存在し、消費を活発化させる状態のことで、人口オーナスとは、逆に従属人口が増え、消費の重荷になっている状態をいう。
「超長期予測 老いるアジア」(小峰隆夫・日本経済研究センター編、日経新聞出版社)と併せて読んでいただければ、日本といま最も期待を集めている中国をはじめとするアジア新興国の経済的未来がどのような制約を抱えているのかがよく理解できるだろう。日本はすでに人口オーナス期に入ったが、その暗雲はそこに止まらない。世界の“成長センター”と見られているアジア各国までが、あと数十年で人口オーナス期に入ると予測されているのだから。すでに「中国で働く世代はもう増えません。中核となる15~59歳をみても、来年からは総数も緩やかに減り始めます」(「インタビュー・追いゆく中国/働き手もう増えぬ/人口ボーナス消失」朝日4/20)という見立てさえ表れている。
いま経済界がはしゃいでいるように、見込みのない日本国内を見捨ててアジア新興国に進出さえすれば明るい未来が開けるなどということは決していえないのだ。
ただはじめに述べたように同書の主張には十分な説得力があるものの、弱点を指摘するとすれば、すべての景気要因を人口の増減のみに帰していることだ。もしそれが正しければ、論理的には政治は何もしなくともいいことになる。ただ“産めよ、増やせよ”と言っていればいいだけだ。しかしやはりそれはおかしいのであって、政治の出番は必須だろう。そのことは著者自身が最後のほうで、賃金の1.4倍説を主張している通りだ。私自身は、そうした点も含め、やはり本格的な内需の掘り起こし策が必要不可欠だろうということのみをここでは記しておきたい。
「社会変動の中の福祉国家」は、社会がさまざまなレベルで変容をきたしている中で、誰が福祉の担い手たりうるのかを論じている。著者の富永氏によれば、福祉を担いうるプレイヤーには、家族、組織(企業、官庁、NPOなど)、市場、地域社会、国家などがあるが、決定的に重要となりつつあるのは国家なのだという。
同書については、半面教師として、富永氏と同じ社会学者である金子勇氏の「高齢社会とあなた」(日本放送出版協会)との併読をお勧めしたい。金子氏は「血縁を媒介とする福祉資源」「全員(国民同士)で支えあう高齢社会」を強調し、富永氏とはほぼ正反対の主張を展開している。しかし今日の日本社会の現状を顧みれば、どちらに軍配が上がるのかは明白だろう。私自身、孤独死の取材を通じて、家族機能の縮小(独居化、親の経済力の低下など)と企業が担ってきた福祉機能の消失などを痛感しているだけに、富永氏の主張には大いに共感させられる。
さて「社会変動の中の福祉国家」が今日とりわけ重要性を増しているのは、民・自・公3党が国会に提出している社会保障制度改革推進法案との絡みである。同法案は、消費増税法案と抱き合わせで国会に提出され、ほとんどなんの審議もなされないまま衆院を通過してしまった。報道によれば、本会議で法案が議員に配布されたのは、本会議開始10分前だった(!)という。
同法案は「自助、共助」「家族相互および国民相互の助け合い」を強調することで国家の役割を否定し、社会保障制度そのものを否定する内容になっている。国民生活が疲弊している下で、さらに追い打ちをかけるような仕打ちは、一体だれのためのものなのか。同法案は自民党の言い分が全面的に容れられたものだそうだが、あらためて新自由主義が息を吹き返しつつある現状に危惧を覚えざるを得ない。生活保護をめぐっても、保守としての性格を強調する自民党などが激しいバッシングを展開している。しかし自立機能を失った人間に鞭打てば、活力が生まれるというものではない。かえって相手を落ち込ませてゆくだけだ。
なにかというと社会保障は保守勢力の攻撃にさらされやすい。だが第一次大戦後、資本主義が最も高度に発達しそれゆえ世界大恐慌の荒波をもっとも強く受けざるを得なかったアメリカが、社会不安を緩和し、自らの体制維持・存続を図って編み出した秘策が社会保障(世界最初の社会保障法)だったというのは歴史の事実である。社会保障制度がその後もしばしば多分に揶揄的な響きを持って体制的な「自動安定装置(スタビライザー)」と表現されるのは、それゆえだ。行き過ぎた社会保障攻撃が、自らのよって立つ基盤そのものを掘り崩しかねないことに、自民党は気づいているのだろうか。
本書は本質的に持続可能な社会体制と制度を考える上でも有益な一書と思われる。
(きのした としくに/ライター)