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フォト

「平権懇」☆関係書籍☆残部僅少☆

  • ●大内要三(窓社・2010年): 『日米安保を読み解く 東アジアの平和のために考えるべきこと』
  • ●小林秀之・西沢優(日本評論社・1999刊): 『超明快訳で読み解く日米新ガイドライン』
  • ●(昭和出版・1989刊): 『釣船轟沈 検証・潜水艦「なだしお」衝突事件』
  • ●西沢優(港の人・2005刊・5000円+税): 『派兵国家への道』
  • ●大内要三(窓社・2006刊・2000円+税): 『一日五厘の学校再建物語 御宿小学校の誇り』
  • ●松尾高志(日本評論社・2008刊・2700円+税): 『同盟変革 日米軍事体制の近未来』
  • ●西沢優・松尾高志・大内要三(日本評論社・2003刊・1900円+税): 『軍の論理と有事法制』

大内要三 コラム「読む・読もう・読めば」

2013/06/12

読む・読もう・読めば 127

読む・読もう・読めば 127

あたご裁判、控訴棄却

東京高等裁判所、井上弘通裁判長は本日611日、2008年のイージス艦「あたご」による漁船「清徳丸」への衝突・沈没事件で、業務上過失致死などで告訴されていた自衛官2人に対して、控訴棄却の判決を下した。横浜地裁判決を維持、要するに無罪。102号法廷には久しぶりに記者席が設けられ、マスコミ・自衛隊関係者を含めて約70名が傍聴した。1330分から一部省略での判決読み上げに1時間半近くかかったが、マスコミ各社は読み上げも終わらないうちからネットで内容を流した。当然、分かりやすい判決要旨が事前に配布されていたのだろう。私どもは判決文全体の構成も分からないまま、必死でメモをとらねばならない。

争点は地裁段階から2点に限定されている。清徳丸の航跡と、あたごの注意義務・避航義務についてだ。第1争点について高裁判決は、地裁判決の事実認定にも検察の主張にも被告側の主張にも、こまごまと「賛同できない」点を列挙した。しかし想定される清徳丸の航跡に「幅がある」うち、もっとも南東側の航跡で考察することにした。決定的な証拠がないなかで、いくつもの推定航跡図から得た「幅」のなかでその南東側で考察することに、なんらかの合理的根拠があるだろうか。

と問題にするのは、第1争点の結論はただちに第2争点にかかわるからだ。高裁判決が考察した清徳丸の航跡からすると、清徳丸が右転しなければ衝突しない。だから右転した清徳丸に衝突の原因があり、あたごの注意義務・避航義務は生ずる余地はない、ことになる。高裁の法廷証言でも、あたごの見張り態勢がいかにずさんだったかは明らかなのに、ちゃんと見張っていたかどうかは問題でない、ということになる。

清徳丸はまっすぐ漁場に向かっていたのだから、あたごを避けようと思わなければ針路を変える必要などない。清徳丸が右転した理由を高裁判決は、あたごが大型自衛艦という特殊性から、両舷灯の間隔が民間船よりずっと狭かったことを挙げている。また一般論としてだろうが、「そこのけ式」の航行があってはならないとも言っている。しかしそれらは、あたご・清徳丸衝突の責任追及に関係なしとされてしまった。

無罪となった両被告人に、笑顔はなかった。被告人の証言は「全面的には信用できない」と明確に言われたからか。清徳丸の母港、千葉県勝浦市川津から傍聴に来られた方々の表情はむろん硬い。さて、地裁でも高裁でも捜査のずさんさを批判された検察に、最高裁への上告の能力はあるのか。行方不明のままの吉清親子は、何も語れない。   

2013611日)

2013/04/06

読む・読もう・読めば 126

あたご事件控訴審傍聴記 7

44日、第11回公判。びっくりしたのは、裁判の最終局面なのに、年度替わりの人事異動で担当検事が交代していたことだ。新任は北英知検事。もっとびっくりしたのは、最終弁論だから検事側もせめて提出文書の要旨ぐらい口頭で述べるかと思っていたところ、「提出書面のとおり」としか述べなかったこと。前任者が書いたものだろうから、無理もないか。ところが翌日の新聞報道を見ると、たとえば神奈川新聞は「検察側は、衝突角度、清徳丸の衝突直前の速力などをあらためて検証。一審が認定した事実は『論理則、経験則に違反し、事実誤認が判決に影響を及ぼすことは明らか』と無罪判決の破棄を求めた」ことになっている。記者クラブには書面のコピーが渡されているのだろう。しかし法廷で読み上げられないのだから、私ども傍聴人にはこの書面に何が書いてあるのか分からないし、公開されないままに終わるわけだ。

弁護側は峰隆男主任弁護人が20分余にわたり提出文書の要旨を読み上げ、控訴棄却、無罪を訴えた。主張は、清徳丸の航跡について、控訴審における証拠調べについて、あたごの避航義務について、事実取り調べについて、事実誤認について、と全面的だ。そして「2名の方が亡くなられたことには哀悼の意を表する」けれども、被告らは事故発生当時から被告が社会的な批判を受けてきたことから、「名誉回復を」求めるという。

事故直前に清徳丸がどのように動いたかについて地裁判決は、検察側の主張も弁護側の主張もしりぞけて、裁判所独自の航跡図を示した。そのうえで清徳丸が右に舵をとって、直進するあたごの前に出て来なければ、衝突しなかったと認定した。これは防衛省の事故調査委員会の結論とも、海難審判の結論とも異なり、しかも決定的な証拠は何もない推論にすぎない。このような推論から、大前提としての、海上衝突予防法の規定ではあたご側が避航船であったことも、あたごの見張り体制がまことにお粗末であったことも、帳消しにされている。異常な判決と言わざるを得ないが、判決要旨では詳細が不明だった。幸いに昨年101日付『判例タイムズ』に、きわめて長文の判決全文が掲載された(ただし被告人は仮名になっている)。読めばあらためて、木を見て森を見ない判決に慄然とする。

福島原発事故以後魚の市場価格は暴落し、船の燃料価格は上昇し、漁業従事者の平均年齢は60歳を超えている。TPP加盟となれば国際競争に勝てず、さらに日本漁業は衰退するだろう。そのような四重苦のうえに、軍艦が漁船に優先する習慣が定着してしまったら、どうなるか。当初から主張してきたように、私は裁判の枠組み自体に疑問があり、また2名に限定されてしまった被告人に対する刑が重ければ重いほど良いとも思わないが、少なくとも無罪はあり得ないと思う。611日の判決に注目したい。   201345日)

2013/02/11

読む・読もう・読めば 125

ロックオン

小野寺防衛相は25日の臨時記者会見で、130日に東シナ海で中国軍艦から海上自衛隊護衛艦へのレーダー照射が行われたことを発表した。「火器管制用レーダー」の照射、すなわち攻撃準備のロックオンだったと確認するのに6日かかったという説明だ。またこれ以前、119日にも中国軍艦から護衛艦艦載ヘリに対して同様な事件があったとも発表した。中国外務省の華報道官は8日の記者会見で「完全な捏造」とこれを否定、中国国防省も、監視用レーダーは使ったが射撃管制用レーダーは使っていないと主張している。

問題の中国軍艦はどちらも対空・対艦・対潜ミサイルと、砲・機関砲を積み、それぞれの火器管制レーダーがある。今回ロックオンをかけたのがどの兵器だったのかは分からない。9日のテレビ番組での発言で小野寺防衛相は、電波データと映像を証拠として開示する用意があると語った。なお、東シナ海での護衛艦と艦載機の行動は今回の発表でその一部が分かったが、潜水艦の行動については不明だ。

日本政府としては5日、外務省中国・モンゴル第一課長から在京中国大使館参事官に対して、また在中国日本大使館次席公使から中国外交部アジア司長に対して、申し入れをした。低レベルでの抗議に止めているわけだ。この冷静さはしかし、米国からの要請に従った結果でもあるように思われる。ロックオン確認に6日かけたなら、その間に防衛省・外務省・米国務省・米国防省の間での調整が行われていただろう。同じ5日のうちに、米国のケリー国務長官は中国の楊外相と電話会談をしているが、ここでロックオン事件についてどのような話し合いが行われたかは明らかにされていない。

米国政府は日本が東アジアでトラブルを起こすことを恐れている。米軍は中国海軍の太平洋進出を自衛隊にチェックさせることを望んでいる。矛盾しているようだが、どちらも内向きになっている米国を守るためだ。習近平政権は軍の掌握がどこまでできているか、不明だ。米中の思惑のはざまで起こった、尖閣諸島沖でのロックオン事件。偶発的にでも発射ボタンが押されれば確実に死傷者が出ていたし、反撃すれば戦闘になったわけだから、現場の緊張感は大変なものだったろう。近海に地下資源が本当にあるかどうかも確認されていない、小さな無人島の防備に命をかけるのか。   (2013211日)

2012/12/15

読む・読もう・読めば 124

あたご事件控訴審傍聴記 6

判決日が2013611日と決まった。海上自衛隊のイージス艦「あたご」が漁船「清徳丸」に衝突・沈没させる事件が発生したのは2008219日。防衛省事故調査委員会報告、海難審判所裁決、横浜地裁判決を経ての高裁判決となる。「あたご」は無罪、衝突原因は漁船側にありとする地裁不当判決を覆すかどうか。以下、前回報告以後の2回の公判について報告する。

1120日、第8回公判。前回公判に続き、今津隼馬・東京海洋大学名誉教授の証言。「速力三角形」の法則により割り出した「あたご」と「清徳丸」の衝突角度には幅があり、地裁判決が認定し、検察側証人・日當博喜氏が「あり得ない」とする47度を含む、という前回の証言を変えなかった。

さらに今津氏は検察側の質問に対して、衝突以前の両船の行動・角度については「意見を持っていない」と述べた。今津氏には衝突角度に関する論文はなく、衝突回避に関する研究が専門だという。高速船とそうでない船が共存できるのか、が専門のテーマだそうだ。それでも専門外の分野で証言することになったのは、大学同窓の峰隆男弁護士(被告側主任弁護士)の依頼によるのだという。

証言内容とは別に井上弘通・裁判長は今津氏に対して、避航義務が生じたと判断するリミットはどれくらいか、と質問した。今津氏は「400から500メートル」と答えた。当時「あたご」は高速で航行していたわけではないが、大型船はそう簡単には方向転換できないのではないか。

裁判長がこのような質問をしたのは理由があった。「フェアネスの観点から」、検察・被告の両者に対して、次回公判で、地裁判決の以下の点についての考えを述べるよう求めたのだ。検察・被告の両者に対して、1. どのくらい近づいた場合に避航義務が生じるか 2. コンパス方位で明確な変化が認められない場合とはどの程度か。検察に対して、「清徳丸」の航跡が地裁認定の通りだとしても 3. 衝突角度 4. コンパス方位の相当性 5. 「清徳丸」は右転しなければ「あたご」の後方500メートルを通過したとする判断 に対する意見。以上は私のメモによるが、求釈明書ではもっと別の表現になっているかもしれない。いずれにせよ裁判長は地裁判決の根拠に疑問を抱き、双方の見合関係・注意義務についてあらためて確認しようとしているように思われる。「あたご」に避航義務・注意義務ありとなれば、当然被告は有罪となるだろう。被告弁護士は、控訴状にないことを持ち出すのは不適切として抵抗したが、裁判長は抗議を退けた。

1211日、第9回公判。証人は誰も出廷せず。検察側は前回の裁判長の求めに対する釈明書を提出したが、被告側はそれを読んで専門家と相談してから、と引き延ばしにかかった。裁判長は「そんなに時間がかかるのはいささか」と不満を述べたが、結果、予定されていた125日の公判期日は取り消し。次回は34日、その次は44日、そして611日に判決、と期日が決まった。傍聴のための高裁通いもあと3回となった。  

20121214日)

2012/11/22

美濃部革新都政への道をふりかえる

美濃部革新都政への道をふりかえる

                     

大内 要三(日本ジャーナリスト会議会員)

 1025日、石原慎太郎都知事が都庁で記者会見し、辞任を表明した。そして31日には臨時都議会が辞任に同意した後、石原(本稿ではすべての人名に敬称略)はお気に入りの「マイ・ウェイ」を東京消防庁音楽隊が演奏する中、約1,000人の職員に拍手で見送られ都庁舎を後にした。彼のマイ・ウェイぶりにはまったく愛惜の気持ちなど起きようはずもないが、気になるのは辞任記者会見中の「国民へ最後のご奉公をしようと思っています」という言葉だ。194510月、新聞記者たちに「まだ生きていたのか」と言われたという幣原喜重郎が、東久邇内閣が総辞職した後に昭和天皇直々の要請により首相に就任した、そのときのセリフが「最後のご奉公」だった。幣原内閣は日本国憲法制定への道に抗って吉田茂内閣へと交代したけれども。

 というウンチクはともかく、石原が問題山積のまま都政を投げ出したあとをどうするか。198348日選挙(当選・鈴木俊一、2位・松岡英夫)以来、なんと約30年ぶりの「革新統一候補」が当選するか、それとも改憲指向大連立内閣と連動する都政が出現するか、という選択が1216日に行われる。団塊世代のひとりとして私は、やはり1967415日の美濃部革新都政の誕生を想起せざるを得ない。

 美濃部革新都政誕生の前史というか前提というか、には、1963年の都知事選と、65年の都議会リコール運動がある。京都蜷川府政についてはここでは触れない。

 戦後の都知事は、安井誠一郎、東龍太郎、美濃部亮吉、鈴木俊一、青島幸男、石原慎太郎の6人しかいない。うち1期で降りたのは青島だけ。戦後の首相が野田佳彦で33人目、という交代ぶりとはえらい違いだ。それくらい都政というものはなかなか変わらない、変わらないから淀んで利権の巣窟になる、と考えるべきか。

1963423日の都知事選で、東龍太郎都知事の再選を阻むべく社会・共産・民社の3党支持により立候補していたのは阪本勝だった。東2,298,616票、阪本1,634,634票という結果は、それ以前の都知事選で12位の得票が桁違いであったのに比して、善戦・惜敗と言える。初の革新統一都知事候補の経験だった。

阪本は1899年尼崎生まれ、実家の病院経営・作家活動ののち大政翼賛会の推薦で衆院議員、そのため戦後は公職追放となったが、1951年に社会党推薦で尼崎市長、同じく54年に兵庫県知事、2期で引退した。都知事候補に担ぎ出したのは社会党と岩波文化人。都知事選当時の東京はオリンピックに向けて大きく変貌しつつあった。阪本の都政改革についての考えは『中央公論』631月号「知事論」や『月刊社会党』633月号「東京に愛と行動を」に書かれている。没後の79年から14年間かけて、著作集5巻が同刊行委員会により刊行されている。

65年に都議会リコール運動が起こった直接の契機は、都議会議長選挙買収汚職で15人の自民党所属都議が逮捕された事件だった。都議会議長は多額の交際費が使えるため1年交代で、ポストの買収が慣習となっていたのだ。事件に対応して、社会・共産・民社・公明の4党に東京地評・東京中立労連・東京同盟・新産別東京地協・都政刷新市民委員会を加えた計9団体が「都政刷新都議会解散リコール統一推進本部」を結成したのが525日。60年安保闘争での共闘の経験を生かしつつ、政党・労働運動に市民運動が加わったところに新味がある。統一推進本部の本部長には元東大教授で英文学者の中野好夫が就任、自ら街頭演説をし、ビラ配りをした。のち中野は革新都政・原水禁運動・沖縄返還運動などで社・共・市民運動を結ぶ大きな役割を果たすことになる。

リコール運動に対して都議会は自ら解散し、723日に都議選が行われた。結果、自民党は69から38へと議席を減らし、社会党は32議席から49議席へ、共産党は2議席から9議席へと躍進した。このような都議会の革新とその運動が、67年以降の美濃部革新都政を直接的に支えたと言える。

19667月以降、社会党の成田知巳書記長と共産党の宮本顕治書記長の間で都知事選対策の協議がなされた。当初、社会党は太田薫を、共産党は米原昶を推薦していたが、宮本は「統一リコールをたたかった野党4派が共同するためには、無党派の革新的人物を候補にするのがよい」と語っていた。そこで社会党は、東京教育大学教授の美濃部亮吉の内諾を得、共産党が同意した。東大教授・法政大総長を歴任した経済学者であり、社会党左派の社会主義協会の大御所、大内兵衛が門下の美濃部に出馬を要請したという。

以後、社共間で16回の政策協定協議、5回の組織協定協議が行われた。60年安保闘争では「安保改定阻止国民会議」にオブザーバー参加しかできなかった共産党が、この67年都知事選共闘では社会党と対等の立場を認められたこと、市民運動が無視できない力となっていたことは、「明るい革新都政をつくる会」の機関紙編集部の構成に典型的に表れている。「赤旗」から2名、「社会新報」から2名、社共の推薦者各1名、市川房枝事務所1名。

政策協定が調印され、「明るい革新都政をつくる会」結成の呼びかけがなされたのは1967311日、同会の結成総会は316日だった。投票日は415日だから、運動期間は1カ月しかなかった。同会の代表委員は13人で、以下のとおり。大内兵衛・市川房枝・中野好夫・松本清張・柳田謙十郎・海野晋吉・佐々木更三・野坂参三・堀井利勝・佐藤芳夫・東山千栄子、野上弥生子、平塚らいてう。豪華メンバーであることは、団塊世代以上の年配の方でないとお分かりでないかもしれない。

投票日までには、「都庁に赤旗を立てさせるな」と大音響の右翼街宣車が走り、美濃部陣営の宣伝カーが空気銃で狙い撃ちされてアナウンサーの女子学生が頭部を負傷し、浅沼刺殺事件を起こした愛国党は「美濃部さんもお気をつけになった方がいい」と脅迫した。投票日の朝には500万枚の美濃部=アカ攻撃の違反ビラが新聞折り込みで全戸配布されようとした。「新左翼」各派は「ブルジョア選挙」を冷笑し、投票ボイコットを主張した。しかし「明るい革新都政をつくる会」は市民から500万円(食堂のカレーライスが120円の時代に)の寄付金を集め、携帯電話もパソコンもない時代にわずか1カ月間で支持を広げることに成功した。その結果、美濃部の得票は2,200,389となり、松下正寿2,063,752票に競り勝った。

「明るい革新都政をつくる会」は選挙勝利で解散することをしなかった。選挙後2週間の428日には再発足を確認し、幹事会で「会の目的と運営要綱」を決め、9月の総会で革新都政を支える活動を続けることを確認した。

美濃部は1971年には秦野章、75年には石原慎太郎を相手に都知事選を戦い勝利して、312年にわたって都知事を務めた。なぜそれが可能であったのかを考えるとき、高度経済成長を背景とした都市「市民」と市民運動の成立を重視しなければならないだろう。むろんそれは、春闘共闘を重ねる強固な労働運動に包まれての市民運動ではあったけれども。また、「明るい革新都政をつくる会」には護憲への意識は強かったが、すでに66年に東電福島原発の建設工事が開始されていたにもかかわらず、原発問題への関心はなかった。

美濃部都政の実績としての老人医療無料化、公害Gメンを活用した大気汚染の改善、未認可保育所への財政支援、都営住宅2.24倍化、高校増設、三多摩格差の是正、王子野戦病院開設阻止、等々については伝説的に語り継がれているので、ここでは触れない。歩行者天国・歩道橋・動物園の小児無料化などを記憶されておられる方も多いだろう。また、美濃部革新都政誕生以後、全国で革新自治体の誕生が相次ぎ、最大時には210自治体、4800万人が革新自治体のもとで暮らしていた。

ただし、美濃部亮吉という人物が「革新」的であったかどうかは怪しい。革新都政を支える運動が彼を革新の人としていた、とも言える。美濃部には保守政財界とのパイプもあり、3期目の迷走ははなはだしく、革新都政は1979年に終わる。美濃部自身の回想として『都知事12年』(朝日新聞社、1979年)があり、秘書を務めた太田久行の『美濃部都政12年』(毎日新聞社、1979年)があり、赤旗記者の有働正治の『史録 革新都政』(新日本出版社、1984年)がある。

1979年、革新統一候補の太田薫が落選、鈴木俊一保守都政が始まった。83年都知事選でも革新統一候補の松岡英夫が落選、以後、統一候補の例はなかった。そして今や「革新」という言葉自体が生気を失い、「左翼」という言葉は死語に近い。非正規労働者が増え、労組全国組織の大所は民主党支持だ。単純に昔話をしても始まらない。

いま、このような中で、脱原発市民運動、「9条の会」による憲法改悪反対運動などが「政治力」をつけることが求められているのだろう。首長が、議会が変わらなければ政治は変わらない。ヨーロッパでは1968年の「叛乱」以後、営々と活動を続けた人々がイラク戦争不参加・脱原発のEUを形成した。それと同質の営みが、長い中断をはさんで、いま日本で進んでいる、進めたい、と思う。     

20121121日、中野好夫の笑顔を思い出しつつ執筆)

2012/10/25

読む・読もう・読めば 123

読む・読もう・読めば 123

あたご事件控訴審傍聴記 5

東京高裁での「あたご」事件控訴審は意外な長期にわたり、年を越すことが確実になった。傍聴人はいつも、一見さんを含めても30人に満たず、顔見知りになった常連さんが多い。マスコミは皆無。

731日、第6回公判。宮田義憲・元高等海難審長官への検察側からの反対尋問が続く。事故直前の清徳丸が能力以上の速度を出していたことになる宮田鑑定書(地裁不当判決の根拠のひとつ)への疑問。宮田氏は「短い秒数であれば」「波の山から谷へ向かう場合」なら25ノット以上出ることもあると答え、それが20秒以上続くことはありえないだろうとの問いには、「20秒の平均では」あり得ると答えて、自説を曲げなかった。

2人目の証人は千葉廣・運輸安全調査会船舶事故調査官。衝突角度に関する報告書を出している。清徳丸左舷の防舷材に残った衝突跡と思われる「あたご」の染料痕から、47度を算出した。プラスチックで作った「あたご」の艦首模型を、粘土で作った清徳丸の模型に1度ずつ角度を変えて当ててみた結果だという。この衝突角度は船の速度には関係がないともいい、最初に接触したのは操舵室の屋根だが、舷側とはほとんど一瞬の差だからタイムラグはないとも証言した。しかし裁判長が「あたご」艦首の形状の根拠について尋ねると、20ノットで走っているときの喫水線を確認して「写真を撮った」という。ここでも「あたご」の設計図等は「軍事機密」で提供されなかったのだろう。

5回公判のときに続き、第6回公判でも検察側から、千葉県勝浦市川津港現地で清徳丸僚船の康栄丸を使っての審問の要求があった。弁護側は、現地は祭りの最中なので「不測の事態が起こる」こともあり得ると抵抗。裁判長が「地元警備を含めて調整」とまとめた。しかし実際に914日に予定されていた公判は、川津港での期日外審問に切り替えられた。康栄丸の操舵室での検証が行われたはずだが、何も発表されていない。東京高裁事務方は当日の公判中止は教えてくれたが、期日外審問についての質問には答えなかった。現地に行った「しんぶん赤旗」記者が15日付でルポを書いているが、審問の内容は不明。

101日、第7回公判。冒頭に裁判長より、期日外審問の調書はまだできていない、検事側・弁護側双方の意見を聞いて作成するとのこと。

弁護側証人として今津隼馬・東京海洋大名誉教授。第2回・第4回公判での日當博喜氏の衝突角度に関する証言(地裁判決が認定した47度はあり得ない)に対する反論。日當証言は対地針路と対水針路を取り違えでおり、また清徳丸は小型船なので左右に5度ずつ程度はふれていると思う、と証言した。いくら小型船でも凪に近い状態でそんなにフラフラはしないと思うが。

こうして公判では、事故直前の清徳丸の航跡について、微に入り細をうがったやりとりが続いている。次回公判は1120日。以後、1211日、125日、34日まで日程が入った。判決はいつになるやら。

蛇足。1014日に総理大臣が観閲する3年に1回の自衛隊観艦式が行われ、「あたご」も参加した。大きく報道したマスコミは産経新聞のみ。この行事に関連して1010日には横須賀で「あたご」艦内部の特別公開が行われた。こういう機会でもないと「あたご」艦橋内部、まさに事故当時に不十分な見張りをしていた現場など見られないのだが、まことに残念なことに私は多忙で出かけることができなかった。来年度には「あたご」はパワーアップの改修を受けるから、艦橋の計器類も少し変わるだろうか。

20121025日)

2012/09/02

読む・読もう・読めば 122

3次アーミテージ報告

815日、米国の民間シンクタンク、CSIS(戦略国際問題研究所)は「日米同盟」と題する文書を発表した。〈http://csis.org/publication/us-japan-alliance-12000年、2007年のものに続く、第3次アーミテージ報告ということになる。副題Anchoring Stability in Asiaでは、なんだか「安定」が重複している感じだが、「アジアの安定性を確固たるものにする」というような感じだろうか。要するに近く始まる第3次日米ガイドライン策定協議のための叩き台のような文書だ。著者として表紙に掲げられているのは、毎度おなじみリチャード・アーミテージとジョセフ・ナイ。発表時の映像を見るとお二人とも老けてきたが、今なお米国民主・共和両党相乗りで対日本政策の基本をつくるジャパン・ハンドラーの重鎮なのだろう。

同報告は序文からすでに挑発的で、「日本は一流国であり続けることを望むのか、二流国に転落するのか」と問うている。一流国とは何かといえば、経済力、軍事力、グローバル・ビジョン、そして国際的指導力の4条件を備えるものだという。台頭する中国、緊張する東アジアにありながら首相がコロコロ替わって何の対応もできないのは情けない、ということだろう。一流国に止まりたければ日米同盟強化のためにもっと応分の負担をせよ、という結論が最初から透けて見える。しかし冷静に考えれば、戦後日本政府は一貫して米国追随を続けてきたからこそ、グローバル・ビジョンも国際的指導力も育たなかったのではないか。

同報告の本文はエネルギー安全保障、それも原発から始まる。世界の脱原発世論の高まりに危機感を覚えているのだろう。「原子力は日本の包括的安全保障に必須」という主張は、米国から日本へ技術移転した原発輸出ビジネスの分野で、中国に負けては困るという、米国の都合からか。続けて天然ガス、メタン・ハイドレードときて、最後が石油、というのは意外(世界の石油争奪戦はそろそろ終わりということか、日本は戦力外ということか)だが、ここには再生可能エネルギーは出て来ない。次章の「経済・貿易」ではむろんTPP推進。

次章「近隣諸国との関係」では、真っ先に韓国が出て来る。朝鮮半島から撤退しつつある米国は、日本と韓国の協調による北朝鮮対応(核を含めた)に期待しているわけだ。歴史問題で日韓がぎくしゃくしているなら、米国を加えた3国の非公式有識者会議を活用してはどうか、とまで提案している。1964年、日韓会談の最終場面で米国の仲介が役立ったことを想起しているのだろう。

これに対して続く対中国の節は、いまひとつ明快でない。が、次章の「新たな安全保障戦略に向けて」では、中国軍拡の脅威に対抗するために、米軍のエアシーバトルと自衛隊の動的防衛力による共同対処を求めている。このあたりは最近の日米共同演習の実態分析と併せて、さらに読み込むことが必要だ。集団的自衛権行使が共同対処の障害になっている、という強調は従来どおり。そして普天間問題で「過去にとらわれず」と書いているのは微妙なところだ。

こうしてざっと第3次アーミテージ報告を見てくると、日米同盟に関する、つまり軍事に関する勧告文書でありながら、日本の政治・経済・外交のすべてにわたって、米国はまだ日本を属国としておきたいことが良く分かる。しかしこれは対日文書であって、米国の対東アジアの中心は中国、という姿勢がより明らかになれば、日本は都合良く使い捨てられることになるのだろう。ジャパン・ハンドラーも世代代わりしつつ、米国内での力もまた衰退していくのだろう。まさに日本のグローバル・ビジョンが問われているのだと思う。

201291日)

2012/07/31

読む・読もう・読めば 121

あたご事件控訴審傍聴記4

76日、第5回公判。この日の証人は2人。1人目は控訴審に提出されている清徳丸の航跡図を書いた横須賀海上保安部の救難専門官で、なんと3度目の出廷だ。航跡作図の元になったのは康栄丸からの視認だが、その康栄丸のGPSプロッターに残された進行方向は船首方位でなく実効進路、等について証言した。

2人目の証人は第一審の横浜地裁に清徳丸の航跡図を提出した宮田義憲・元高等海難審判庁長官。衝突直前の清徳丸が同船の能力を超える速力を出したとしていたことを追及されて、「船の速力は波、うねり、風、潮流などによってバラつきがある、小型船は大型船よりそれらの影響を受けやすい、秒単位で速度を求めると変動要因は大きく働く」と弁明した。「事故当日は凪に近い状態だったから速力の変動幅はせいぜい1ノット以下ではないか」との質問には、「うねり、波が少しでもあれば変わる」と答えた。

次回公判は81日。次々回914日の公判について、検察側は現地勝浦市で康栄丸を動かして検証したいと希望、しぶる弁護側を「東京から勝浦まで特急で1時間半ですから」と説得した。914日は勝浦大漁祭(1619日)の準備たけなわだ。もちろん川津神社の御輿も出る。駅あるいは街道筋から港まで行くのは容易ではないと思われる。また狭い漁船の操舵室に人がたくさん入れるはずもなく、傍聴人は陸に取り残されるのだろうか。

蛇足1。問題のイージス艦「あたご」は艦長交代後の2010710日、ハワイ沖で行われたリムパック(環太平洋合同演習)で、護衛艦「あけぼの」とともに、標的艦を撃沈させる演習を実際に行ったことが、今年の5月になって分かった。標的は退役した米海軍の強襲上陸艦「ニューオーリンズ」で、米・オーストラリア・カナダの艦艇が対艦ミサイルを撃ち込んだのち航空機からの攻撃があり、さらに「あけぼの」が76ミリ速射砲で、「あたご」が127ミリ速射砲で攻撃、「ニューオーリンズ」は40分で沈没した。なるほど、イージス艦はこういうふうにも使われるのか。しかし明らかにこれは「ともに戦う」行為であり、集団的自衛権行使のための演習ではないか。

蛇足2。「あたご」を無罪とし、事故原因は清徳丸にあるとした横浜地裁不当判決以後、こういう主張も出て来るだろうなと思っていたところ、やっぱり出て来た。佐藤守・元航空自衛隊南西航空混成団指令の『自衛隊の「犯罪」 雫石事件の真相!』という本だ(青林堂、20127月刊)。雫石事件(1971年、自衛隊の戦闘機が全日空機に接触、戦闘機のパイロットはパラシュートで脱出、全日空機の乗客・乗員162人は全員死亡)も「あたご」事件と同様に審理すれば、自衛隊側は無罪になるはずだという。『実録 自衛隊パイロットたちが接近遭遇したUFO』(講談社、2010年)などという本も書いている人だから、と軽視しないほうがいいと思う。  2012730日)

2012/07/01

読む・読もう・読めば 120

『国富論』を読む

アダム・スミスの主著を『富国論』として翻訳したのは石川暎作(M17年)であり、これを『富国論』として新たに翻訳したのは大内兵衛(S15年)だった。原題はAn Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations、初版は1776年だからアメリカ独立戦争中ということになる。大河内一男の解説(中央公論社『世界の名著』31巻)によれば、「日本くらいアダム・スミスが広く読まれている国も珍しい」、それは、昭和初期の思想統制下ではマルクス『資本論』を読み講義することが難しかったから、ということだ。たしかに商品、分業、地代、資本などの概念は、スミスを読んだあとでマルクスを読むほうが、最初から『資本論』に取り組むよりずっと分かりやすいだろう。労働価値説はスミスからリカードに引き継がれ、マルクスが完成させたという。だからスミスをマルクスの入門書として読んでいた時代があるわけだ。はるかな昔になってしまったけれども。

いま『国富論』を読んで興味深いのは、もともと倫理思想の研究者でもあったスミスが、イギリス帝国の脆弱性について深く洞察していたことだ。当時はまだ東南アジアとの貿易を独占したオランダのほうが英国より経済力は上だったし。というわけで、巻末で、次のように書いている。「グレート・ブリテンの支配者たちは、過去一世紀以上ものあいだ、われわれは大西洋のかなたに大帝国をもっているんだという想像で国民をいい気持にさせてきた。しかしながら、この帝国なるものは、いまにいたるまでただ想像のうちにしか存在しないものであった。」ここでいう「大西洋のかなた」はアメリカのこと。そして、「もし、大英帝国のどの領土にせよ、帝国全体をささえるために貢献させられないというのなら、いまこそグレート・ブリテンは、戦時にこれら領土を防衛する経費と、平時にその政治的、軍事的施設の一部なりとも維持する経費とから、みずからを解放し、未来への展望と構図とを、その国情の真にあるべき中庸に合致させるようにつとめるべき秋なのである。」強大な軍に支えられた帝国は長持ちしないと言っている。大英帝国興隆のときにそう言っている。国防費にかんする記述部分とあわせて、いま仲良く並んで没落しつつある帝国同士、米国と日本の政治家たちに読ませても仕方がないが、中国の次世代の人々に読ませたい。  2012630日)

2012/06/14

読む・読もう・読めば 119

魚が出てきた日

63日夕刻から、千葉県いすみ市大原漁港にイワシの群れが押し寄せ、酸欠のためその死骸が港を埋め尽くした。イワシといってもメザシにするマイワシやウルメイワシとは違う、体長10から15センチくらいのカタクチイワシで、地元では「ゴマ漬け」にする。鰯という文字のとおりとても弱い魚なのですぐに痛み、大量に獲れても利用のしようがない。今回押し寄せたイワシは総量で200トンといわれ、漁協では回収して埋めたが、腐臭はなかなか消えない。港が汚染されたため魚を生かしたまま運ぶための海水が採取できなかったり、対応に人出を取られたりして、漁協は大迷惑だった。

というニュースはネット社会ではいちはやく拡がったが、まともに扱った全国紙は読売くらい、あとは地方版だけの小さな扱いだったようだ。テレビもフジ系のスーパーニュースで放映されたくらいだろう。これだけの量の魚の大量死はかなり珍しい事件なのだが、なぜ報道しないのか。なにか規制がかかったのか、と疑いの目を向けたくもなる。

ここで思い出されるのは1968年のギリシア・イギリス共同製作の映画「魚が出てきた日」。「その男ゾルバ」のカコヤニス監督作品だ。66117日にスペインの地中海側の漁村パロマレス上空で起きた、水爆搭載の米爆撃機が給油機と空中衝突して墜落した事件を下敷きにしている。現実の事件では4個の水爆のうち2個が、核爆発は起こさなかったものの地上にプルトニウムをまき散らした。1個は海中に没し、回収には3000人、33隻、80日を要した。米軍は当初核兵器事故であることを秘密にしていたが、1700人の兵を投入して放射性物質除去に当たらせたためにばれてしまった。このあたりは梅林宏道さんの『隠された核事故』(創史社、1989年)による。映画のほうはギリシアの島を舞台にしたコメディとして作られているが、最後の場面ではタイトル通り魚が大量に浮かび上がって来る。

福島原発事故で海を汚染し続けている放射性物質の量は、広島・長崎で拡散したそれよりも桁違いに多いと推定される。海の中で何が起こっているか分からない状況では、海の異変には敏感であるべきだと思われる。イワシが港に押し寄せた例はこの間、大原港だけでなく、同じ千葉県の太東、川津、松部の各港からも報告された。大量発生したイナダの群れに追われたとも言われるが、ではなぜこの間、イナダが大量発生している(からイナダもブリも市場価格が暴落している)のだろう。むろん無責任な憶測での発言は避けたいし、私は千葉県産の魚を食べ続けるけれども。   2012614日)

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