美濃部革新都政への道をふりかえる
大内 要三(日本ジャーナリスト会議会員)
10月25日、石原慎太郎都知事が都庁で記者会見し、辞任を表明した。そして31日には臨時都議会が辞任に同意した後、石原(本稿ではすべての人名に敬称略)はお気に入りの「マイ・ウェイ」を東京消防庁音楽隊が演奏する中、約1,000人の職員に拍手で見送られ都庁舎を後にした。彼のマイ・ウェイぶりにはまったく愛惜の気持ちなど起きようはずもないが、気になるのは辞任記者会見中の「国民へ最後のご奉公をしようと思っています」という言葉だ。1945年10月、新聞記者たちに「まだ生きていたのか」と言われたという幣原喜重郎が、東久邇内閣が総辞職した後に昭和天皇直々の要請により首相に就任した、そのときのセリフが「最後のご奉公」だった。幣原内閣は日本国憲法制定への道に抗って吉田茂内閣へと交代したけれども。
というウンチクはともかく、石原が問題山積のまま都政を投げ出したあとをどうするか。1983年4月8日選挙(当選・鈴木俊一、2位・松岡英夫)以来、なんと約30年ぶりの「革新統一候補」が当選するか、それとも改憲指向大連立内閣と連動する都政が出現するか、という選択が12月16日に行われる。団塊世代のひとりとして私は、やはり1967年4月15日の美濃部革新都政の誕生を想起せざるを得ない。
美濃部革新都政誕生の前史というか前提というか、には、1963年の都知事選と、65年の都議会リコール運動がある。京都蜷川府政についてはここでは触れない。
戦後の都知事は、安井誠一郎、東龍太郎、美濃部亮吉、鈴木俊一、青島幸男、石原慎太郎の6人しかいない。うち1期で降りたのは青島だけ。戦後の首相が野田佳彦で33人目、という交代ぶりとはえらい違いだ。それくらい都政というものはなかなか変わらない、変わらないから淀んで利権の巣窟になる、と考えるべきか。
1963年4月23日の都知事選で、東龍太郎都知事の再選を阻むべく社会・共産・民社の3党支持により立候補していたのは阪本勝だった。東2,298,616票、阪本1,634,634票という結果は、それ以前の都知事選で1、2位の得票が桁違いであったのに比して、善戦・惜敗と言える。初の革新統一都知事候補の経験だった。
阪本は1899年尼崎生まれ、実家の病院経営・作家活動ののち大政翼賛会の推薦で衆院議員、そのため戦後は公職追放となったが、1951年に社会党推薦で尼崎市長、同じく54年に兵庫県知事、2期で引退した。都知事候補に担ぎ出したのは社会党と岩波文化人。都知事選当時の東京はオリンピックに向けて大きく変貌しつつあった。阪本の都政改革についての考えは『中央公論』63年1月号「知事論」や『月刊社会党』63年3月号「東京に愛と行動を」に書かれている。没後の79年から14年間かけて、著作集5巻が同刊行委員会により刊行されている。
65年に都議会リコール運動が起こった直接の契機は、都議会議長選挙買収汚職で15人の自民党所属都議が逮捕された事件だった。都議会議長は多額の交際費が使えるため1年交代で、ポストの買収が慣習となっていたのだ。事件に対応して、社会・共産・民社・公明の4党に東京地評・東京中立労連・東京同盟・新産別東京地協・都政刷新市民委員会を加えた計9団体が「都政刷新都議会解散リコール統一推進本部」を結成したのが5月25日。60年安保闘争での共闘の経験を生かしつつ、政党・労働運動に市民運動が加わったところに新味がある。統一推進本部の本部長には元東大教授で英文学者の中野好夫が就任、自ら街頭演説をし、ビラ配りをした。のち中野は革新都政・原水禁運動・沖縄返還運動などで社・共・市民運動を結ぶ大きな役割を果たすことになる。
リコール運動に対して都議会は自ら解散し、7月23日に都議選が行われた。結果、自民党は69から38へと議席を減らし、社会党は32議席から49議席へ、共産党は2議席から9議席へと躍進した。このような都議会の革新とその運動が、67年以降の美濃部革新都政を直接的に支えたと言える。
1966年7月以降、社会党の成田知巳書記長と共産党の宮本顕治書記長の間で都知事選対策の協議がなされた。当初、社会党は太田薫を、共産党は米原昶を推薦していたが、宮本は「統一リコールをたたかった野党4派が共同するためには、無党派の革新的人物を候補にするのがよい」と語っていた。そこで社会党は、東京教育大学教授の美濃部亮吉の内諾を得、共産党が同意した。東大教授・法政大総長を歴任した経済学者であり、社会党左派の社会主義協会の大御所、大内兵衛が門下の美濃部に出馬を要請したという。
以後、社共間で16回の政策協定協議、5回の組織協定協議が行われた。60年安保闘争では「安保改定阻止国民会議」にオブザーバー参加しかできなかった共産党が、この67年都知事選共闘では社会党と対等の立場を認められたこと、市民運動が無視できない力となっていたことは、「明るい革新都政をつくる会」の機関紙編集部の構成に典型的に表れている。「赤旗」から2名、「社会新報」から2名、社共の推薦者各1名、市川房枝事務所1名。
政策協定が調印され、「明るい革新都政をつくる会」結成の呼びかけがなされたのは1967年3月11日、同会の結成総会は3月16日だった。投票日は4月15日だから、運動期間は1カ月しかなかった。同会の代表委員は13人で、以下のとおり。大内兵衛・市川房枝・中野好夫・松本清張・柳田謙十郎・海野晋吉・佐々木更三・野坂参三・堀井利勝・佐藤芳夫・東山千栄子、野上弥生子、平塚らいてう。豪華メンバーであることは、団塊世代以上の年配の方でないとお分かりでないかもしれない。
投票日までには、「都庁に赤旗を立てさせるな」と大音響の右翼街宣車が走り、美濃部陣営の宣伝カーが空気銃で狙い撃ちされてアナウンサーの女子学生が頭部を負傷し、浅沼刺殺事件を起こした愛国党は「美濃部さんもお気をつけになった方がいい」と脅迫した。投票日の朝には500万枚の美濃部=アカ攻撃の違反ビラが新聞折り込みで全戸配布されようとした。「新左翼」各派は「ブルジョア選挙」を冷笑し、投票ボイコットを主張した。しかし「明るい革新都政をつくる会」は市民から500万円(食堂のカレーライスが120円の時代に)の寄付金を集め、携帯電話もパソコンもない時代にわずか1カ月間で支持を広げることに成功した。その結果、美濃部の得票は2,200,389となり、松下正寿2,063,752票に競り勝った。
「明るい革新都政をつくる会」は選挙勝利で解散することをしなかった。選挙後2週間の4月28日には再発足を確認し、幹事会で「会の目的と運営要綱」を決め、9月の総会で革新都政を支える活動を続けることを確認した。
美濃部は1971年には秦野章、75年には石原慎太郎を相手に都知事選を戦い勝利して、3期12年にわたって都知事を務めた。なぜそれが可能であったのかを考えるとき、高度経済成長を背景とした都市「市民」と市民運動の成立を重視しなければならないだろう。むろんそれは、春闘共闘を重ねる強固な労働運動に包まれての市民運動ではあったけれども。また、「明るい革新都政をつくる会」には護憲への意識は強かったが、すでに66年に東電福島原発の建設工事が開始されていたにもかかわらず、原発問題への関心はなかった。
美濃部都政の実績としての老人医療無料化、公害Gメンを活用した大気汚染の改善、未認可保育所への財政支援、都営住宅2.24倍化、高校増設、三多摩格差の是正、王子野戦病院開設阻止、等々については伝説的に語り継がれているので、ここでは触れない。歩行者天国・歩道橋・動物園の小児無料化などを記憶されておられる方も多いだろう。また、美濃部革新都政誕生以後、全国で革新自治体の誕生が相次ぎ、最大時には210自治体、4800万人が革新自治体のもとで暮らしていた。
ただし、美濃部亮吉という人物が「革新」的であったかどうかは怪しい。革新都政を支える運動が彼を革新の人としていた、とも言える。美濃部には保守政財界とのパイプもあり、3期目の迷走ははなはだしく、革新都政は1979年に終わる。美濃部自身の回想として『都知事12年』(朝日新聞社、1979年)があり、秘書を務めた太田久行の『美濃部都政12年』(毎日新聞社、1979年)があり、赤旗記者の有働正治の『史録 革新都政』(新日本出版社、1984年)がある。
1979年、革新統一候補の太田薫が落選、鈴木俊一保守都政が始まった。83年都知事選でも革新統一候補の松岡英夫が落選、以後、統一候補の例はなかった。そして今や「革新」という言葉自体が生気を失い、「左翼」という言葉は死語に近い。非正規労働者が増え、労組全国組織の大所は民主党支持だ。単純に昔話をしても始まらない。
いま、このような中で、脱原発市民運動、「9条の会」による憲法改悪反対運動などが「政治力」をつけることが求められているのだろう。首長が、議会が変わらなければ政治は変わらない。ヨーロッパでは1968年の「叛乱」以後、営々と活動を続けた人々がイラク戦争不参加・脱原発のEUを形成した。それと同質の営みが、長い中断をはさんで、いま日本で進んでいる、進めたい、と思う。
(2012年11月21日、中野好夫の笑顔を思い出しつつ執筆)